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2012年08月24日

町の適切な規模について

久々にカナダのバンクーバーを訪れて、あらためてこの町の素晴らしさを実感している。海あり山ありという自然のランドスケープの見事さはいうまでもない。それ以上に、そのランドスケープにぴたりとはまっている人々の風景が美しい。
たとえば、公園では、犬を散歩させている小学生とか中学生ぐらいの子供をよく見かける。おそらく、それが彼らに与えられたchore(家族の中での仕事)なのであろう。
カフェでは、ipodをききながら、大学生(と思われる若い人)たちが、分厚い教科書を読んだり、パソコンをたたいている。これからの自分の人生に、まっすぐ向き合っている感じがする。
バイシクリングをするカップル。ちゃんとヘルメットをかぶり、右折や左折のジェスチャーをして、交通規制を守っている。
そして、ベンチでゆっくりとおしゃべりしているリタイア仲間たち。ギリシャ系、あるいはポーランドなどの東欧系の顔をみることが多い。
なぜボクがこうした風景を美しいと思うのかというと、それぞれの人々の姿がバンクーバーという町を構成するピース(部分)のような、一種の調和があるかのようだからである。うまくいえないが、それぞれまったく異なった行動をとっているのに、彼らの行動のひとつひとつが、全体の中で位置づけされ、秩序づけられているという感じがする。バンクーバーには、いうまでもなく、いろいろな人種・民族背景をもった人が住んでおり、貧富の差もかなりはげしい。そうした多様性にかかわらず、バンク―バーという風景に、みんなしっくりなじんでいる、というように見えるのである。
いつもいうのだが、ボクは、町には適切な規模があると思っている。ボクの中では、その基準というのははっきりしていて、それは、人が一日行動していると思いがけなく知り合いに遭遇することが、午前と午後に一回ずつぐらい起こる、という程度の規模である。バンクーバーでは、実際そのぐらいの頻度で、かつての知り合いとか、娘の高校時代の同級生とかに遭遇する。
こうした遭遇が「人とつながっている」という安心感を与える。もちろん、防犯や青少年の非行抑止といった点においても、遭遇の可能性があるだけで、かなり効果がちがうと思う。そして、そのような遭遇によって、住んでいる町が自分たちのコミュニティーであることを実感できるようになると思う。自分が不特定多数の一人なのではなく、誰かから特定されるという期待が、町へのコミットメントを高め、自分たちの町だから、きれいにしていこうとか、自分たちの町だから子供たちがちゃんと育てられる環境にしていこう、とかいった気運が醸成される。
これは、日本でむかしからある「ご近所」という感覚と、似ているけれども、ちがうと思う。ご近所では、毎日顔を合わせることが当たり前のように期待される。しかし、重要なのは、思いがけなく遭遇する、ということにある。「思いがけない」という距離感が、必ずしも「ご近所」にはないプライベートな空間を担保しているからである。
いいかえれば、町は、広くなりすぎてもよくないし、狭くなりすぎてもよくない。それには、適切な規模がある、と思うのである。

2011年12月18日

ベルリン再訪

わが「現代日本社会システム研究所」(←なんと、ボクはこの研究所の所長なのである)とベルリン自由大学の研究者グループとが共催した国際ワークショップに参加するため、ベルリンを訪れた。
ベルリンに来るのは、2回目。
前に来たのは、1983年、まだ「壁」があった時代である。
チューリッヒの空港でEUへの入管審査を受けたとき、「ベルリンには前にも行ったことがあるのか」と聞かれたので、「83年、まだ壁があったときにね」と答えた。すると、その若い係官はとても意外そうな顔をしていた。「そういや、そんな時代があったんだっけかな」とでもいうような表情にも見えたし、「あんた、ずいぶん歳くってんだね」とでもいいたげな表情にも見えた・・・。ま、おんなじことなわけだ、どっちも。
西側に古くからあるサヴォイホテルに着く。明日の朝食をどうしようかと、チェックインしてくれた女性に「ベルリンにも、スターバックスなんて、あるんでしょうかね」ときいたら、2ブロック先にあるという。
もちろんである。スターバックスがベルリンにないわけがないのである。時代は変わったのである。
ただ、翌朝、結局ボクは、ホテルでビュッへ形式の朝食を取ることにした。そしたら、ソーセージとスモークサーモンが、ことのほかおいしかった。
午後、少し時間ができたので、タクシーをつかまえて、ブランデンブルグ門を超え東側のミッテ地区まで行ってくれと頼む。かつてチェックポイントがあったあたりを過ぎ、「壁」の後をなぞる煉瓦敷の線を横切った。
昔は、一日限りのビザをもらって、東側に入った。ビザは市内しか有効じゃなかったのに、ボクはポツダムまで電車に乗って行ってしまった。ポツダム会談が行われた建物を見学していたら、そこで英語を話す綺麗な女性に出会い、彼女がボクを案内してくれた。その方とは、日本に帰ってからも、しばらく文通が続いた。そう、文通。その頃は、メールもフェースブックもなかった。
・・・などと、想い出に浸りながら、東からブランデンブルグ門をめがけて歩く。門のすぐ手前に、ピカピカのスターバックスがあった。それは、EU議会だかEU委員会だかのオフィスのある建物の一階だった。
もちろん、昔はEUなどというものもなかった。そんなものが実現するなどと、誰も思っていなかった(多分)。やっぱり、時代は変わった。
門を超えて、帰りのタクシーをつかまえる。運転手に「どうしても、ブランデンブルグを歩いてくぐりたかったんだよ」と話かけたら、その人はなんとイギリス人だった。へぇー、ベルリンでタクシーを運転するイギリス人って、ほかにもいるのかと聞くと、3人ぐらい知っている、という。彼は、壁が崩壊したときすでに、この町に住み着いていたのだそうだ。「次の日は、大変だったよ、東ベルリンから自動車がたくさん入ってきちゃってね。」
時代は変わったのである。多分、そう、多分、よい方向に、変わったのである。

2010年04月11日

オーストラリアでの困難

かの田中愛治大先生の代役で、オーストラリアのブリスベンに行ってきた。ボクにとっては、生まれて初めてのオーストラリア体験である。ところが、これが、どたばたとヒヤヒヤの連続となった。
ま、正直言って、ちょっと高を括っていたところがあった。オーストラリアは先進国だし英語も通じるしね、とか。ほらよく言うじゃない、オーストラリアって、日本と時差がないから、行くのが結構楽だってね、とか。どこか勝手に自分で自分を納得させていたのである。心に油断とスキがあったのである。
そこに、しっぺ返しがきた。
生まれて初めて訪れる外国なので、もっとちゃんと用意周到勉強し、敬意を払うべきだった。
まずは、そもそも成田空港でのこと。チェックインしようと思ったら、JALのカウンターの女性に「ビザをお持ちでないようなので、チェックインできません」といわれてしまった。ビザ?オーストラリアに行くのにビザがいるのか?いるんですねー、これが。知らなかった。もう、ボクは顔面真っ青、頭真っ白。「どうしよう。せっかく3日3晩頑張って論文仕上げたのに…、ああ、田中先生になんて言い訳しよう…」。いろいろなことが脳裏を駆け巡った。と、そのとき、カウンターの方がいう、「あの、あちらのJTBさんで、まずビザを取得してきてください。まだお席に余裕はありますから、大丈夫です」。
はーん?
そうか。ビザって、別に、大使館や領事館に行って申請するわけじゃないんだ。急いでJTBにいくと、そこでは丁寧に対応してくれた。お値段は3000円少々。事前に知っていれば、自分でオンラインで申請できるビザなのである。なあーんだよ。それじゃ、ここにネットにつながっているパソコンがあれば自分でできたんじゃないかよ。3000円なんて、ちょっと高いじゃんかよ。なんでJALは「お向かいのJTBさんで、どうぞ」なんて、特定の旅行会社を名指しできるんだよ。やっぱりこの二つの老舗会社は、裏で結託してんじゃないのかよ…。などなど、いろいろいいたいことが即座に頭をよぎったが、それらをぐっとこらえ、ボクはあわててJALのカウンターに戻り、搭乗手続きをすませて、一目散にゲートに走って行ったのであった。
さて、そんなハプニングのせいで、ボクは第二のミスを犯した。オーストラリアドルに換金することを、まったく失念していたのである。それに気づいたのは、飛行機の中であった。しまった。ブリスベンに着くのは、朝の7時半だぞ。両替はまだ空いてないかもしれないぞ。しかも、ボクはホテルまでタクシーで行かなければならないぞ。クレジットカードが使えず、現金オンリーの可能性もあるぞ。あーあ、しまった。
しかし、ブリスベン空港につくと、幸いなことに、ボクのキャッシュカードが使えるATMがあった。そこでとりあえず100ドルをおろす。ついでにタクシーに乗り込むときにも、念のため「クレジットカード使えますか」と聞く。すると、なんのことはない、クレジットカードも使えるとのことだった。なあーんだよ、ぜんぜん、大丈夫じゃんかよ。別に心配することなんか、なかったじゃんかよ…。
ひと安心していると、タクシーの運転手がしきりに話しかけてくる。
「……ダアイ?……ドェイ……ダァ……デェイ?」

わからん。なにをいってんの、この人?ここ、英語しゃべる国じゃなかったっけ?
なんども聞き返してようやくわかってきたのだが、どうやら「こっちにいるあいだに、オージー・ルールズという、オーストラリアのフットボールがあるから、それを見に行け」と薦めてるらしい。それでボクは思わずきいてしまった、「ホワット、イズ、オージー・ルールズ?」。
これが、第三の失敗だった。
その運転手は、驚いた、というか、どうもプライドが傷つけられたようだった。
お前、オージー・ルールズを知らないのか、それも知らないで、よくもこの国を訪れているな、というような雰囲気がタクシーの中に充満した。ボクは話題をそらそうと、オーストラリアはサッカー強いよね、ほら、あのヒッピーみたいな髪型した、背の高い、ケネディーっているでしょ、あれいま、日本でプレイしているんだよ、とか、いってみたが、「ケネディって知らない」と一蹴されてしまった。
それでも、なんとかホテルまで着いた。支払ったのは50ドル。しかし、あとから分かったのだが、やっぱり吹っかけられていた。空港からは30ドルぐらいで着くはずなのだそうである。あーあ…、ま、しょうがないかな。オージー・ルールも知らなかったんだしな。もっと、ちゃんと勉強してくるべきだったな。敬意を払うべきだったな…。
さて、ホテルの部屋に案内されて、もうひとつ、ボクはミスを犯していたことに気づいた。オーストラリアでは、電源ソケットの形がまったく違うのである。これじゃ、パソコン使えないし、ヒゲも剃れない。それで、ホテルのフロントに電話して、変換器具を届けてもらうことになった。「18ドルです。お部屋につけておきますか?」
正直言って、今回、ボクはオーストラリアやブリスベンについてのガイドブックを一冊ももたずに、飛行機に飛び乗ったのであった。というわけで、事前の準備不足に、見事に祟られたオーストラリア初体験となったのであった。

