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2008年11月29日

サンフランシスコ再訪2008

ボクの大好きな街サンフランシスコを、また訪れることができた。今回は、結構めんどくさい仕事のための出張で、のんびりというわけには行かなかったが、それでも時間の許す限りお気に入りの場所を再訪した。
まずは、ノースビーチ。うん、なにはともあれノースビーチ。いいねえ、やっぱり、このイタリア人街。そうそう、このブログで紹介したのはもう何年も前になるが、ボクが大好きなチーズケーキの店の名前を間違えて覚えていたことに今回気づきました。正しくはカフェ・グレコ(Greco)で、前に書いたプッチーニはそのお隣さんだった。ま、ボクのブログを読んでお店を訪ねたという人はいないと思うけど、万が一そんなことがあったらごめんなさい。
で、カフェ・グレコのレアチーズケーキは、相変わらず素晴らしかった。短い滞在だったのに、計3回も行ってしまった。店の人にはチョコレートチーズケーキもすすめられたが、毎回やっぱりレアの方にした。またしばらく来れなくなるのかと思うと、本当に悲しくなって、最後は小さく小さく切って、名残りを惜しむかのように食べた。
続いて、コロンブス通りのピザ店Osteria。ここも、実は、2回も行った。イタリアンソーセージのピザが、もう圧倒的にうまい。2回目のときは、デザートはいいのか、とオーナーが聞いてきた。いや、これからカフェ・グレコに行ってチーズケーキを食べなければならない、といったら、それは残念だ、ウチのティラミスは最高だぞ、という。どうしようかなと迷っていると、まずいと思ったら金をとらないからどうだ、といわれたので、そこまでいうならと挑戦してみた。そしたら、これも本当によかった。ラムだかブランデーだかがよくクラストに染みていて、チーズクリームがフワフワ。でも、グレコのチーズケーキもその後やっぱり食べることにしていたので、なんだか浮気をしている気分だ、といったら、オーナーが笑っていた。
次は、例の一期一会の店、サウサリートのAngelino。車を借りるつもりがなかったので、当初は行けないなとあきらめていた。ところが、今回お目にかかる必要のあったUCデーヴィスのモンティノーラ先生が、どうせなら車をだすから、あなたの好きなレストランに行きましょうといってくれた。それで、おそるおそるサウサリートなんだけどいいかと聞いたら、快諾してくれた。彼女の友人たちも交えた、にぎやかな楽しい夕食会になった。テーブルに着くなり、ボクはマッシュルームトマトソースのかかったラヴィオリがメニューにあるかどうか確かめた。そしたら、残念なことに、ない。ウェイターにきいたら、ラヴィオリではないが、同じソースで、リコッタとほうれん草をつめたカナロニが今日のスペシャルだ、というので、ボクは迷わずそれにした。そしたら、あとの5人のうち3人までがボクと同じものを注文することになった。期待にたがわずおいしく、みんな納得して食べてくれた。紹介したボクは、鼻高々だった。あと、ここでは今回も一期一会を経験してしまった。それは、前菜として注文したカラマリ。これも、もう絶品でした。ああ、また食べたい・・・ああ、いま思い出すだけでも、口の中に唾液が溜まってくる、ああ・・・。
日本に帰る前の日は、雨だったけど、どうしてもまた歩きたかったので、Crissy Fieldに行った。ゴールデンゲート橋やアルカトラズ、野生の鳥、ジョギングする人々、そして沢山の犬たち。おかげさまで、素敵な想い出がまたひとつできました。ありがとうございました。

