2015年03月23日

卒業おめでとう 2015

河野ゼミ11期のみなさん、卒業おめでとう。
この2年間、君たちをすこしでも知ることができ、また君たちにボクをすこしでも知ってもらうことができ、よかった。できれば、もっとたくさんの、そしてもっと濃密な時間を過ごしたかったけれども、君たちと出会ったちょうどその頃から、ボクにはもうひとり大事な人がこの世界に誕生したので、なかなか思うようにいかなかった。しかし、それもまた、ボクの、そして君たちの人生の一コマだったんだ、と受け止めてください。
大学を卒業すると、君たちは社会の波に否応なく巻き込まれ、大学で学んだことなど、すぐ忘れてしまうかもしれない。ボク自身、まわりの同僚たちにくらべたらはるかに口うるさく、君たちに対して「そんなこと、社会に出たら通用するわけないだろ」というような叱咤を飛ばして、大学生から社会人への移行がうまくいくように、教育してきたつもりです。
しかしね、大学を卒業しても忘れてはならないメッセージというものも、やっぱりあるんだよ。それはね、なんでも効率を追求しなければならないとか、今日すぐ結果につながらないことには意味がないとか考えてしまう誘惑から、ちゃんと距離を保ちなさい、というメッセージ。単純に帰結主義的で近視眼的な思考(志向)は、多様な可能性の芽を摘み、人間を画一化するだけです。もしそのような誘惑ないし圧力に屈してしまうなら、君自身の人生そのものがつまらないものとなるばかりか、君が暮らしている社会も、活力を失ったものとなってしまう。
とりわけ昨今の政治的風潮は、「成長」を最優先し、「成長」につながらない研究や教育をないがしろにしようとしている。しかし、まったくあべこべであって、個々の好奇心から湧き出てくる自由な発想を「成長」と関係なさそうだと切り捨てる政策こそが、むしろ本当の成長を阻害し、ひいては国を滅ぼすことになるのです。このことを、どうか肝に銘じておいてください。そして、社会の歯車の一つとなっても、いや社会の歯車の一つとなった時にこそ、それを思い出してください。

卒業にあたって、今年はジェームズ・マディソンの以下の言葉を贈ることにします。

The advancement and diffusion of knowledge is the only guardian of true liberty.

卒業に、そしてこれからの幸せな人生に、乾杯!

2014年04月05日

変わること、変わらないこと

この1ヶ月の間に、ボブ・ディランとローリング・ストーンズのコンサートに行ってしまった。ストーンズは、なんと、二度も行ってしまった。別に音楽に能書きなんていらない、と思うかもしれないけど、ボクは、いろいろなことを、考えさせられてしまった。
まず、ストーンズ。ミック・ジャガーって、「この人、ふだん、何食ってるんだ?」ってうなるほど、エネルギッシュなステージだった。70歳ですよ、この人。にもかかわらず、2時間半(2曲だけキース・リチャーズにヴォーカルを任せた以外は)、ステージの端から端までを、ずっと走り回っていた。で、絶対に、息が切れたなんていうそぶりを見せない。エンターテイナーとしては完璧。すごい。ミック・ジャガーを生で見たせいで、ホント、次の日から、ボクは駅の階段を2段飛びするようになったもんね(あはは)。
キースも、素晴らしかった。ボクが行った二回目は、布袋寅泰が飛び入りで参加したのだが、その布袋のテクニックあふれる演奏に対して、キースはジャラーンと、一つのコードを鳴らすだけで、ステージを自分の方へ「持っていって」しまった(ボクと一緒にいったT・Y君の評)。年期が違うというか、何なんだろうね、こういうのって。やっぱり世界を相手に生きてきた「人生の重み」みたいなのがモノをいうっていうのか、「技術」が「経験」にかなうわけないだろ、ってところを見せつけていた。
さて、一方のディランだが、彼のステージはストーンズと真逆。ストーンズは、「♪Its only rock ’roll, but I like it♪」を、ずーっと、ずーっとやり続けている、つまり「変わらない」ことが真骨頂なわけだけど、ディランの場合は、まったく逆に、一回たりとも、同じステージはみせるものかというポリシーを、意固地なまでに守り通している。最後のアンコールの「風に吹かれて」なんて、これまで何百回と演奏しているのに、おそらく一回も同じではないのではないか。これも、プロとして、完璧。不断に「変わる」こと、つまり常に何からも「自由」であることが、ディランの存在意義なのであって、だから、歌もヘタクソ、ピアノの腕なんか素人同然なんだけども、でも「オレは、絶対、何からも拘束されるもんか、そう、過去の自分(の栄光)からも拘束されるもんか」というメッセージが、ひしひしと伝わってきた。だから、ディランのステージは、(エンターテイメントとしての)音楽性なんかどうでもよくって、人間性そのものが前面に押し出されていたのであった。
で、ボクには、ずっと気になることがあった。ディランの魅力は、いうまでもなく、その歌詞、つまり詩にある。ところが、今の彼のボソボソと唄う唄い方では、会場にいた日本人の9割は、その意味を理解できるわけがない。では、いったい彼は、なんで日本でこれだけ多くのコンサートを開くのだろうか。ディランは、「この目の前にいる日本人は、オレの詩なんかわかる分けない」と思っているに違いないのである。でも、日本でコンサートを開く、その彼のインセンティヴは何なのだろうかと、ボクは考えていたのである。
その答えを、今回、ちょっとだけ、かいま見ることができたような気がした。それは、ディランが一曲目に選んだ曲にヒントがあった。それは、Things have changedという曲で、そのサビの部分は、次のフレーズが繰り返される。