2009年12月25日

ゼミ旅行in北海道

ゼミで北海道を旅行してきた。公式日程は2泊3日。総勢27人の大所帯が貸し切りバスで、札幌、小樽、旭川と移動した。とっても、とーっても、楽しかった。
実は、北海道では、北大の学生たちと交流をしたいと思って、前々から宮本太郎先生にコンタクトをとっていた。ところが、先生曰く、北大の学部ゼミは早稲田のような濃密な人的ネットワークに根ざしているわけではなく、しかも少人数なので、釣り合わないかもしれない、ということだった。で、ゼミ交流は断念することになったのだが、そのかわりに(ゼミ生たちが到着する前夜)ボクが宮本先生とサシで飲むという濃密な場を設定していただいた。お忙しく活躍していらっしゃる中、快くお時間を割いてくださり、ありがとうございました。
さて、ゼミ生たちが到着した一日目は札幌市内観光のあと、サッポロビール園で宴会となった。もちろんビールその他飲み放題。ジンギスカンも食べ放題。そしてわれわれは騒ぎ放題に騒いでいた。となりの席にいた中年女性4人組に悪いなあとヒヤヒヤしていたら、気を利かせたリョウマがちゃんとケアーしていた。宴たけなわ、ボクは「都の西北を歌ったらどうだ」と言いそうになったが、ソーやヨシオが本気にして肩組んで歌いだしちゃうぐらいに酔っ払っていたので、やめた。
次の日は、朝早くから小樽方面へ。雪の降る中、運河のあたりを散策したあと、みんなで寿司を食べた。それから余市のニッカ工場を見学。その待ち時間に雪遊びがはじまり、ナチやアンちゃんがキッタたちにつかまって雪の中に倒されていた。でも二人は(Mなのか)立ち向かっていき、見事にまた返り討ちにあうということを繰り返しながらもキャーキャー騒いでいた。ボクは傍で、彼ら、この光景を一生忘れられないのだろうなあ、と思いながら見ていた。
その日の夕食は札幌にもどって食べることになったのだが、その場に知り合いの宮本融氏を招き、いろいろお話していただいた。官僚時代のこと、北大で教えていらした時のこと、そして前回の選挙に立候補した時のこと。相変わらずパワフルで、学生たちには多いに刺激になりました。ありがとうございました。
最終日は、旭川。まずラーメン村で腹ごしらえ。その後旭山動物園へ。リョウタは孤高のヒョウにいたく感心していたようであった。フルジョウはオオカミのじゃれ合いにことさら感動していた。ボクは、シロクマのもぐもぐタイムで、バシャーンと飛び込んだところがよかったと思った。最後は、お目当てペンギンの行進をみんなで見て、締めくくった。
旅行中には、ボクの記憶に残ることになるゼミ生たちの言動や表情にいくつも出会えた。いつでもどこでも(とくに月夜の晩には?)肉食系なヨウヘイと、大学院に進学して勉強しようとしているイイクニが、意外にもめっぽう熱くなって大貧民ゲームに夢中になっているところ。一途まっすぐに告白したテル君が、その解放感からかちょっと飲んだだけですぐ寝てしまったところ。周りから銀行口座が赤になったとからかわれたオダギリが自分の財布を覗き込んでいるときの仕草。料理の話で盛り上がり「ロ—レルって、日本語だと月桂樹っていうんですか」と納得していたカナちゃん。2泊3日だというのに海外旅行用の大きなスーツケースを引きずってきたサヤ。寒いよ、雪が降るかもしれないよ、とさんざん警告したのに、ヒールをはいてきたケイコ。いつも気を利かせて「先生も入ってください」とボクを写真に入れてくれようとするハルカ。
ボクは、君たちのことを忘れない。
本当に、楽しい旅を、すばらしい想い出を、ありがとうございました。

2009年08月25日

モントリオール初体験

用事でモントリオールを訪れた。
モントリオールは、カナダのケベック州でもっとも大きな街である。
最初のうちは、飛び交うフランス語に戸惑い、誰かに話しけるとき自分が英語しかしゃべれないことに罪悪感をもってしまった。しかし、本国フランスと違って、ここでは英語で話しかけてもあからさまにいやな顔をする人は少ない。だんだん慣れてきて、この町の魅力を堪能することができた。
まず行ったのは、McGill大学のキャンパス。丘のようになっていて、どこかカリフォルニアのバークレーと似ている。といっても、夏だからで、もちろんここの冬の寒さは、温暖なバークレーとは比べ物にならない。その証拠に、McGillのキャンパスの主要な部分は、(外気にふれないで移動できるように)地下トンネルでつながっているのだそうである。冬訪れたら、まったくちがった印象をもっただろう。
それから、セントキャサリン通りでショッピング。その脇道の、上から通りを見下ろすように立ち並んでいる、にぎやかなバーやカフェなどを見物。古くからあるといった感じのベイカリーでパンを買って食べたり、教会や美術館などの古い建築物を眺めたりして、ぶらぶら歩いた。
モントリオールでは、いくつかのレストランで食事をした。「はずれがない」と人からいわれていたので、ネットで調べるまでもなく、気の向くまま入った。ただ、日本食だけは、チェーンのsushi shopのようなところはさけて、ちょっと調べて日本人シェフ・オーナーがいる店を選んで行った。サーモンのにぎりがとってもおいしかった。大西洋のサーモンだなと思った。
洗練された東部の都会だからなのか、モントリオールの人々はそれほどフレンドリーではないなとも感じた。カフェやレストランなどでは、ひとつひとつのテーブルが小さく、隣りのテーブルとの距離が近い。だから自然発生的に隣りに座った人たちと会話がはずむのかと思いきや、そんなことはまったくない。しかし後から、もしかすると、これはフレンドリーさに欠けているわけではなく、ある種のエチケットが確立されているからなのではないか、と思うようになった。否応なく隣りの人たちの会話が耳に入ってきてしまうので、無視しているかのように振舞わないと、興味本位で聞き耳を立てていると思われてしまうかもしれない。だから、わざと冷淡に、「あんたたちのことなんか、ぜんぜん気になんないんだから」みたいな態度をとっているのではないか、と。
それにしても、モントリオールには、美男美女が多い。ウェイトレスさん、バリスターさん、自転車に乗っているひと。横断歩道を歩いているひと。みんな垢抜けて、おしゃれである。人にこびるところなく、それでいてツッパリすぎているわけでなく。
前に、ボクの教え子でこの街に育った人が、モントリオールほどよいところはない、と愛国心ならぬ、愛街心にあふれて、熱く語っていたのを思い出した。古い伝統を大切にし、多くの文化が融合し、それでいて寛容である。何より、エネルギーがあふれていて、すばらしいと思った。

2009年06月14日

合宿2009のメークドラマ

今年初めての合宿を2泊3日で行った。場所は、菅平。春季の合宿の目的はただひとつで、それは親睦を深めることである。1時間半の勉強時間を除いて、あとは全部スポーツとリクリエーション。とっても楽しかったし、今回もよく身体を動かした。
親睦を深めるという点では、もう最初の晩から大成功であった。ボクは12時過ぎに寝たが、学生たちの宴会はもっと遅くまで続いていた。明け方4時ぐらいまで飲んでいた人たちもいるらしい。おかげで、次の日は3年と4年の隔てなく、みんなしゃべるようになっていたし、結構本当の「キャラ」が露呈し始めた。ところが、遅くまで飲んでいたせいか、翌朝6時起床の恒例ジョギングに誰も3年生が参加しなかったのは、残念だった。秋の合宿では、ボクがたたき起こして、今回酔いつぶれた西海君とか、どうみても朝に弱そうな中村君あたりを連れ出してやろうかと思っている。
さてその午前中は、米森君と水野君とのキャッチボールからはじまった。両方とも野球経験者で、彼らのボールをグローブで「パーン」と受けるだけで気持ちよかった。つづいてソフトボール。みかけによらず渡具知さんが打つのも守るのもうまいので、みんなびっくりしていた。ボクは、3年生チームのピッチャーをやらしてもらった。結構バカスカ打たれたが、最後ウチのチームが粘って引き分けまでもっていって、負け投手ではなくなった。
その後、サッカー。15分ハーフで、女子がゴールしたら2点というルールであった。前半は、チームワークがかみ合った4年生チームのペースだった。しかし、予想通り、4年生チームは体力が全然続かない。それで、後半は木島君や仲宗根君らが自由に動くようになって、大反撃に転じた。残り5分、右に走っていたボクにいいパスがきたので、それをボックスに蹴りこんだ。シュートとしては外れたが、そこに森本さんがいて、うまく決めて2点ゴール。これで同点に追いついた。ところが、そのあと、すぐに4年の清水さんに決められ、またまた2点差をつけられた。このまま彼女が今日のヒロインになるのか、と思われた。しかしですね、ここからさらなるドラマが始まったのでありました。残り1分。まず、水野君が華麗なドリブルで持ち込んでゴール。これで一点差、女子が入れたら逆転である。残りは15秒。「まだまだ」とチームを鼓舞して、みんな前がかりに攻め上げる。そしたら、ゴール前に張っていた「もぎちゃん」こと大野さんにパスがつながり、彼女が期待に応えて逆転2点シュート。そこで試合終了。いやー、素晴らしかった。なかなか感動した。
午後は、体育館に移動して、バレーボール、バトミントン、ドッジボールをやった。ここでも、全体的には、3年生が4年生を圧倒していたようにみえた。4年生は、体力の衰え、というよりも、世代が交代していくことの寂しさのようなものを実感しているようであった。
夜は、花火、ゲーム、そしてみんなで「日本vsウズベキスタン」の試合を応援しながらの宴会ということになった。傍らで、ボクは「ラヴ・ジェンガ」にも加わった。そのとき、「初恋について語れ」という札を引いて語った保田さんのスキー場での逸話は、とってもロマンチックだった。ボクは、「駄洒落を言え」というのを引いてしまって、なにも思いつかなくて、「佐藤麻由さんの眉毛」といった。そしたら、佐藤さんを含め、みんなから白い目で見られてしまった。すみません、次回まで、もっと勉強していろいろネタを仕込んでおきます。
合宿中に吉村君が誕生日を向かえ、みんなでお祝いできたのもよかった。おめでとう。
合宿係の酒嶋君、企画係の荻井さん、本当にご苦労さまでした。You both did a wonderful job!