2008年11月28日

大先生たちとRedwood Cityでメキシカンを立ち食いする

スタンフォード大学のフーバー研究所でセミナーをやらせていただいた。名誉なことで、しかも久しぶりの英語のプレゼンだったので、かなり緊張した。前日はホテルに缶詰状態で英語のパワポ作り。昼も夜もルームサービスで食事を済ませ、気がついたら12時間以上かかった。日本にいた共同研究者の荒井君は、彼からすれば「なにをいまさら」「そんなこともわかんないんですか」というようななりふり構わないボクからの問い合わせメールの殺到に、閉口した様子であった。それでも辛抱強くひとつひとつ教えてくれて、助かった。
セミナーの当日、聴衆は少なかったが、フェアジョン先生とワインゲスト先生が目の前に並んでどてんと座っておられて、正直ビビった。彼らは頭の回転が異常に速い。考えがいつもわれわれ普通の人の2歩か3歩先を行っている。こちらも緩急をつけたevasive maneuverをいろいろ用意したつもりだったのだが、それでもやっぱりいろいろなところでシッポをつかまれてしまった。もちろん、とてもためになるコメントも頂きました、ありがとうございました。
さて、セミナーのあとランチへ連れて行ってくれるということになっていたので、ボクはてっきり大学のファカルティークラブにでも行くのかと思ったら、メキシカンに行こうということになった。フェアジョン先生が運転してくれて、同乗者はボクとワインゲスト先生と共通の友人の4人。知っている人は知っているが、フェアジョン先生はフットワークがとても軽く、特に食に関してはおいしいものなら時間をかけてでもどこへでも追いかけて行く。今回も、スタンフォード周辺のメキシカン料理店は眼中になく、はじめからレッドウッドシティーまで足を伸ばすつもりでいた。
レッドウッドシティーは、スタンフォードから車で20分ぐらいの、メキシコ系の人々が多くすんでいる町である。エルカミーノ街道をはさんで西側にはアサトンという高級住宅街が広がっているが、東側には庶民的で安い店がいっぱいならんでいる。その中でも、われわれが目指したのは、トラック(つまり屋台)の店。先生は、運転しながら「今日はいるかな・・・いるとしたら、あそこが一番おいしいんだがな・・・」とつぶやいている。ボクは、よくもまあそういうB級、いやC級グルメ店までおさえているな、と感心していた。
で、ありました、ありました、その店。なんと廃業したガソリンスタンドの敷地にトラックを引き込んで、商売をしている。手作りの小さめのトーティアが、先生のお気に入りの理由である。そして、牛タンとか内臓とか、これまでボクが食べてきたメキシコ料理店ではお目にかかれないtacosメニューが取り揃っている。ボクは先生と同じものを4つ注文した。座るところはなく、みんなで立ち食い。先生が全部払ってくれたのだが、飲み物4本を含めても、20ドルもしない。「これならフーバーに付けるまでもないか」、「いや、付けようと思ったって領収書をもらってないぞ」、「どうだ、マサル、すごい歓待だろう、アハハハ」などと、会話が楽しく続いた。
その帰り道、フェアジョン先生はワインを買いたいと、どうやら行きつけらしい専門店に立ち寄った。そうしたら、そこで、フェアジョン先生もワインゲスト先生も、感謝祭が近いということもあって、それぞれ何百ドルというほどのワインとシャンパンを買い込んでいった。この大胆な買い物の仕方も、とても印象的だった。
高かろうが安かろうが、屋台だろうが専門店だろうが、おいしいもの、よいものにとことんこだわりをもつこの大先生ふたりの姿は、セミナーでの彼らの鋭いコメントと同じぐらい、ボクにとって刺激となった。

