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コンファメーションについて


チャーリー・パーカーが残した名曲のひとつにConfirmationというのがある。テンポが速く、音階も広くてJazzの難曲のひとつとされる。コンファメーションというのは、英語で「確認する」とか「確約する」とかいう意味である。ボクはこの曲になんでそのようなタイトルが付いているんだろうと、気になってネットでいろいろ調べたことがあった。しかし、結局答えはみつからなかった。マンハッタン・トランスファーがジョン・ヘンドリックスの付けた歌詞でこの曲を歌っていて、それは「ジャズっていいねえ」ということをこの曲でチャーリー・パーカーが確認したかったんだというような内容になっているが、どうもその解釈は違うような気がする。それよりは、この曲があまりにむずかしいので、「これがちゃんと吹けたら、一人前として認めてやる」というメッセージを、彼が送りたかったのではないか、と、ボクは一応のところ解釈している。
ところが、この前ふと、もしかしてこのConfirmationというタイトルには、もうひとつ別の意味が隠されているのではないか、と思うにいたった。それは、人間の行動についての、深層的というか哲学的というか、そういうレベルの話である。そして、それはボクの研究している政治学とか政治経済学とかと、根本的なところでつながっている、と空想が広がってしまった。
ボクらの業界では(←つまり研究者のあいだでは、という意味)、一般に、人間は自分の満足を高めたり効用を最大化したりする存在だ、と考えられている。たとえば、同じ金額を払うのであれば、質の悪いB社の製品よりは、質のよいA社の製品を手に入れたいと思うであろうし、同じ質の製品であれば、価格の高いB社よりは価格の低いA社を選ぶだろう、というわけである。もちろん、世の中には自分ではいかんともしがたい(たとえば給料とかの)制約がいろいろある。だから、無制限に自分の欲望を満たすような選択をすることはできない(そんなことをしたら法律という制約に引っかかって刑務所に入れられることになる)。ただ、すくなくとも既存の制約の範囲内では、人間は自分にとってもっとも良い(と思える)合理的な選択をしている、と考えられているのである。
しかし、ボクの経験では、どう考えても自分では合理的とは思えないような行動をしているときが多い。おそらくボクだけでなく誰もがそういう経験をしたことがあるのではないかと思うが、たとえば、何度いってもあの店のカレーライスは不味いなと思いながらも、どういうわけかその店にいってカレーライスを注文してしまうとか、あるいは、どう考えてもこういうタイプの異性と付き合ったら傷ついて破局をむかえるだけだとわかっているのに、なんども同じタイプの異性を好きになってしまう、といったように、である。このようなわれわれの行動を、満足や効用の最大化原理によって導かれていると考えることは、なかなか(かなりのこじつけをしない限り)むずかしい。
そこでボクがふと思いついたのは、人間の行動というのは、すべてわれわれのConfirmationへの欲求によって突き動かされているのではないか、ということなのであった。つまり、不味いカレーライスを食べにいくのは、そういう行動をとることで「ああ今日もやっぱり不味かったなあ」と、自分の評価が正しかったことを確認したいからなのではないだろうか。同じタイプの異性と付き合ってしまうのは「ああ今回もやっぱりだめだったなあ」と、自分の見通しが正しかったことを確認したいからなのではないだろうか。そうすると、こうしたネガティブで自己破壊的な行動のみならず、一見合理的だと考えられる行動も、同じ論理で説明できることに気づく。つまり、おいしいカレーライスを食べたいと思い、おいしいカレーライスを出してくれる店にいくのも、「ああここはいつ来てもおいしいなあ」という、自分の(ポジティブな)評価が正しかったことを確認したいからなのではないか、ということなのである。
Confirmation。そのようなことを考えつつあらためてこの曲を聴いていると、うーん、やっぱりオレの発想も捨てたもんじゃない、と自己満足的に自らの才能を再確認している自分がいるのである。