2009年04月17日

Night Ride Home

それは、ある7月4日のこと。場所は、ハワイ。
独立記念日の晩、どこかで開かれていたパーティから、恋人と二人で車で帰るところ。
「たまにあるのよね、大きくて青い月の下に、こういう夜がやってくることが・・・」と、語りかけるように、その唄は始まる(“Once in a while, in a big blue moon, there comes a night like this・・・”)。
アコースティックギターの音と、夜に鳴く虫の声がバックに流れる。
唄の題名は、Night Ride Home。唄っているのは、ジョニ・ミッチェルである。
ジョニ・ミッチェルについてはすでに何度かこの日記でも書いてきた(たとえば2007年3月3日付「『雲と愛と人生と』の話」参照)。しかし、何度書いてもいい足りないほど、彼女の音楽は本当に素晴らしい。
で、その中でも、最近のボクのお気に入りは、このタイトルソングがはいっているアルバムである。
ボク自身、3月にハワイへ行ってきて、その余韻がまだ残っているせいだと思う。
ハワイの、平和で静かで美しい夜の風景が想いだされる。
地元のバンドが、大きな木の下で演奏している。その向こうには、夜の散歩を楽しむ人々。さらにその向こうには、ホテルの光が波を白く映し出す。
一日を終えて、若いカップルは手をつないで音楽を聴いている。
歩んできた人生を振り返って、老夫婦はゆっくりグラスを合わせている。
そして、その日ホテルで行われた結婚式に参加した小さな子供たちが、綺麗なドレスやタキシードを着飾ったまま、芝生を駆け回っている。
そう、そうしたハワイの光景の非日常性が、まさに「たま(once in a while)」にしか訪れない、という唄の冒頭のフレーズによって切りとられているように感じられる。
ジョニ・ミッチェルは、このNight Ride Homeというアルバムがつくられた当時、Larry Kleinという音楽家と結婚していた。そして、この唄は、二人でおそらくバケーションを過ごしていたハワイで、本当にあったロマンチックな夜を、再現したのだといわれている。
フラダンスを踊っている女性。ウクレレを持った男。独立記念日を祝って打ち上がる花火。
でも、隣には自分が愛する男がいる。
「I love the man beside me」
その気持ちを、その自分の感覚を、何度もかみしめる。
自分たちの車以外、だれもいない道を、ドライブしながら。
めまぐるしい仕事や忙しい文明から遠ざかって、自分たちの家へ向かいながら。
「night ride home・・・night ride home・・・」
最後まで、虫の声は鳴り止まない・・・
「night ride home・・・」

2009年02月08日

旅の衣はダウンジャケット

2月の末が締め切りの原稿を抱えている。
実は、2つも抱えている。
まったくはかどらないので、いろいろ気分転換をしてみた。
まずは、歌舞伎座へ。お目当ての出し物は、吉右衛門の勧進帳であった。
前半、活気あふれるというよりは、落ち着いた弁慶がたんたんと演じられていた。
が、ひとつの見せ場である、巻物の中味を覗かれそうになりさっと身をかわすところで、静が動に切り替わる。そしたら、「播磨屋ア」と一声、自分でも思いがけず出てしまった。隣に座っていた方(中年の女性)は、一瞬席から飛び上がるほど、驚いていた。ごめんなさい。
菊五郎の富樫が凛々しくて、よかった。涙を振り払うかのようにさっと上を向き、引き下がる場面。ま、一度驚かしちゃったから、まいっか、という感じで、ここでまた、「音羽屋ア」とかけた。いや、ホント、声をかけたくなるくらい、情がこもって素晴らしかったです。
次の日。京都へ。
旅の~ 衣は~ すずかけの~~、ではなく、ブルーのダウンジャケット。
まったく普段着のまま、下着と靴下の替えと、パソコンだけをもっていった。
京都でのお目当ては、前回フェアジョン先生と行ったレストランOgawa。ホテルのコンシェルジェに「また来ました。いちばん遅い時間に、カウンター席を予約してください」と頼んだら、その場で電話してくれて、8時半に来てくださいということだった。
それで、それまで、じっくり原稿と格闘する時間ができた。
うん、格闘したけど、仕上がったわけではないです。
うん、まったく・・・。
さて、時間通り、8時半にレストランを訪れると、シェフ自らお出迎えしてくれた。挨拶を交わし、おまかせで9品のディナーを頼みました。牡蠣、河豚のお刺身、シラス(宍道湖産)のから揚げ、イベリコ豚のサラダ、などなど。最後は、鴨肉。長ネギがのって、ソースはバルサミコと(京都の)赤味噌を混ぜたソースでした。どれもが本当に絶品ばかり。ああ、来てよかった。もう感動しまくりでした。
若いお弟子さんたちが、ボクのことを覚えていてくれたのもとても嬉しかった。一人客なので、シェフがボクの相手をできないときは、そのお弟子さんたちが入れ替わり、会話を途切れさせないようにしてくれた。この辺、すごく教育が行き届いているなあ、と感心した。
一泊して、すぐ東京に帰って、その夜は、毎週恒例のテニスに参加。
相変わらず、自分から下手な仕掛けをしてペースを崩すという悪い癖がでて、コーチのO君は苦い顔をしていた。しかし、それでもダブルスで、M君夫妻に6-4で勝った。ちょっと嬉しかった。
・・・というように、論文を書くため、いろいろジタバタしてみた。
うん、ジタバタしたけど、仕上がったわけではないです。
うん、まったく・・・。

2008年12月18日

沖縄平和祈念公園

ゼミ生たちと沖縄を訪れた。
事前の旅行計画を立てる段階で、ボクはどうしても平和祈念公園だけには行きたいとこだわった。そんなわけで、ゼミ生みんなで1時間ほどをそこで過ごすことになった。
天気は晴れ。ボクは白いシャツを着ていた。
前回この場所を訪れた時、ボクは宗前先生のはからいで(当時)琉球大学の学生だった二人に案内してもらった。公園は、広くて、綺麗で、そして光り輝く海が見えて、それだけでも感動した。
しかし、そのときボクはその場所で、おそらく一生忘れることのない経験をすることになった。ボクらは、沖縄戦で亡くなった人々の名前が刻まれた石碑の間を歩いていた。その石碑には何万、いや何十万という人々の名前が刻まれている。その名前をじっと眺めていたとき、ふとその若い二人に「あなたたちのご親戚で、ここに名前が刻まれている方がいらっしゃるのですか」と尋ねた。そしたら、その若い二人はどちらも「はい」と答えて、自分自身に直接関係する人や近所の知り合いの親戚の名前がそこに刻まれていると教えてくれた。
ボクは、その時、遅まきながらではあるが、沖縄に生まれ育った方々がこの公園に対してもつ思い、ボクのような一介の観光客をそこへ案内するときの彼(女)らの気持ちの複雑さを思い知らされることになったのである。
平和祈念公園は、本当に美しい公園である。キラキラと輝く青い海と綺麗に手入れの行き届いた花々を背景に、なんとも穏やかな空気が流れている。いまでは多くの外国からの観光客も訪れている。そして幼い子供たちが、無邪気にはしゃぎ回っている。
しかし、もちろん、そこはかつて多くの人々が死んでいった場所であり、その人々の魂を鎮める場所でもある。そうした犠牲者たちの名前が刻まれた石碑が立ち並んでいることが、平和な風景とそこに流れる穏やかな空気に限りない奥行きを与えているように思える。平和がとてつもなく大きな代償を払うことによってしか得られないという現実。しかし、とてつもなく大きな代償を払うことよって得られた平和がなんと美しいかというもうひとつの現実。平和祈念公園は、この二つの現実を見事に物語っている。
ボクは、今回も、前回とおなじに、石碑からなかなか目を離すことができなかった。
石碑には、名前が刻まれているだけである。それは、非常に無機質で無感情な名前の羅列に過ぎない。しかし、その無機質さ、無感情さがボクを圧倒する。名前の刻まれているそれぞれの人は、いったいどういう人だったのか。どのような人生を送り、その人生はどのようにして最後を迎えたのか。その時何を思ったのか。何を念じたのか。
そういうことは、わかりようもない。
わかりようもないから、なかなか目を離すことができないのである。
またいつか、機会があったら、訪れたいと思う。

2008年11月29日

サンフランシスコ再訪2008

ボクの大好きな街サンフランシスコを、また訪れることができた。今回は、結構めんどくさい仕事のための出張で、のんびりというわけには行かなかったが、それでも時間の許す限りお気に入りの場所を再訪した。
まずは、ノースビーチ。うん、なにはともあれノースビーチ。いいねえ、やっぱり、このイタリア人街。そうそう、このブログで紹介したのはもう何年も前になるが、ボクが大好きなチーズケーキの店の名前を間違えて覚えていたことに今回気づきました。正しくはカフェ・グレコ(Greco)で、前に書いたプッチーニはそのお隣さんだった。ま、ボクのブログを読んでお店を訪ねたという人はいないと思うけど、万が一そんなことがあったらごめんなさい。
で、カフェ・グレコのレアチーズケーキは、相変わらず素晴らしかった。短い滞在だったのに、計3回も行ってしまった。店の人にはチョコレートチーズケーキもすすめられたが、毎回やっぱりレアの方にした。またしばらく来れなくなるのかと思うと、本当に悲しくなって、最後は小さく小さく切って、名残りを惜しむかのように食べた。
続いて、コロンブス通りのピザ店Osteria。ここも、実は、2回も行った。イタリアンソーセージのピザが、もう圧倒的にうまい。2回目のときは、デザートはいいのか、とオーナーが聞いてきた。いや、これからカフェ・グレコに行ってチーズケーキを食べなければならない、といったら、それは残念だ、ウチのティラミスは最高だぞ、という。どうしようかなと迷っていると、まずいと思ったら金をとらないからどうだ、といわれたので、そこまでいうならと挑戦してみた。そしたら、これも本当によかった。ラムだかブランデーだかがよくクラストに染みていて、チーズクリームがフワフワ。でも、グレコのチーズケーキもその後やっぱり食べることにしていたので、なんだか浮気をしている気分だ、といったら、オーナーが笑っていた。
次は、例の一期一会の店、サウサリートのAngelino。車を借りるつもりがなかったので、当初は行けないなとあきらめていた。ところが、今回お目にかかる必要のあったUCデーヴィスのモンティノーラ先生が、どうせなら車をだすから、あなたの好きなレストランに行きましょうといってくれた。それで、おそるおそるサウサリートなんだけどいいかと聞いたら、快諾してくれた。彼女の友人たちも交えた、にぎやかな楽しい夕食会になった。テーブルに着くなり、ボクはマッシュルームトマトソースのかかったラヴィオリがメニューにあるかどうか確かめた。そしたら、残念なことに、ない。ウェイターにきいたら、ラヴィオリではないが、同じソースで、リコッタとほうれん草をつめたカナロニが今日のスペシャルだ、というので、ボクは迷わずそれにした。そしたら、あとの5人のうち3人までがボクと同じものを注文することになった。期待にたがわずおいしく、みんな納得して食べてくれた。紹介したボクは、鼻高々だった。あと、ここでは今回も一期一会を経験してしまった。それは、前菜として注文したカラマリ。これも、もう絶品でした。ああ、また食べたい・・・ああ、いま思い出すだけでも、口の中に唾液が溜まってくる、ああ・・・。
日本に帰る前の日は、雨だったけど、どうしてもまた歩きたかったので、Crissy Fieldに行った。ゴールデンゲート橋やアルカトラズ、野生の鳥、ジョギングする人々、そして沢山の犬たち。おかげさまで、素敵な想い出がまたひとつできました。ありがとうございました。

