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2009年11月21日

密なることとは

日米の間に核の持ち込みや沖縄についての密約があったそうである。自民党政権は長年そんなものはないと否定してきたが、政権交代を成し遂げた民主党の岡田外相がそれを肯定することになったと報じられている。
また、官房機密費なるものについても、最近のニュースのなかで、よく取り上げられている。こちらも、民主党政権になり、その額とタイミングが平野官房長官によって明らかにされていた。ただ、官房機密費は、新しい政権もこれから使っていくのだそうである。平野さんは「(費用の)性格上、使途をオープンにすることは考えていない。私が責任を持って適切に判断していく」と述べ、民主党政権でも使途を非公開とする意向を示した、と伝えられている。
ボクは、個人的には、民主主義という政治体制を選択している限りは、外交や政治については、すべてのことを公開していくべきだと考えている。もしそうでないならば、主権者である国民をさしおいて、「特権的に」情報をもっている人がいてもいいと認めることになる。そのような政治体制は、定義上、エリート主義的もしくは権威主義的であって、民主主義的ではない。ただ、ボクは、別にいますぐに公開しなければならないと思っているわけではない。いつか年月がたったら、すべてを公開する、すべてを淡々と公開するということにしておけば、それでよいと思っている。
こういうことを主張すると、必ずといっていいほど、一部の外交専門家とか政治評論家とかを自称する人たちから、「外交や政治というものには、秘密がつきものだ」という反論が返ってくる。こういう人たちは、自分自身が外交官や官僚出身のエリートだったりするので、たいていしたり顔というか、上から目線で、「外交や政治は専門家にまかせておいた方がベターなんだよ」という言い方をする。ま、こういう人たちはまともに国際関係論とか政治学を勉強したことがないのだろうけど、「秘密」外交を展開した方が国益に適うかどうか、あるいは情報をオープンにし「観衆費用(audience cost)」を高めることで相手に対する信頼性を高めることになるのではないか、といった点については、すでに膨大な理論および実証の学術的蓄積がある。そして、今日までのところは、公平にいって「どちらともいえない」というのが結論である。つまり、必ずしも情報公開をした方がよいともいえない代わりに、秘密を保つことが外交や政治にとっては必要であるなどと単純に考えることはけっしてできないのである。
さて、ボクが今日いいたいことは、実はこの先にある。百歩譲って、外交や政治には秘密が必要だというエリート主義的立場にも一理あるとしよう。それでも、やっぱり、いまニュースで話題になっている日米密約や官房機密費については、すべてさらけだして公開すべきだ、とボクは思う。なぜか。それは、秘密であるということは、単にその内容が秘密であるだけでなく、そのような秘密が存在するという、もう一段高次のメタレベル情報も秘密でなければ、意味がないからである。たとえば、(あんまりいい例ではないが)夫が妻に隠れて浮気をしているとする。この時、夫は「誰といつ、どのように浮気しているか」ということだけを秘密にするのでは意味がない。夫は、そもそも「浮気をしている」などということを妻に予想だにさせないぐらいに、秘密にしておかなければならないのである。たとえ「誰か」を特定できなくても、「誰かと浮気している」と思われた瞬間に、その秘密はバレタと思わなければならない。
だから、「官房機密費」などという名前自体、滑稽な定義矛盾であるというほかない。「機密費」という項目のついた費用が予算に計上されていることが、機密であるわけがないのである。

2009年11月01日

コンファメーションについて


チャーリー・パーカーが残した名曲のひとつにConfirmationというのがある。テンポが速く、音階も広くてJazzの難曲のひとつとされる。コンファメーションというのは、英語で「確認する」とか「確約する」とかいう意味である。ボクはこの曲になんでそのようなタイトルが付いているんだろうと、気になってネットでいろいろ調べたことがあった。しかし、結局答えはみつからなかった。マンハッタン・トランスファーがジョン・ヘンドリックスの付けた歌詞でこの曲を歌っていて、それは「ジャズっていいねえ」ということをこの曲でチャーリー・パーカーが確認したかったんだというような内容になっているが、どうもその解釈は違うような気がする。それよりは、この曲があまりにむずかしいので、「これがちゃんと吹けたら、一人前として認めてやる」というメッセージを、彼が送りたかったのではないか、と、ボクは一応のところ解釈している。
ところが、この前ふと、もしかしてこのConfirmationというタイトルには、もうひとつ別の意味が隠されているのではないか、と思うにいたった。それは、人間の行動についての、深層的というか哲学的というか、そういうレベルの話である。そして、それはボクの研究している政治学とか政治経済学とかと、根本的なところでつながっている、と空想が広がってしまった。
ボクらの業界では(←つまり研究者のあいだでは、という意味)、一般に、人間は自分の満足を高めたり効用を最大化したりする存在だ、と考えられている。たとえば、同じ金額を払うのであれば、質の悪いB社の製品よりは、質のよいA社の製品を手に入れたいと思うであろうし、同じ質の製品であれば、価格の高いB社よりは価格の低いA社を選ぶだろう、というわけである。もちろん、世の中には自分ではいかんともしがたい(たとえば給料とかの)制約がいろいろある。だから、無制限に自分の欲望を満たすような選択をすることはできない(そんなことをしたら法律という制約に引っかかって刑務所に入れられることになる)。ただ、すくなくとも既存の制約の範囲内では、人間は自分にとってもっとも良い(と思える)合理的な選択をしている、と考えられているのである。
しかし、ボクの経験では、どう考えても自分では合理的とは思えないような行動をしているときが多い。おそらくボクだけでなく誰もがそういう経験をしたことがあるのではないかと思うが、たとえば、何度いってもあの店のカレーライスは不味いなと思いながらも、どういうわけかその店にいってカレーライスを注文してしまうとか、あるいは、どう考えてもこういうタイプの異性と付き合ったら傷ついて破局をむかえるだけだとわかっているのに、なんども同じタイプの異性を好きになってしまう、といったように、である。このようなわれわれの行動を、満足や効用の最大化原理によって導かれていると考えることは、なかなか(かなりのこじつけをしない限り)むずかしい。
そこでボクがふと思いついたのは、人間の行動というのは、すべてわれわれのConfirmationへの欲求によって突き動かされているのではないか、ということなのであった。つまり、不味いカレーライスを食べにいくのは、そういう行動をとることで「ああ今日もやっぱり不味かったなあ」と、自分の評価が正しかったことを確認したいからなのではないだろうか。同じタイプの異性と付き合ってしまうのは「ああ今回もやっぱりだめだったなあ」と、自分の見通しが正しかったことを確認したいからなのではないだろうか。そうすると、こうしたネガティブで自己破壊的な行動のみならず、一見合理的だと考えられる行動も、同じ論理で説明できることに気づく。つまり、おいしいカレーライスを食べたいと思い、おいしいカレーライスを出してくれる店にいくのも、「ああここはいつ来てもおいしいなあ」という、自分の(ポジティブな)評価が正しかったことを確認したいからなのではないか、ということなのである。
Confirmation。そのようなことを考えつつあらためてこの曲を聴いていると、うーん、やっぱりオレの発想も捨てたもんじゃない、と自己満足的に自らの才能を再確認している自分がいるのである。