2008年11月21日

ピザの想い出

日本ではじめてピザを食べたのは、高校生のとき、渋谷の公園通りにあったシェーキーズだった。だいたい当時の日本には、シェーキーズぐらいしか、ピザの専門店がなかった。どこの学校も文化祭シーズンで、その休みを利用し、ある女の子とどちらも制服のまま店に入っていった。長テーブルに赤と白のテーブルクロス(といっても紙)が引かれていたのが印象的だった。その「デート」で気に入って、シェーキーズはそれから何度か利用した。たしかその頃は、お昼に行くとピザが食べ放題。焼きたてのピザがカウンターに出てくるとはそれを取りにいってガツガツと食べた。横にガーリック味のポテトもおいてあった。
アメリカにはじめて留学したときには、ホストファミリーの弟と教会の帰りに、ピンボールマシンのおいてあるピザ店へよく行った。そこは、教会のユースグループのたまり場になっていて、必ずみんなペッパローニを注文した。そして、ペッパローニをかじりながら、ピンボールの腕を競っていた。でも今思うと、そこのピザはおいしくはなかった。
ピザの良し悪しがわかるようになったのは、スタンフォードに行ってからである。まだ着いて間もない頃、先輩たちが新入生歓迎の集まりをOasisというスポーツバーのようなところで開いてくれた。実はピザの専門店ではなくハンバーガーが旨いということで知られていたらしいが、そこで出てきた焼き立てのピザを食べたとき、ボクは自分の中でのピザの概念が変ってしまった。薄いクラストの上にチーズがふんだんにのっていて、それまで食べてきたピザとはまったく次元の異なるピザであった。そこ以外にも、スタンフォードのキャンパスの周りには、旨いピザの店がたくさんあって、しかもいろいろ個性のあるピザを楽しむことができた。
スタンフォードでは、友人たちと集まって宅配ピザもよく取った。ただ意地でも注文しなかったのは、今や日本でもチェーンを展開しているドミノであった。当時の噂では、ドミノのオーナーが中絶反対のキャンペーンに巨大な寄付をした、ということだった。女性が中絶する権利をもつのは当たり前だとボクも思っていたので、そういうことならとボイコットに加わった。ボクの大好きなコメディーSeinfeldに、ドミノとは名指ししていないが、あるピザのチェーン店が中絶反対派であることをたっぷり皮肉ったエピソードがある。面白いので、よかったら見てください。
さて、2年ほど前には、全米でも有名なあるピザ店を訪れることができた。イェール大学でシンポジウムを行ったとき、日本からお招きした慶応の阿川尚之先生と京都の待鳥聡史先生たちが、(主催者のひとりであった)ボクを慰労するという名目で、ある有名なピザ店に連れて行ってくれたのである。そこはクリントン元大統領も気に入っている店というだけあって、さすがにおいしかった。
最近、バンクーバーでピザを食べるときは、だいたいいつもブロードウェイのNat’sである。ニューヨークのイタリア人街をイメージした小さな店で、通りがかりにスライスを一枚買っていく人もいれば、小さな子供を連れた家族がディナーを楽しんでいることもある。ここでは、なんといっても、the 5th Avenueという、ほうれん草、オニオン、トマトとたくさんフェタチーズがのっているピザが最高においしい。この命名がこの店独特のメニューなのか、それとも「フィフスアヴェニュー」といえば、どこのピザ店でも通じるものなのか、ボクはいまだに知らない。いずれにしても、同じようなピザを、日本ではまだ見たことがない。
海外でしか食べられないおいしいものが残っているということは、われわれに人生を豊かにしてくれる貴重な経験を与えてくれる。それはまた、俗にいうグローバル化なる現象がいかに表層的なものであるかをよく物語っている。