2008年11月28日

大先生たちとRedwood Cityでメキシカンを立ち食いする

スタンフォード大学のフーバー研究所でセミナーをやらせていただいた。名誉なことで、しかも久しぶりの英語のプレゼンだったので、かなり緊張した。前日はホテルに缶詰状態で英語のパワポ作り。昼も夜もルームサービスで食事を済ませ、気がついたら12時間以上かかった。日本にいた共同研究者の荒井君は、彼からすれば「なにをいまさら」「そんなこともわかんないんですか」というようななりふり構わないボクからの問い合わせメールの殺到に、閉口した様子であった。それでも辛抱強くひとつひとつ教えてくれて、助かった。
セミナーの当日、聴衆は少なかったが、フェアジョン先生とワインゲスト先生が目の前に並んでどてんと座っておられて、正直ビビった。彼らは頭の回転が異常に速い。考えがいつもわれわれ普通の人の2歩か3歩先を行っている。こちらも緩急をつけたevasive maneuverをいろいろ用意したつもりだったのだが、それでもやっぱりいろいろなところでシッポをつかまれてしまった。もちろん、とてもためになるコメントも頂きました、ありがとうございました。
さて、セミナーのあとランチへ連れて行ってくれるということになっていたので、ボクはてっきり大学のファカルティークラブにでも行くのかと思ったら、メキシカンに行こうということになった。フェアジョン先生が運転してくれて、同乗者はボクとワインゲスト先生と共通の友人の4人。知っている人は知っているが、フェアジョン先生はフットワークがとても軽く、特に食に関してはおいしいものなら時間をかけてでもどこへでも追いかけて行く。今回も、スタンフォード周辺のメキシカン料理店は眼中になく、はじめからレッドウッドシティーまで足を伸ばすつもりでいた。
レッドウッドシティーは、スタンフォードから車で20分ぐらいの、メキシコ系の人々が多くすんでいる町である。エルカミーノ街道をはさんで西側にはアサトンという高級住宅街が広がっているが、東側には庶民的で安い店がいっぱいならんでいる。その中でも、われわれが目指したのは、トラック(つまり屋台)の店。先生は、運転しながら「今日はいるかな・・・いるとしたら、あそこが一番おいしいんだがな・・・」とつぶやいている。ボクは、よくもまあそういうB級、いやC級グルメ店までおさえているな、と感心していた。
で、ありました、ありました、その店。なんと廃業したガソリンスタンドの敷地にトラックを引き込んで、商売をしている。手作りの小さめのトーティアが、先生のお気に入りの理由である。そして、牛タンとか内臓とか、これまでボクが食べてきたメキシコ料理店ではお目にかかれないtacosメニューが取り揃っている。ボクは先生と同じものを4つ注文した。座るところはなく、みんなで立ち食い。先生が全部払ってくれたのだが、飲み物4本を含めても、20ドルもしない。「これならフーバーに付けるまでもないか」、「いや、付けようと思ったって領収書をもらってないぞ」、「どうだ、マサル、すごい歓待だろう、アハハハ」などと、会話が楽しく続いた。
その帰り道、フェアジョン先生はワインを買いたいと、どうやら行きつけらしい専門店に立ち寄った。そうしたら、そこで、フェアジョン先生もワインゲスト先生も、感謝祭が近いということもあって、それぞれ何百ドルというほどのワインとシャンパンを買い込んでいった。この大胆な買い物の仕方も、とても印象的だった。
高かろうが安かろうが、屋台だろうが専門店だろうが、おいしいもの、よいものにとことんこだわりをもつこの大先生ふたりの姿は、セミナーでの彼らの鋭いコメントと同じぐらい、ボクにとって刺激となった。

2008年09月15日

夏の収穫2008

バンクーバーで過ごした楽しい夏が、今年もまた終わってしまった。この夏の収穫は、というと・・・

音楽:去年と比べると、あんまりCDを買い込まなかった。買ったのは2枚だけで、1枚はセロニアス・モンクがはじめてオーケストラ(といってもブラスとサックス)を率いて演奏したときのもの。Blue Monkが入っていたので買ったのだが、インパクトは今ひとつでした。もう一枚はJason MrazのWe sing, we dance, we steal things。車の中で、娘のipodをさんざん聴かされ、その多くはボクには耐えられないような曲ばかりだったのだが、この人のI’m yoursという曲だけは気に入って、教えてもらって買った。買ってみたら、CD全体としても、アコースティック感で統一されて、とても満足でした。こういうのばっかり聴いていればいいのに、と思いつつ・・・。

本:この夏もGordon S. Wood。まだ読み終わっていないが、彼の代表作であるThe Creation of the American Republicに挑戦中。なんせ600ページもあるので、いつまでかかるやら・・・。あと、話題の本なので買っておいたのは、Jed RubenfeldのThe Interpretation of Murder。ルーベンフェルドは、知っているひとは知っているように、ボクの大好きな憲法学者なのですが、なんとベストセラーとなる小説を書いたのである。これは、KS書房のU原さんに教えてもらいました。

レストラン:よく行ったのは、去年に引き続きonlyUcafe。それからバラードとジョージアのコーナーにあるKamei Royal。ここの従業員でボクたちを知らないひとたちはいない。知り合いがウエイトレスとして働いているUBCゴルフクラブには、ブルーベリーパンケーキを目当てに、ブランチに何度か。しばらくぶりで行ったCardero’s、上海飯店では素敵な想い出ができました。あと、新規開拓としては、4番通りにあるlas margaritasというメキシカンの店。ブロードウェイのJoey’sも。

ショッピング:あちゃー、今年は買い物のしすぎでした。まずPacific Centerモールの中のHarry Rosenをぶらぶら見ていたら、アルマーニのジャケットが目に留まってしまった。で、一瞬のうちに衝動買い。「そうだ、ボストンで学会があるんだから・・・、そうそう、それに着ていくんだからいいんだよね、そうそう・・・」という自己正当化をしばらくつぶやき続けて、なんとか沈静。ちなみに、ボストンでは、このジャケットをだれも褒めてくれなかった。久米先生なんか、「前のよりはいいんちゃう」だってさ、まったく失礼な。で、ですね、これで終わればいいんですけど、実は帰国する間際に、Oakridgeモールの中の同じ店を散策していたら、今度はアルマーニのコートが目に入ってしまった。これまた瞬買い。「ちょっと袖が長いような気がしますが・・・」という店員を、「いいの、いいの、ボク、袖が長い方が好きだから」と振り切ってしまった。だって、帰国日が迫っていたから、しょうがないじゃん。あと、去年は買い損ねたジョギングシューズ、今年はRunning roomで新しく買いました。それでスタンレー公園を計5回ほど周りました。夕陽は、相変わらず最高にきれいでした。

2008年06月15日

合宿風景2008

前期合宿を菅平で挙行した。5期生の間にはちらほら欠席者があったが、6期生は全員という素晴らしい参加状況であった。行きの車は、飯塚君が運転する車に、古條、飯田、今井君と一緒に乗った。場を盛り上げるため、ボクの取っておきの「西麻布接待話」をしたら、車内での会話が弾むようになった。今井君、飯田君も続けて結構面白い話しをしてくれた。こういうネタをいくつかもっておくのも、会話の場の雰囲気を悪くしないために大切なのだ。とくに幹事長の古條君、そこんとこよろしく。
その日は、着いたのも遅かったし、早く寝た。
翌朝は6時半に起床。朝飯の前に、西山君、上河君、俣野君とジョギングした。俣野君は、自分でも言っていたが、オーバーウエイト気味。いまからそんなことでは、大変だぞ。上河君は、見晴らしのよい丘が見えると、突然ワケのわかんないダッシュで駆け上がって、一気に疲れたなどといっていた。相変わらずペースを考えない生き方をしているなあ。
スポーツのメニューは、ソフトボール、サッカー、ドッジボール、バレーボール、それにバトミントン。ソフトボールでは、4年生チームが勝った。ボクがボックスに入ったとき、ピッチャーの垣阪君は気を使ってか甘く見てか、ちょっとゆるい球を投げてきた。そしたら、センターへうまく打てて、逆転のランニングホームランになった。人生、下手な情けをかけると痛い目に合うものである(←ちょっと大げさ)。休み時間に、軟式のボールでキャッチボールをして、尾崎君の投げる球を受けるのがとっても心地よかった。調子にのって、ボクも投球したら、右肩を壊してしまった。
サッカーは、3年生チームが勝った。手を怪我しながらも小田切君の体の強さはさすがだった。それからムッツリ関口君が得点したのには驚いた。その関口君をマークしているポジションのはずの上河君は、いつもそこにいなかった(←相変わらずだ)。4年生では、西山君の守備が光っていた。ボクは、去年と同じく、たいした活躍もできなかった。足を怪我しているという清水さんの足首を蹴ってしまったのは、申し訳なかった(本当にごめんなさい)。
それから、バレーボールでは、飯塚君がとってもよい動きをしていた。おっと、バレーボールといえば、佐藤さんも忘れてはいけない。?佐藤さん?って、もちろん「カツラ」のことです。佐藤さんと呼んでも、どうもピンとこないねえ。
今年も入ってきたゼミ生たちには女子が多いので、スポーツメニューで大丈夫かなと思ったが、彼女たちもぜんぜん楽しんでいるようであった。ファールにもかかわらず、全力でボールを追い返球していた境さん、よかったすよ(でも野球のルールぐらい知っておいた方がいいかも)。そうそう、ボクの知らない間に、川地さんと板村さんの間で、壮絶な卓球バトルもあったようで、次回は卓球も新たにメニューに入れなければならないと思った。
さて、余興および宴会も楽しかった。楽しかった?・・・うん、楽しかった(汗)・・・。ボクは、企画されたゲームで結構上位に食い込み、景品をもらった。藤田さん、いや「サヤ」が、とっても大事に選んでくれたクッキーの詰め合わせが、ボクにあたった。ところが、ボクはそこで大失態を演じることになる。その企画の後、流れで飲み会になり、ちょっと酔ってしまって、部屋に引き上げる際、そのクッキーの詰め合わせを、食堂にそのまま置いて引き上げてしまった・・・。翌朝になり、朝食の席で、サヤがジロリとこちらをみていう。「先生、とっても、・・・とっても大事なものを、お忘れになってはいませんか?」
ギクリ。うわー。
うーん、こういうキャラは、去年まではいなかったなあ。
あと宴会の席では、とうとう、ボクも山口さんに手相を見られてしまった。「生涯現役ですね!」うーん、うまいことをいう。これって「短命」ということかもしれないし、「あなたはいつまでも落ち着いた人生を送ることがない」ということかもしれない。(←ちょっとネガティヴすぎるか)
最後になるが、今年の合宿では、車を運転する責任があったにもかかわらず前の晩飲みすぎでつぶれ、帰りに思わぬ「バチあたった」男がいた。ま、迷惑かけたことをよく反省しているみたいだし、今回だけは大目に見てやろう。そう、今回だけは・・・。
みなさん、お疲れさまでした。また後期も楽しい合宿にしようね。

