« サンフランシスコ再訪2008 | メイン | ハヤシライスが食べられなかった話 »

沖縄平和祈念公園

ゼミ生たちと沖縄を訪れた。
事前の旅行計画を立てる段階で、ボクはどうしても平和祈念公園だけには行きたいとこだわった。そんなわけで、ゼミ生みんなで1時間ほどをそこで過ごすことになった。
天気は晴れ。ボクは白いシャツを着ていた。
前回この場所を訪れた時、ボクは宗前先生のはからいで(当時)琉球大学の学生だった二人に案内してもらった。公園は、広くて、綺麗で、そして光り輝く海が見えて、それだけでも感動した。
しかし、そのときボクはその場所で、おそらく一生忘れることのない経験をすることになった。ボクらは、沖縄戦で亡くなった人々の名前が刻まれた石碑の間を歩いていた。その石碑には何万、いや何十万という人々の名前が刻まれている。その名前をじっと眺めていたとき、ふとその若い二人に「あなたたちのご親戚で、ここに名前が刻まれている方がいらっしゃるのですか」と尋ねた。そしたら、その若い二人はどちらも「はい」と答えて、自分自身に直接関係する人や近所の知り合いの親戚の名前がそこに刻まれていると教えてくれた。
ボクは、その時、遅まきながらではあるが、沖縄に生まれ育った方々がこの公園に対してもつ思い、ボクのような一介の観光客をそこへ案内するときの彼(女)らの気持ちの複雑さを思い知らされることになったのである。
平和祈念公園は、本当に美しい公園である。キラキラと輝く青い海と綺麗に手入れの行き届いた花々を背景に、なんとも穏やかな空気が流れている。いまでは多くの外国からの観光客も訪れている。そして幼い子供たちが、無邪気にはしゃぎ回っている。
しかし、もちろん、そこはかつて多くの人々が死んでいった場所であり、その人々の魂を鎮める場所でもある。そうした犠牲者たちの名前が刻まれた石碑が立ち並んでいることが、平和な風景とそこに流れる穏やかな空気に限りない奥行きを与えているように思える。平和がとてつもなく大きな代償を払うことによってしか得られないという現実。しかし、とてつもなく大きな代償を払うことよって得られた平和がなんと美しいかというもうひとつの現実。平和祈念公園は、この二つの現実を見事に物語っている。
ボクは、今回も、前回とおなじに、石碑からなかなか目を離すことができなかった。
石碑には、名前が刻まれているだけである。それは、非常に無機質で無感情な名前の羅列に過ぎない。しかし、その無機質さ、無感情さがボクを圧倒する。名前の刻まれているそれぞれの人は、いったいどういう人だったのか。どのような人生を送り、その人生はどのようにして最後を迎えたのか。その時何を思ったのか。何を念じたのか。
そういうことは、わかりようもない。
わかりようもないから、なかなか目を離すことができないのである。
またいつか、機会があったら、訪れたいと思う。