2008年11月18日

叙事詩「彼」

自ら漫画本を手にすることを公言したり遊説の第一声を挙げる場所としてわざわざ秋葉原を選んだりすることであたかも自分が新しい感覚の持ち主であることを印象付けられるのではないかなどととんだ勘違いをしているかにみえるその彼に最初は面白がって付き合ってみたもののそのうち「前場」を「まえば」と言い「有無」を「ゆうむ」「詳細」を「ようさい」「踏襲」を「ふしゅう」などと小学生でも間違えないような漢字の読み間違えを連発ししかもその失態を苦し紛れに「ああ単なる勘違いハイ」とかわそうとするばつの悪い姿を見せ付けられるとその彼を選んだ支持者たちですらいくらなんでも本当に大丈夫なのかと心配になってくるのも無理のないことであろうけれどもわれわれ一般人から見るとどうみても何かのコンプレックスからくるとしか思えないそのあからさまな虚栄心が自らの教養の低さを棚にあげて記者に対して「知らないで質問なんか(するな)」などと威張ってみせたりするところあるいは答えに窮すると公式のインタヴューであっても唐突に不機嫌を装い第一人称をさす代名詞にわざと「オレ」といって下品を装ってみせる自分の下品に気がつかないところさらにはスーパーを視察と称して訪れてはみたもののカップラーメンの値段ひとつろくに知らずに見え透いたパフォーマンスのちぐはぐさをいとも簡単に露呈してしまうところそしてそのような日常的感覚の欠如がなにより育ちの悪さの産物であるにもかかわらずどこかでそれを自分の血統の良さの証明であるかのように誤解しているようなところなどなどこれらはすべて見事なまでに滑稽でありアメリカのサラペイリンがそうであったように宴会や余興の席で多くのパロディのネタを提供してくれて純粋に楽しめないこともないのであるがしかし今回の経済危機の打開策として「定額給付金」を緊急に決定した際にはその条件として「公平性」が入っていたにもかかわらずいつのまにかそれが抜け落ち「迅速性」と「利便性」ばかりを前面に押し出すようになりしかも政策の根拠の変化について質問されても片意地張って知らんぷりを貫き通そうとする姿をみると滑稽も度を越して醜さに転じ多少こちらにも意地悪心が働いて「あなたはロールズを読んだことがありますか」とか「あなたは社会契約説をどう理解しているんですか」などという彼にしてみればおそらく答えることのできないむずかしい問いを投げかけてからかってみたくもなってくるのであるがただそれにしてもだからといって彼が政治家として不適格であるとか最低だなどというつもりはもちろん毛頭なくむしろ彼こそは現代の政治学が描く政治家の真髄をきわめて典型的に表している人物であり実際いかに政治家という職種の人々の行動が選挙で勝つことと役職に居座ることというふたつの動機のみによってつき動かされているかという命題をこれほどまで教科書通りに描いてくれる人は彼をおいてほかにいないのであって大学において政治学を教える者としては使い勝手のよいまことに格好の題材を提供してくれている彼のそのきわめて単純でわかりやすい行動原理にただただ心から感謝するばかりである。

2008年11月06日

歴史的演説から

以下は、2008年11月4日、次期アメリカ大統領に決まった民主党候補バラク・オバマ氏の勝利演説の一部を翻訳したものである。このような瞬間に、同時代人として立ち会うことができた幸運に心から感謝したい。

この選挙では、「初めて」ということがたくさん起こり、これから何世代にもわたって語り継がれていくであろう多くの物語がうまれました。しかし、今夜、私の心にあるのは、アトランタで一票を投じたある女性のことです。この方は、今回の選挙で自らの声を聴いてほしいと長い投票所の列に並んだ何百万の一人です。しかし、一点だけ、彼女はほかの人と違っていました。このアン・ニクソン・クーパーさん、106歳なんです。
彼女が生まれたのは奴隷制が終わってすぐの時代、まだ車も飛行機もない時でした。そして、それは彼女のような人が投票できなかった時代でした。その理由は二つ。ひとつは彼女が女性だったから。そしてもうひとつの理由は彼女の肌の色でした。
今宵、私は、彼女がこの百年の間にアメリカで見てきたことに思いをはせるのです。失望と希望。闘争と進歩。「そんなことできるわけない」といわれた時代、しかしそれでもアメリカの理想を掲げて、前へ進もうとした人たち。
Yes, we can そう、われわれにはできるのです。
女性たちの声が掻き消されその希望が捨て去られても、クーパーさんはその人生において、女性たちが再び立ち上がり、声を上げ、投票へ向かうのを見てきたのです。
Yes, we can そう、われわれにはできるのです。
砂嵐が猛威をふるい、全国に不況が襲ったとき、彼女は、ニューディールによって、新しい仕事に就くことによって、そして新しい共通の目標を分かち合うことによって、国民が自らの恐怖を退治するところを見ていました。
Yes, we can そう、われわれにはできるのです。
わが領土の湾が爆撃をうけ、暴政が世界を脅かしたときも、彼女は偉大な世代が立ち上がり、民主主義が守られるのを目撃していました。
Yes, we can そう、われわれにはできるのです。
彼女は、モンゴメリーのバスにも、バーミンガムの放水の中にも、セルマの橋にも居合わせました。そして、アトランタから来た牧師が「乗越えていこうではないか(We shall overcome)」と人々に説いたときにも、そこにいたのです。
Yes, we can そう、われわれにはできるのです。
人間は月に降り立ち、ベルリンの壁は崩れました。世界は、科学とイマジネーションによってつながるようにもなりました。そして、今年、この選挙において、クーパーさんは自分の指をスクリーンの上で動かして、みずからの一票を投じたのです。なぜか。それは、彼女がこのアメリカで106年間、よいときも暗黒の時代も経験してきて、アメリカという国がいかに変われるかを知っているからです。
Yes, we can われわれにはできるのです。