2008年02月06日

Falling in love with沖縄

同僚の久米先生を中心としたあるプロジェクトが今年で最終年度をむかえ、沖縄の琉球大学にて、仕上がった論文をみんなで発表し合う研究会が開かれた。
というわけで、ボクも沖縄へ行ってきた。沖縄の地に足を踏み入れるのは、これが初めてである。一言でいうと、何から何まで、本当に素晴らしい沖縄初体験となった。
まず着いた日の夜は、国際通りの公設市場まででかけていって、いくつか魚介類を注文しその場でさばいて貰って食べよう、ということになった。お刺身の盛り合わせのほか、グルクンの唐揚げ、伊勢海老の味噌汁などなど。どれも、文句なく新鮮でおいしい。みんな「おなかいっぱい」と腹をさすっているのだが、ボクはどうしてもご飯ものを食べないと気がすまなくて、ボクだけ「ラフティー丼」を追加注文した。これがとろけるようなやわらかさだった。それで「うまい!うまい!」を連発し、みんなから白い視線を浴びてしまった。
泊まった大学の宿泊施設もよかった。安いし、広いし、綺麗だし・・・。朝食サービスはなかったが、ボクは、歩いて10分ほどのところにモスバーガーがあると聞いていたので、次の日の朝そこへ向かった。そしたらですね、そこでですね、ががーん、遭遇してしまいました・・・。(古今亭志ん生風に)「そうだなあ、歳の頃といったら、十七、八ってところだな・・・」、とっても可愛らしい女性の店員さん。この方の笑顔、ホントか・ん・ぺ・きでした。なんというべきか、「混ざりもののない笑顔」とでもいうのだろうか。いやー、マイリマシタ。うーん、沖縄・・・、いいねえ・・・。
さて、研究会が始まった。ホスト役である宗前先生のホスピタリティーも、これまた実に完璧だった。コーヒー、紅茶、さんぴん茶などは当たり前のようにそろっている。そのほか、「これ、絶対美味しいですから」と持ってきたシークワーサージュース。本当にメチャメチャ美味しかった。あとは、長丁場になることを予期して、数々のチョコレートやキャンディーの類。実際、連日8時間ぐらいぶっ通しで会議をしていたので、これらの甘み成分補給には助けられました。
宗前先生の学生さんたちと一緒に話す機会もとても楽しかった。ぜんぜんスレてなくて、人生に直角に向き合い、すがすがしく生きている。礼儀正しいし、ボクら中年オヤジたちの話しを真摯に聞いている。というか、彼らは、本当にボクら(の話)に興味があるのである。それだけ、心がきれいなのである。
とくに、YさんとKさんには、ちょっとだけ沖縄を案内していただき、お世話になった(Yさん、Kさん、ありがとうございました)。前からどうしても訪ねてみたいと思っていた平和祈念公園を地元の若いお二人に案内していただいたことで、いっそう思い出深い経験となった。石碑に刻まれた白い名前の数々、その先の崖、打ち寄せる波、水平線。その光景は、一生忘れることがないと思う。
その後、ランチに「くるくまの森」の中にあるアジアン・カフェへ連れて行ってもらった。ここのチキンカレーは、絶品です。そして、そこでは、日本人に混じって、多くの外国人観光客が、打ち寄せる波と水平線の素晴らしい眺めを、楽しんでいた。なんとも穏やかな空気が流れていた。

2007年09月13日

夏の収穫

バンクーバーで過ごした楽しい夏が終わってしまった。この夏の収穫は、というと・・・

音楽:Edith Piafの3枚組。いわずと知れたシャンソンの歌姫である。どこの国にも歌姫はいる。アメリカだとBilly Holidayだし、日本だと美空ひばり。イタリアならMaria Callasか。おっと、カラスはニューヨークで生まれたんだったね。それからMichael Bubble。バブルでなく、ブブレイですよ、もちろん。向こうのラジオでは嫌というほどかかっていた。あとGordon Lightfootのベスト。どうしてもIf You Could Read My Mindを聴きたいと思って買った。そして、そして、最大の収穫は、なんといってもSuba。ブラジリアン・エレクトロニカというジャンルの音楽へ、ボクをはじめて導いてくれた。ダウンタウンのHMVには、ホントよく通いました。

DVD:Bob Dylanの「MTV Unplugged」というのとJerry Seinfeldも出ている「Comedy Club Greats」というのを合わせて2枚で20ドルで買った。どちらもまだ見ていない。それからNYPD BLUEのシーズン4のセット。アンディの相手役がボビーの時代のものである。

本:Gordon S. Wood, Revolutionary Characters。What Made the Founders Differentという刺激的な副題がついていて、ピューリツァー賞に輝くと書いてあったのでつい買ってしまった。グランヴィルとブロードウェイの角にあるChaptersという本屋は、ボクらのお気に入りです。

レストラン:onlyUcafe。大学の近くにあるヴィレッヂの中にある。一週間のうち3回ぐらいはランチを食べに行った。サンドイッチ類がなんでもおいしい。とくに中でチーズがとろけているパニーニが旨いとおもった。しかし、ですね、ここへいったら絶対に食べなければならないものがあるのです。それはハッシュブラウンです。人生の中で最高のハッシュブラウンでした。あとは、イヴ君のすすめで会議の後でみんなでいったSandbar Seafood Restaurant。グランヴィルマーケットのそばにあって、雰囲気がとてもよかった。久々に村松先生とお話しできたのも想い出になった。それから、ある(中華系の)友人に、リッチモンドまでいって、北京ダックをご馳走になった。このダックは、ボクの中でのダックのコンセプトを変えてしまった。やわらかくて、臭みがなくて・・・。なんと二人で一羽を平らげてしまった。

ショッピング:ロブソン通りの南側。バラードから西へ向かって2ブロックめ。Lululemonではバッグを、B2という靴屋さんではナイキを買いました。それから、よく行くアルマ通りのRunning Roomでジョギングシューズを新調しようとしたら、サイズが合うのがなく、残念でした。

公園:McGee、Trimble、Douglas Park。特に眺めのよいトリンブルでは、いろいろ忘れられない想い出ができました。

夏の収穫

バンクーバーで過ごした楽しい夏が終わってしまった。この夏の収穫は、というと・・・

音楽:Edith Piafの3枚組。いわずと知れたシャンソンの歌姫である。どこの国にも歌姫はいる。アメリカだとBilly Holidayだし、日本だと美空ひばり。イタリアならMaria Callasか。おっと、カラスはニューヨークで生まれたんだったね。それからMichael Bubble。バブルでなく、ブブレイですよ、もちろん。向こうのラジオでは嫌というほどかかっていた。あとGordon Lightfootのベスト。どうしてもIf You Could Read My Mindを聴きたいと思って買った。そして、そして、最大の収穫は、なんといってもSuba。ブラジリアン・エレクトロニカというジャンルの音楽へ、ボクをはじめて導いてくれた。ダウンタウンのHMVには、ホントよく通いました。

DVD:Bob Dylanの「MTV Unplugged」というのとJerry Seinfeldも出ている「Comedy Club Greats」というのを合わせて2枚で20ドルで買った。どちらもまだ見ていない。それからNYPD BLUEのシーズン4のセット。アンディの相手役がボビーの時代のものである。

本:Gordon S. Wood, Revolutionary Characters。What Made the Founders Differentという刺激的な副題がついていて、ピューリツァー賞に輝くと書いてあったのでつい買ってしまった。グランヴィルとブロードウェイの角にあるChaptersという本屋は、ボクらのお気に入りです。

レストラン:onlyUcafe。大学の近くにあるヴィレッヂの中にある。一週間のうち3回ぐらいはランチを食べに行った。サンドイッチ類がなんでもおいしい。とくに中でチーズがとろけているパニーニが旨いとおもった。しかし、ですね、ここへいったら絶対に食べなければならないものがあるのです。それはハッシュブラウンです。人生の中で最高のハッシュブラウンでした。あとは、イヴ君のすすめで会議の後でみんなでいったSandbar Seafood Restaurant。グランヴィルマーケットのそばにあって、雰囲気がとてもよかった。久々に村松先生とお話しできたのも想い出になった。それから、ある(中華系の)友人に、リッチモンドまでいって、北京ダックをご馳走になった。このダックは、ボクの中でのダックのコンセプトを変えてしまった。やわらかくて、臭みがなくて・・・。なんと二人で一羽を平らげてしまった。

ショッピング:ロブソン通りの南側。バラードから西へ向かって2ブロックめ。Lululemonではバッグを、B2という靴屋さんではナイキを買いました。それから、よく行くアルマ通りのRunning Roomでジョギングシューズを新調しようとしたら、サイズが合うのがなく、残念でした。

公園:McGee、Trimble、Douglas Park。特に眺めのよいトリンブルでは、いろいろ忘れられない想い出ができました。

2007年06月15日

続・合宿でのスポーツ三昧

この前の週末、軽井沢へゼミ合宿に行ってきました。
いやー、すばらしい合宿だったね。今年は2泊したせいでスポーツも勉強も充実しまくり。3年生と4年生の親睦も進んだし、ボク自身、普段あまりしゃべる機会の少ない学生たちと話すことができて、本当に楽しかった。(以下は楽しかったことの抜粋です。)
まず、一日目(土曜日)。朝7時に、木村君、上河君、西山君の3人がジョギングへ行こうと、グリーンハウスまで迎えにきてくれた。小雨が降っていたが、すがすがしい緑ときれいな空気の中を走って、とても気持ちよかった。
朝食を済ませて、午前中はテニス。かねてから「先生とテニスしたいんです」といっていたプリンス小林君はゼーンゼンたいしたことなかったが、小兵茶髪マイペースの森田君の変則サーブにはチトてこずった。雨宿りのつもりで「体育館」へ行ったら、お世辞にも「体育館」とは呼べない小さな建物で、ちょっとがっかり。ところが運良くその時雨が小降りになったので、すぐさまサッカーをすることにした。ボクは4年生チームに入った。しかし、長髪をピンで留める(ところがどうしても気になる)風間君のめざましい活躍などで、負けてしまった。
午後は、バレーボールをした。これが、最高におかしかった。声だけはイッチョマエに出すくせに、何度やっても勝てないチームがひとつあった。このチームは、他チームが試合をしているときにも、影練をしている。その時も「ヘイヘイー」とか「おーいいね、いいよー」とか、うるさいのなんの。そして、土下座して「もう一回」と他チームに懇願してまわり、ようやっと相手にしてもらっていた。ところが、この「声だけ」チームは、それでもさっぱり勝てなかった。
夜の飲み会の前には、大貧民ゲームをやった。ボクは、大富豪になったら勝ち続けないとその座を追われるというルールがあることを知らなかった。そのルールのせいで、誰も3回以上大富豪の地位を守れない。しかしボクは着々と貧民から平民、平民から富豪、そして大富豪へと出世し、そのあと最後までその地位から引きずりおろされることがなかった。(このことを後で友人に自慢したら、学生たちが気を使っていただけだといっていたが、そんなことはなかったと思う。)
二日目(日曜日)は、ソフトボール。この時も3年生チームが4年生チームを圧倒した。それで、4年生たちが、どうしてもサッカーでリベンジをしたいということになって、もう一度サッカーをすることになった。この試合は本当に緊張感あふれるいい試合となった。結局、この日から参加の山下君の華麗なプレーなどで、4年生チームが一矢を報いた。
合宿では、面白い発見がいろいろある。去年はまったく猫をかぶっていた細谷君が、アメリカ帰りのせいか、自分が上級生になったせいか、今回は異様に溌剌としていた。奥村君が、自分とキャラがかぶっているのではないかと、後輩の山内君を妙に警戒していたのも面白かった。飲み会の席では、男子学生たちが女子学生たちから女の行動心理についての、そして女子学生たちが男子学生たちから男の行動心理についてのアドバイスを、それぞれいろいろ聞きだそうとしていて、微笑ましかった。
今年もいい学生たちに出会え、またひとつ輪が広がった。感謝したい。