I used to care, but things have changed.

そう、昔だったら、ディランは、自分の詩のメッセージが聴く者に届いているかについて、I used to careだったのだろう。でも、自分は変わった、もうdoes not careになった。なぜか。それは、やっぱり、自分のメッセージが届こうが届くまいが、自分は自分の好きなようにやらせてもらうよ、ということなのだと思う。ここには、生きざまとして、まぎれもなくendlessly free soulがあるのである。

2014年03月30日

朴大統領の反応について

最近行われた日米韓の首脳会談の記者会見の席で、安倍首相が韓国語で話しかけたのに朴大統領がそっけなかった、ということが話題になっている。で、このことについて「いや実はそっけなかったのは、テレビに映っているときだけで、会談の時は握手もしたし、笑顔だった」ことが明らかにされている。そして、このことから、もっぱらメディアでは「だから、朴大統領の反応は国内向けのものであった。日本に対し妥協したことを見せると政治的コストが大きいからそうしたのだろう」というような解釈が引かれている。
ボクは、こうした分析は、間違っている、というか、一歩足りない、と思う。
まず、朴大統領の行動が単純に韓国国内での政治的コストを考えた上での行動であったのなら、(カメラの入った)会見の時であろうと、(カメラの入らない)会談の時であろうと、ずっとそっけない態度を貫く必要があったはずである。(上記の報道がまさにそうであるが)、朴大統領が外向きの顔と内向きの顔とを使い分けていたという情報がもれてしまえば、韓国国内の対日強硬派は「なんだ、やっぱり朴大統領は妥協したのか」と反発するにちがいないからである。ボクには、そうした対日強硬派が、テレビの画面に映っている時だけ建前的にそっけない対応をしていてくれればよい、などと考えているようには思えない。
さて、ということは、どういうことか。ここには、二つの可能性しかない。第一の可能性は、朴大統領が、会見時の厳しい顔と会談時の穏やかな顔とを使い分けるという情報が外にもれるとは、よもや思っていなかった、という可能性である。もしそうした情報統制がうまくいく(と信じていた)のであれば、表向きにそっけない顔をすることで、彼女は政治的コストを免れる(と信じていた)ことになろう。しかし、実際は、この二つの顔の使い分け自体がニュースになってしまったわけであるから、この情報統制はみごとに失敗した、といわなければならない。ということは、この第一の可能性を論理的につきつめると、朴大統領はそのような情報統制ができるという錯覚に陥った、つまり彼女が判断ミスをした、ということでなければならないことになる。ま、そういうこともありうるかもしれないけれども、ボクには朴大統領(および彼女のまわりにいるスタッフ)が、それほどナイーブだったとは思えない。
第二の可能性は、第一の可能性とはまったく逆に、二つの顔を使い分けるということ自体がニュースになることをあらかじめ十分承知の上で朴大統領はそのような対応をした、という可能性である。こちらのシナリオが正しいとすれば、朴大統領は、たとえ二つの顔の使い分けがばれて国内的に反感を買うようなことがあっても、それを甘受する用意があったということになる。国家と国家の外交においては、このような表の顔と裏の顔を使い分けることはよくあることである。だから、彼女は、むしろあからさまにその使い分けをみせることによってあるシグナルを送っていたと考えることができる。そして、ここが最も重要な点であるが、その送ろうとした相手は、けっして(上記のメディア解釈が示唆するように)韓国国内の対日強硬派だったのではなく、日本だったと考えるべきなのである。
そのシグナルの意味するところが何なのかは、この首脳会談に至る水面下の交渉が不断に行われているわけであるから、このひとつの事例だけからでは正確には判断しようがない。ただ、それが「私だって対日関係を改善したいのよ。(だけれども、国内の強硬派が簡単にそうはさせてくれないのよ。)」という、いってみれば自国の内情の率直な告白であった可能性は十分にあると、ボクには思えるのである。

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