2008年11月03日

内部情報はあてにならない、あるいは、S氏から夕食をご馳走になるという話

夏の終わりのある日、ボクは、学会のあったボストンからバンクーバーへ帰る飛行機の乗り継ぎでモントリオール空港にいた。ラウンジでメールをチェックしたら、アメリカ人の友人のSさんから「電話で話したい」という連絡が入っていた。はて何のことだろうと思って、バンクーバーの滞在先の電話番号を教えた。
Sさんは、日本語もできる知日派の若手研究者。実はオバマ候補のキャンペーンで働いており、オバマ候補へのブリーフィングのために日本の最新の政治情勢について報告書を急いで書かなければならない、ということだった。当時日本は、福田前首相辞任のニュースで混乱していて、オバマ陣営では日本に関する情勢分析を必要としていた。彼女は、それでボクに意見を聴きたいということだった。
バンクーバーについてから、ボクはSさんと長々と電話でしゃべった。その中ではっきりと言ったのは「これで総選挙の時期が来年以降にずれこむことになるだろう」という予測だった。ボクは「麻生さんが首相になりそうだが、彼はすぐ解散にうって出ても負ける可能性が高いと思っている。そうすると、彼の政権は三日天下で終わってしまう。政治学の常識から考えて、自らの任期を縮めるような選択をするわけはない」といったのである。彼女も、ボクのこの分析に同意してくれ、そのように報告書を書くといってくれた。
さて、それから1-2週間すると、日本では解散総選挙が近いという報道で一色になった。ボクの同僚のT先生などは、新聞記者さんたちと仲がよく、その内部情報に基づいて総選挙は「○月X日だそうです」ときっぱりといっていた。Sさんに、年内解散はないと言っちゃったボクは、あせり始めた。しばらくして、彼女から「どうやらわれわれの予測は間違っちゃったみたいね」とメールが入ってきた。あーあ、やばい。これでSさんの、ひいてはオバマ陣営からの信頼を失っちゃったな、と滅入った。
ところが、ところが、(エヘン)、ちょいと、みなさん、やっぱりボクの予測、正しかったじゃないですか。麻生さん、いま、まったく解散しそうにないですよね。経済危機を口実にして、総選挙のタイミングを遅らせ、自分の在任期間を少しでも長くしようとしている。最近では、消費税アップのことまで持ち出して、与党のなかでも総選挙をやりにくい状況を着々と作り出すアジェンダセッティングもしている。ボクは、まえに『論座』の対談で、政治を分析する上では、現場主義に基づいて収集された内部情報というのは当てにならない、もっと理論的に考えることが重要だ、ということを言ったのだけれども、今回の話はまったくそのことを裏付ける形となった。11月に選挙がなさそうだということになり、Sさんは、ボクの分析に基づいた報告書のおかげで、仲間からの信用を勝ち取ることができた、と感謝してくれた。よかった、よかった。
ボクは、Sさんがオバマ陣営で働いていることを公表していいものかどうか迷っていたが、きのうNHKの番組をみていたら、日本の在ワシントン大使館がオバマ候補側の知日派として考えている人々の中にちゃんと彼女の写真が入って紹介されていた。そのことをメールで知らせると、早速返事がきた。彼女は、日本の駐米公使と総選挙のタイミングで賭けをして勝ち、夕食をおごってもらったそうである。
「あなた(ボク)にいわれたことに従って、自分の主張を曲げないでずっといたの。今度は、私があなたに夕食をおごらなくちゃね。」
エヘン。