2006年11月03日

ある日の出来事

アムステルダムで21COE-GLOPE主催の国際会議が無事終了した。以下は、日本へ帰る日に起こったいくつかの出来事である。
―――――&―――――&―――――&―――――&―――――&―――――
12時にチェックアウトしてロビーで待ち合わせすることになった。しかしアシスタントとして連れてきた(ボクの院生の)仁木君が現れない。部屋に電話してもでないし、ドンドンとドアをたたいてもいない。部屋には「Don’t Disturb」のサイン。
COE事務局の鈴木さん:「実はきのう、チェックアウト12時、ピックアップ12時50分と念を押したんですけど、そういえば仁木さん、ちょっと反応がにぶかったんです」
ボク:「もしかして、『チェックアウト』の意味がわからなかったんじゃないですかね」
清水(和巳)先生:「いくらなんでも、それはないんじゃないですか」
ボク「だって、アイツこれが初めての海外経験ですよ。国内でもホテルに泊まったことがなければ、チェックアウトっていわれても、なんのことかわからないんじゃないですかね」
一同:「・・・」
そこに、仁木君登場。頭をかきながら、「いやー、道に迷ってしまいました。スミマセン」
―――――&―――――&―――――&―――――&―――――&―――――
空港までのタクシーの中での会話。
清水先生:「・・・しかし、英語をしゃべっている河野さんって、カッコイイですよね」
ボク:「いや、清水先生がフランス語をしゃべれる方が、全然カッコイイと思います」
藪下(史郎)先生:「そんなこというと、河野君はいつも変に取るんだ。『それって、英語をしゃべってないときの自分はカッコよくないんですか』とかなんとか・・・」
ボク:「そ、そ、そんなことないですよ」
藪下先生:「そうじゃないか。この前も青木(昌彦)さんが河野君の英語はうまいって褒めてたと伝えたら、君は『なんだ、褒めてくれたのは英語だけだったですか』とかいって、残念がっていたじゃないか」
ボク:「そんなことありましったっけ。でも、いいんですよ、もう・・・。最近、自分でもいいと思うのは、英語しゃべることぐらいしかないかな、と思うようになってきたんで・・・」
鈴木さん:「いや、河野先生、声がホント素敵ですよね。講演なさっているときも、電話のときも・・・」
藪下先生:「ほら、そういうと、彼また『素敵なのは声だけですか』って、いじけちゃうよ」
―――――&―――――&―――――&―――――&―――――&―――――
飛行機の中で、鈴木さんがお金の精算のため、搭乗券の半券を回収しにくる。
鈴木さん:「いまのうちに回収しちゃいます」
ボク:「それは、用意がいいですね」
鈴木さん:「実は、もうなくしちゃった人が居るんです、足立さんです」
ボク:「それは、ヒドイね」
鈴木さん:「・・・あら、先生の隣の方、とっても美人さんじゃないですか」
(ちらりとそちらを確かめたものの)ボク:「・・・」
鈴木さん:「先生、こんなところで、ナンパしちゃだめですよ」

2006年09月09日

スタンレー公園

バンクーバーを代表する公園は、スタンレー公園である。ダウンタウンのはずれの、三方を海に囲まれているように突き出たところにある。背の高い木が多く、きれいな空気を吸える。公園の中を突っ切る道を進むと、ライオンズゲート橋に出て、隣町ノースバンクーバーとつながっている。
スタンレー公園の中には、バラ園も遊園地も小さな動物園もあるが、なんといっても素晴らしいのは海を見ながら公園を一周できるSea Wallという遊歩道である。公園は一周10㌔弱。近くには、貸し自転車や貸しローラーブレードの店がたくさんあって、多くの観光客はそれらを利用して楽しんでいる。ボクも、何度か自転車でまわったことがあるし、またローラーブレードも一度だけやったことがある。
最近は、バンクーバーにくると、1時間ぐらいかけて、この公園の周りを走ることを楽しみにしている。Sea Wallは、ちゃんと自転車・ローラーブレード用のサイドと、ジョギング・歩道用のサイドとにわかれていて、ぶつからないようになっているから安心である。ジョギングの途中では、水面から首だけだしているアシカに出会うこともある。大きな鶴が岩に舞い降りてきて、ここはオレの場所なんだと、あたりにいるカモメたちを蹴散らす場面に遭遇することもある。
夏のバンクーバーは、ほとんど雨が降らない。来る日も来る日も、心地よい快晴が続く。日の入りは、8時頃。だから、8時半ごろに走り終わるようにジョギングを開始すると、とんでもないくらいに美しいサンセットを、走りながら満喫できる。
ウェスティンホテル前のマリーナからスタートして、ライオンズゲート橋ぐらいまでで、ちょうど半分。それまでに日が沈んでいると、橋をくぐって復路にさしかかったとたん、海の向こうのオレンジ色に染まった空に山々の陰がくっきり浮かび上がる光景が目に飛び込んでくる。それは、「こんなきれいな光景がこの世にあってもよいのか」と思うくらい、きれいな光景である。カモメが鳴き、ゆったりした波が打つ。散歩する人、ベンチに座っている人。若いカップルもいるし、年配のご夫婦もいるし、大家族もいる。むこうからジョギングしてくる人と挨拶を交わすこともある。「きれいな夕陽だね」という言葉が、お互い自然に出る。
10㌔は、自分でペースを設定して走ることのできる、気持ちのよい距離である。日常のことを忘れて、ストレスを発散するために一生懸命走ることもできるし、逆に日常のなかで考えを整理しなければならないことに、ゆっくり思いをはせながら走ることもできる。
ボクは、この夏はじめて、14歳になった娘と、Sea Wallを走った。娘の方から一緒に走りたいと言い出した。スポーツが大好きとはいえ、10㌔もの距離を走るのは初めてで、走り出すまで緊張していた。しかし、たわいもない世間話を続け、ジョークを飛ばしあいながら、ゆっくりとゆっくりと、肩を並べて走った。そして、ついに、10㌔の距離を、休みをとることもなく、走りきった。この上ない幸せを感じた。

2006年07月23日

総武線幕張駅

まったくもって、忙しくて、しばらく日記を更新できないでいました。この日記を楽しみに読んでくれている全国のみなさん(←最近急増しているらしい)、申し訳ありませんでした。
さて、今日のお題は、JR東日本総武線の幕張駅。なぜ、このお題になったかというと、この前、幕張のちかくにある放送大学に、来年度から始まるラジオの授業(「現代日本の政治」)の収録のため行ってきたからです。
実は、行くときは、総武線の幕張駅ではなく、京葉線の海浜幕張駅から行ったのでありました。しかし、東京駅の中で、京葉線の乗り場はスンゴイはずれたところにある。帰りも同じ道を通るのは嫌だなと思っていたら、放送大学の門番さんが、京葉線の海浜幕張ではなく、総武線の幕張にでたらよいではないか、と親切に教えてくれた。総武線なら、飯田橋まで一本で出られる。どちらも同じくらいの距離だというので、帰りは総武線にしようということになりました。そんなわけで、総武線幕張駅に、早稲田のちょいわるオヤジは、生まれてはじめて降り立ったわけなのでありました。
で、この幕張駅。結構面白い。
まず、京葉線の海浜幕張駅との、好対照。これに気付かないわけにはいかない。オレッチは幕張メッセの玄関口なんだからねと、なんか堂々と威張っている海浜幕張駅に対して、幕張駅の方は、なんとも見るからにしょんぼりしている。キレイ風ぴかぴか系の海浜幕張。それに対して、幕張の方は、イナカ風さびれさびれ系。駅前には高層ビルがひとつもなく、目立つのは緑色の看板の「千葉信用金庫」ぐらいしかない。ちょっと、アータ、「幕張」っていうぐらいだから、アータの方が本家ホンモノでしょう、向こうは「海浜幕張」って、分家に過ぎないわけでしょう、しっかりしなさいよ、って肩をたたいてやりたくなる(←?って、誰の?駅長の?)。
で、幕張駅のホームへ入ったら、いたるところに次のような看板がでていた。
「幕張メッセは幕張本郷下車です」
「社会保険事務所は幕張本郷下車です」
「運転免許センターは幕張本郷下車です」
「千葉マリーンスタジアムは幕張本郷下車です」
ご存知のとおり、幕張本郷というのは、同じ総武線の、となりの駅である。つまり、幕張駅は、降りてきた乗客に、「ここで降りてほんとうにいいんですか。となりの駅で降りた方がいいんじゃないですか。」というメッセージを、これでもかこれでもか、と送っているのである。あのさあ、じゃあ、いったい、この駅の近くには、何があるのよ、って、聞き返したくなるではありませんか。
幕張本郷からは、メッセまでのバスがでている。距離的には、幕張の方が近いのに、こちらには、バスのためのロータリーのスペースがない。いやー、なんとも悲しい話である。新興分家の海浜幕張だけでなく、幕張駅は、同じ総武線内でも本家としての地位と威信を脅かされているのである。
ここまでくると、もうあきらめの境地にはいっているのかもしれないね。それだから、この駅は、「本当にここで降りていいんですか」というような、自虐的メッセージにあふれているんだね。

2006年06月25日

神戸のタクシーはなぜ黒いか

研究会がおわり、ボクらは神戸大学の前のバス停でバスを待っていた。すこし待ち時間が長かったので、ボクは、行きのタクシーの中で運転手さんから仕入れたネタをみんなに披露しようと思った。
ボク「ねえねえ、どうして神戸のタクシーって、みんな黒塗りなのか、知ってます?」
みんな「いや、知らない」
ボク「どうもそれは震災と関係あるらしいんですよ・・・」
行ってみればわかるが、新神戸の駅へ降り立つと、黒色のタクシーがずらりと並んでいる。ボクは、随分前から、このことが気になっていた。ま、はっきりいって、ちょっと怖い感じがするほどである。神戸といえば、「その筋」でも有名だからね。だが、その運転手さんによると、黒いタクシーが多いのは、「その筋」とはあんまり関係ないのだそうである。彼は、神戸のタクシーがみな黒くなったのは、震災の後だったという。なぜかというと、震災の後、沢山の葬祭があった。そういう場では、緑やオレンジや黄色のタクシーでは人を送れない。それで、会社も個人タクシーも色つきをやめていった、というのである。
ボクは、この説明にとっても納得したので、得意になってバス停でそれをみんなにしゃべっていた。そしたら、久米先生が横から口を挟んできた。「それ、キミ、よそもんと思われて、調子ようだまされたんヤデ。どうせ、タクシーん中で、東京弁でペラペラとしゃべっとったんとチガウ?」
久米さんにいわせると、神戸にも、カラフルなタクシーはまだたくさんあるという。震災後の葬儀のせいでタクシーがみな黒塗りになったなんて話は、聞いたことがない。ボクがつまらないことを尋たんで、運転手はからかうつもりでそのまことしやかな説をとうとうと述べたのだ、と・・・きっと、今頃どこかの飲み屋で、運転手仲間の「今日の面白い客」として、笑いのネタになっているだろうと・・・
ボクは、久米さんにいわれて、そうかなあと思い返してしまった。たしかに葬儀に黒のタクシーでなければならないなんてことはないかも・・・そういえば自分は騙されやすい方かも・・・ああ、自分はとんだお人好しかも・・・。
そしたら、久米さんが追い討ちをかけるようにいう。「そうそう、ここのバス停って、イノシシの家族が毎日通るんで有名なんやって、知ってた?」ボクは、これにはアッタマにきて、「イノシシ?あのねえ、どこまで人を騙されやすいと思っているんですか」と噛み付いた。ところが、である。実は、このイノシシの話は本当で、神戸大学周辺では有名だということがわかった。さてはて、いったい人の話というのは、何をどこまで信じてよいものか、まったく自信を無くしてしまった。
ちなみに、帰りのタクシーでも、ボクは運転手さんに「新神戸の駅前って、黒いタクシーばかりですよね、あれって、なんか震災と関係あるんでしょうかね」と、すっとぼけて聞いてみた。そしたら、その運転手さんはいう。「ああ、それは駅のそばに神戸オリエンタルホテルが開業してからですね。最初、ホテルが黒塗りのタクシーしか、中に入れなかったんですわ。色つきだと、お客さんが途中で降ろされちゃって、評判悪かったんですわ」
ヘン、そう簡単に騙されるものかと、ボクは、腹の中でしっかり思っていたのであった。

2006年05月21日

合宿でのスポーツ三昧

今年度第一回のゼミ合宿を挙行した。
場所は菅平。長野の上田市にあるセミナーハウスに一泊二日の日程で行ってまいりました。
ボクの場合、前期のゼミ合宿は、親睦を目的としている。3年生と4年生とがうちとけることができれば、それで大成功であると思っている。一日目の飲み会と、二日目のスポーツで、緊張がほぐれ、みんなの性格がしだいに露呈してくる。そうすると、それからのゼミの運営が断然やりやすくなる。どこで誰に、どのように話しをふれば、どう反応してくるかの予想がつくと、ゼミのディスカッションがスムーズで楽しくなる。それゆえ、合宿は一年間を通した教育上、とても重要な一こまであると思っている。
さて、今回は、両日とも、野球経験者である村尾君とキャッチボールをすることができた。ボクの荒球をちゃんと座って受けてくれて、ありがとう。一日目は結構ボールが走っていたし、コントロールもよかったが、さすがに二日目は肩が張って、思うように投げれなかった。「先生、フォームがダイナミックでなくなってきましたよ」というコメントを途中でもらったが、いやその通りでした。お恥ずかしい。
河野ゼミ恒例となった感のある3年対4年のドッジボール対抗戦は、面白かったね。ボクは4年に入り、結構活躍したのではないかと思う。女の子だけでなく(←ここ強調)、男の子も仕留めた。あれは、盛り上がるね。
ソン君に卓球で勝ったのも嬉しかった。ソン君はなにかというと卓球で勝負をしようとしてくるからね。あ、そうそう、吹出さんにも、左手でプレイするというハンディを負いながらも、勝てたんだからね。(このあたり、ちゃんと記録にとどめておかなくちゃ。)
しかし、サッカーは、マイッタ。最近全然フットサルをしていないので、もうサッカーのやり方をまったく忘れてしまった、という感じであった。最初の方こそ、コーナーキックとかフリーキックとかから、結構よいクロスを上げたりしていたが、後半はまったく見せ場がなかった。三浦君と山下君の華麗なプレイをみながら、いいなあ、と指をくわえるしかなかった。そうそう、木村君もなかなかいい動きをしていたし、中西君も2得点していたね。みんな、なかなかのもんである。
今回の反省点は、人数がたくさんいたのに、フィールドを小さく区切ってしまったことにあった。ボクは、スタミナでは、いまの大学生に負ける気がしない。小さい中でコマゴマやられると、テクニックの点で歯が立たないが、長い距離を走らせて疲れさせれば、彼らと今でも対等にできるのではないか、と思っている。しかし、どうも、(5分も走るとゼイゼイしはじめる)三浦君が、故意にフィールドを小さく区切ったのではないか、と思う。うーん、これで、ボクの持ち味が発揮できないまま、終わってしまった・・・。
ゼミ合宿では、思いがけない、いろいろな発見がある。食堂に早くきて、献身的にみんなの食事を並べる人がいたり、なるべく知らないひとと交わろうと目立たない努力をしている人がいたり、またボクに対してさりげなく気を使う人がいたり・・・ボクの(教師としての)役回りは、そういうことに気付いてちゃんと評価してあげることだと思っている。ボクなりに、ちゃんとみていたつもりですよ。
最後に、だれも怪我なく、東京に戻ってこれてよかった。
また、明日から張り切っていきましょう。

2006年04月01日

スターバックスのマフィン

ボクは、カナダのバンクーバーをよく訪れるのであるが、そこでの朝食は、たいていスターバックスで、と決まっている。バンクーバーは、スターバックスの発祥地であるシアトルから近く、ロブソン通りの第1号店をはじめとして、本当にたくさんの店が展開している。石を投げればスタバに当たる、犬も歩けばスタバに当たる、すべての道はスタバに通じる、渡りに船ならぬ渡りにスタバ…、まさにそんな感じである。
一般に、北米のスターバックスは、日本のスターバックスよりも、ペイストリー系メニューが充実していて、いろいろな種類のマフィンやスコーン、ケーキなどがおいてある。ところが、ですね、すべてのスタバがすべて同じメニューかというと、そんなことはけっしてないんですね。ボクのお気に入りのマフィンは、Low-fat Banana Wild Blueberry Muffin with Soy Milkという舌を噛みそうになるくらい長い名前なんだけど、バンクーバーでも、これを置いてあるところとないところがある。行き当たりばったりに入った店で、ウィンドーを見わたし、このマフィンがおいてないとがっかりする。で、そこでは、コーヒーだけ買って、行き着けの違う店に、わざわざこのマフィンを買いに行ったりしたこともある。このマフィンは人気があって結構早く売り切れてしまうので、一軒、二軒と、なんと「スタバのハシゴ」までして、このマフィンを探したことさえある。ホント、それほど、おいしいんですね。
さて、このマフィン、名前があまりにも長いので、日本人のボクには注文するのが結構大変である。最初の頃は、律儀に「ロゥファットバナナワイルドブルーベリーマフィンウィズソイミルク、プリーズ」と全部いっていた。いっぺんにいおうとすると、絶対どこかでつまる。朝の混雑時には、後ろにお客さんがずらりと並んでいるから、ついあせる。で、あせればあせるほど、つまっちゃって、何度も言い直さなければならない。ところが、次第に、店員さんたちがこのマフィンの名前を縮めて、呼んでいるのに気がついたのですね。店員さんたちだって、こんな長い名前をいちいち全部復唱していたら、時間がかかってしょうがない。で、ボクの観察では、その省略の仕方には、いろいろなパターンがあることがわかった。「バナナブルーベリーウィズソイ」がまあ一番一般的なんだけど、「バナナウィズソイ」とか「ロゥファットバナナ」だけの人もいる。
というわけで、それ以来、ボクも省略形でこのマフィンを呼ぶことにしている。一時期は、毎回違う省略形のパターンを使ってみて、どこまで省略したら店員さんに通じなくなるかを試すというのが、ボクの中で朝のひとつのエンターテイメントであったこともあった。ボクの経験からすると、「バナナブルーベリー」や、「ロゥファットブルーベリー」は、ぜんぜん通じる。「ブルーベリーウィズソイ」や「ワイルドブルーベリー」もオッケー。しかし、「マフィンウィズソイ」や「ウィズソイ」だけだと、やっぱりダメ。いくら何でも、それは横着って感じかな。ただ、ウィンドー越しに指さして、これこれ、って感じのジェスチャーをすれば、どんなに省略しても結局大丈夫でした。以上、どうでもいいような、体験レポートでした。

2006年03月31日

続・名前について

ほぼ20年ぶりにアメリカのニューヘブンにあるイェール大学を訪れ、前に住んでいた寮Hall of Graduate Studiesの周りをうろついていたら、ボクがよく朝食をとっていた店がまだ健在だったのでとてもうれしくなった。その名はEducated Burger。昼以降はハンバーガーやフィッシュ&チップスなどのメニューになるが、基本的には典型的なbreakfast placeである。ボクは朝食をしっかりとらないとうまく機能できない方なので、当時、目玉焼きとかフレンチートーストとかを注文していた。卵料理には、トーストとホームフライドポテトがついてきて、それでも安かった。
で、このEducated Burgerという店の名前なんだけど、なんか面白いでしょう?もちろんここのハンバーガーを食べたからといって、頭がよくなるわけではない。また、この店のオーナーや料理人たちが、店のお客さんであるイェール大学の学生たちと同じぐらいインテリで学があるというのでもない(と思う)。この命名の発想は、おそらく逆なんだね。俺たちはイェールの学生さんたちに自分たちの料理を食べさせている、その中には将来有名になる人もいれば、大成功する人もいる。もしかしたらアメリカの大統領になっちゃう人もいるかもしれない。そういう人たちにこの場所でずっと料理を出し続けてやってきた、それをうれしく思うし、そのことは俺たちの誇りだ・・・そんな思いがこの店の名前の裏にあるのではないか、という気がする。
そういえば、北米には、気のきいた名前のついた店がよくある。センスいいなあ、と本当に感心してしまう。ちょっと、いくつか紹介すると・・・・
ワシントンDCを訪れたとき、ホワイトハウスのすぐ近くに、Off the Recordというバーがあった。ね、面白いでしょ?もちろんこの命名は「今晩、オフレコで話そうじゃないか」なんていう政治家やジャーナリストたちの会話を考えた上での洒落である。
バンクーバーのブリティッシュコロンビア大学行きのバス停の横には、Grounds for Coffeeというコーヒーショップがある。コーヒーを「挽く」というときの動詞grind(の過去分詞ground)と、「○○の根拠」というときの「根拠」にあたるgrounds、さらには単に場所という意味でもこのgroundsをかけて使っている。
女性のアパレルのお店で、Wear Else? という店もどこかで見たことがある。「ほかにはありえないでしょ?」ということを意味する「Where Else?」をもじっているんだね。ソファーを売る店で、sofa so goodという店。「so far, so good」という慣用句とかけている。ネクタイの店で、Ties Я Us。これは、もちろん、おもちゃ屋「Toys Я Us」をもじったもの。
日本でも、気をつけてみれば、こういう風に気の利いた命名があるのかもしれない。でも、なんか、日本だと、単なる駄洒落になってしまうのではないかなあ。あの毎週電車のつり広告でみる、AERAのコピー。はっきり言って、あれは、無い方がいいんじゃないでしょうかね。
ちなみに、うちの学部長である藪下先生は、とんでもない駄洒落王です・・・・一度スイッチがはいってしまうと、ホント手がつけられないです・・・・

2006年03月20日

フランス語とヨーロッパの歴史について

ヨーロッパにいって、風邪を引いて帰ってきました。高熱が続くので、インフルエンザだろうね。帰りの飛行機では、咳がとまらず、きっと周りの乗客に自分に移ったら嫌だなと心配させてしまいました。本当に申し訳ありませんでした。
さて、ヨーロッパにいくといつも思うことが二つある。ひとつは、フランス語ができるといいなあ、ということ。今回の出張では、オランダとベルギーを訪ねたのだが、とくにベルギーのブリュッセルでは、圧倒的にフランス語だった。ブリュッセルはベルギーでも北部の方だからオランダ語圏かと思いきや、ホテル、レストラン、タクシーまで、ほぼみんなフランス語だった。ま、英語も通じるのでぜんぜん問題ないのだけど、まわりがフランス語で会話していると、自分のしゃべっている英語の音感がいやに堅苦しく耳についてしまう。「イエス、トゥー・コッフィー」ではなく「ウィ、ドゥ・カフェ」などとさらりといって、注文してみたいものだ。ちなみに、ブリュッセルのレストランは本当に美味しかったです。
もうひとつは、ヨーロッパの歴史をもっとちゃんと勉強しておけばよかった、ということ。飛行機や電車で移動中に、ガイドブックにある短い紹介文を読んで理解しようとするのだが、その短い紹介文すら、複雑すぎてなかなか頭に入ってこない。封建諸侯の群雄割拠、スペインやフランスの覇権拡張、宗教対立、そして他国による占領など、とにかくいろいろあったんですな、この地方は。で、すこし詳しい概説書になると、もう大変なことになる。フランク王国のシャルルマーニュ、ハプスブルグ家のマクシミリアン1世、カール5世、フェリペ2世、カルロス5世、フェリペ5世・・・などなど、名前さえ覚えきれない多くの人々が登場する。そのそれぞれがどういう関係になるのかなんて、一夜漬け式に覚えられるわけないよね。
でも、今回、ひとつだけよくわかったことは、ブルージュとアントワープとアムステルダムの関係。この三つの都市は、それぞれ国際的商業都市として発展したのだが、それぞれの関係がどうなっていたのかは、ボクはまったくわかっていなかった。で、ボクの今回仕入れた泥縄的知識によると、ですね、最初栄えたのはブルージュ、だったんですね。ところが、ブルージュは沈泥によって港が使えなくなってしまう。そこで、代わってアントワープが栄えるようになった。しかし、オランダが台頭し、ベルギー地域を支配していたスペインに対して強硬な要求ができるようになると、ベルギーの方へ流れている河口を閉鎖することに同意させてしまった。それで、アントワープが衰退し、代わりにアムステルダムが栄えるようになった・・・と、どうもそういうことらしい。
こう考えると、この三つの都市は、時代はかなりずれるけれども、ライバル関係にあった、ということもいえる。そういうライバル意識みたいなものを、今でも引きずっているのか、ちょっと興味あるところだ。ただ、そういうのは、短い滞在ではなかなか感じることができないかもしれない。すこし長期に滞在して、それぞれの街にすむ人々の生の声を聞くと、きっとヨーロッパの歴史ももっとすっきりと頭にはいってくるようになるんだろうね。

2006年02月17日

ノースビーチ

出張から帰ってきましたので、日記再開します。
さて、サンフランシスコが大好き、ということは前にこの日記にも書いたけど、その中でもとくにボクのお気に入り、それはノースビーチです。そう、ここは、イタリア人街。一時、さびれて、ストリップクラブが軒を連ねるちょっと危ないところというイメージだったのだけど、いまではもうすっかりその汚名を返上した。夜遅くまでにぎやかで、歩いていてもぜんぜん安全で、快適。ユニオンスクエアーから中華街を突っ切って10分もすれば、コロンバス通りにでる。それを左の方へ上がっていく。City Lightsという屋根裏部屋のような本屋さんがあり、そこで一服するもよし。音楽をききたければ、Pink Pearlsという結構レベルの高いジャズクラブもあるし、そのほかにもライブ演奏しているバーも数多くある。裏通りには、いくつか凝ったインテリアの店もあって、ホントウに楽しい。
ノースビーチで食べるなら、もちろんイタリアン。今回は大きな一軒家を改造したような店、Bocce Caféに行きました。店内は、天井が高くて気持ちがよい。暖かければ、外のバルコニー席も選べる。混んでいるときは、カウンターで一杯飲んでからドリンクをもって椅子席に移動する。運がよければ、ソファー席にゆっくり座ることもできる。ここは、値段が手ごろで、かつ膨大な量の料理が出てくるので、とりすぎ食べすぎにご注意ください。
軽くピザでもというときには、コロンバス通りに面している小さな店、Osteriaへどうぞ。夜いくといつも並んでいるので、昼にいくといいかもね。コーラを注文すると、缶ごとストローと一緒にでてくるという感じで、まったく飾りのない店。でも、味も雰囲気も申し分ない。
絶対はずせないのは、プッチーニというカフェのデザート。コロンバス通りには、いくつもカフェがあるので、分かりにくいかもしれないけれど、ここのチーズケーキは絶品です。他にも、ティラミスとか、日替わりのケーキがあっておいしそうなのだけれど、ボクはあるとき偶然出会ってしまったここのチーズケーキの味が忘れられず、いつもそればかり注文してしまう。今回も行きましたが、以前とまったく変わってなくて、安心しました。店には、いつも見習い風の若い衆がいて、彼らが一生懸命なのも、とても好感がもてる。
ところで、ノースビーチには、ちょいわるオヤジたちがたくさんいるのです。夜、食事もデザートも済ませて、もう一杯だけ飲んで帰ろうかと、その辺のバーに入るでしょ。すると、いるいる、アメリカ版ちょいわるオヤジたち。結構お腹もでて頭も禿げ上がっているのに、どういうわけか、若い綺麗な女の子を連れて、ゆったりと構えて座っている。で、ライブ音楽が始まると、二人で踊りだすのです。それがセクシーで、格好いいんだな。ラテン系の強みなのかなあ。ああいう腰の動きは、われわれ日本人のオヤジたちには、真似できませんね、ちょっと練習してみたけど・・・

2006年02月09日

サンフランシスコ

明日からサンフランシスコへ出張です。なので、しばらくこの日記を更新できなくなると思う。ここまで快調に書いてきたので、中断するのはちょっと残念だけど、ま、しょうがないね。帰国したら、出張のご報告がてら、またペースを戻していくことにします。

さて、サンフランシスコ。ボク、大好きなのです。だから、どうも、「出張」なのに心がウキウキと踊ってしまう。♪I left my heart~~~in San Francisco~~♪目をつぶると、ほんとに、いくつもの坂が空につづいている光景が浮かんでくる。
世界のどこに住みたいかと聞かれて、自由に選べるんだったら、ボクの場合は間違いなくサンフランシスコと答える。人種や民族が多様で、活気があって、オシャレで、海に囲まれていて、料理が美味しくて、文化が栄えていて・・・、と、良いところをあげればキリがない。物価がちょっと安ければ、もう、いうことないんだけどね。
人生のある一時期、ボクは毎年、サンフランシスコを訪問することにしていた。その頃はまだ向こうに友人が多く住んでいたので、彼らを訪ねていったり、母校のスタンフォードに戻ってみたり、あるいはたまった仕事(執筆)をこなすために気分転換にいく、ということもあった。すると、どういうわけか、東京ではできないような面白い経験をすることができて、それが自分にとってかけがえのないエネルギーとなっているのが感じられた。
たとえば、ある年、友人に連れられて、飲茶ブランチへいったことがあった。そこには6~7人、ボクにとっては初対面の人たちがいて、紹介されることになった。新しくフランス料理店を開くことになったというご夫妻。サンフランシスコという街でレストランを開くことの苦労話をいろいろ聞かせてくれた。そのとなりには、香港からきているというご夫妻。ここで何をしているのですか、と聞いたら、「いや別に。この街を楽しんでいるだけ」という。会話をしているうち、ベンチャーに出資して大当たりして、もう働かなくてもよいくらいのお金持ちだということが判明した。「いまは、いろいろなところに半年ぐらいずつ住んで、最終的な居住地を決めているところなの」。へぇー、世界には、いろんな人がいるもんだなあと、そのときつくづく思った。そして、ボクの友人。スタンフォードの政治学博士号をもっているのに、政治学をさらりとすてて、画家になる勉強をしていた。で、その彼氏。シリコンバレーにある、会社の社長。彼氏というよりも、そのスポンサーかな。ね、面白いでしょう?こういう(日本ではそうお目にかかれないような)人たちと会うと、なんか日本の生活の中で溜まっていたストレスが、すーっと抜けていったのですよ。
当時、ボクはホテル日航を定宿にしていて、ボクの顔をみるとスタッフたちは「お帰りなさい」という挨拶で出迎えてくれた。もちろん、「ただいまー」って入っていくわけには、いかなかったけどね。
では、行ってきます。おみあげ(話)を期待していてくださいね。

2006年02月06日

関西

関西方面へ出張していて、日記更新が遅れてしまった。今月と来月にわたり、めまぐるしく海外へ出張しなければならないのでこれからもたびたび更新できないことが予想されるのだが、やっぱり、やろうと思い立ったことが途切れてしまうのは、あまり気分のよいものではないね。ま、気を取り直して。
ええと、今日は、その関西について。
まず、関西へ行っていつも思うのは、人が少ない、ということ。そういうと、すぐさま反論その①「ええっ、そんなことはない、梅田とか三宮とか、人がウジャウジャいるじゃん」(←なぜか横浜弁)が返ってきそうだが、ちがうんだな、コレが。どんなに混んでいても、首都圏のラッシュアワーのような混雑ぶりは、関西の電車ではいまだに経験したことがありません。やっぱり、東京の混み方は、ちょっと尋常ではない。「夜11時ごろの山手線、あれ、異常やでェ」と(関西弁丸出しの)久米先生がおっしゃるとおりだと思う。
今回は、神戸大学へ行ったのだが、そのキャンパスも昼間から閑散としていた。まだ試験期間中(みたい)だったので、学生たちがいなかったというわけではけっしてない。ただ単に、人口密度が低い、それだけのことなのです。ゴミゴミした早稲田からすると、実にうらやましいほど。大きな木も多いし、遠くに海は見えるし、あんなところで勉強できる学生さんたちは、まちがいなく恵まれている。ただ、夜になるとちょっと寂しいのではないかな、とも思うけどね。
それから関西へ行っていつも思うのは、関西人は背が低い、ということ。これに対しては、反論その②「はあッ?なにィ?それは偏見やでェ、関西バカにしたらアカンでェ」(←こちらはなぜか地元弁)が返ってきそうだが、関西の電車に乗ると、ホント、東京で電車に乗るより自分の身長がひときわ高くなった気がするのですよ。はて、でも、なぜだろう。東京では、ボクよりも背の高い若い男性の人口の比率が高いのかな。あるいは、東京周辺で、最近、外国人人口が激増しているせいかな。
あと、関西人、基本的に楽しい人が多いですね。新大阪駅の新幹線からの出口では、声の大きな女性駅員が元気に案内係を務めていて、もうそれだけでこちらの気分も明るくなってくる。お店に入っても、タクシー乗っても、フレンドリーな人多いしね。電車でも、結構、他人の子供や赤ちゃんに話しかけている場面を見かける。
実は、研究者たちについても同じことがいえて、ボクは、関西出身の政治学者たちが好きですね。なにせ、みんな、プレゼン能力が高く、面白い。久米さんもそうだけど、京都大学の待鳥さん、大阪市立大学の北村さんなど、発表のどこかで絶対笑いをとってやろうといつも(真剣に)考えている。そういえば、以前、ある学会のパネルでこの強力トリオと一緒に発表しなければならないときがあって、彼らのしゃべくり技術にまったく太刀打ちできず、悔しい思いをしたことがあったなあ。ま、しょうがないか、彼らには、吉本興業の血が入っているんだからね。