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2011年08月23日

兎と亀の政治学的会話:前原の出馬は何を物語るか

兎:いよいよ前原が代表選に立候補したね。
亀:そうみたいだね。
兎:もったいぶらせやがって。どうせ最初っから、出たかったくせにさ。
亀:そりゃそうだよ。政治家の行動を突き動かしているインセンティヴは、一に再選、二に昇進だからね。誰だって首相に昇りつめたいとおもっているわけさ。
兎:野田が可哀想だ。
亀:あはは、そんなことはない。野田の場合は、前原が出馬宣言してしまってからでは、名乗りをあげられない。だから、自分が先手を打つしかなかった。それで前原が諦めてくれることを願うしか、勝ち目がなかったんだな。うまくいかなかったが、まあ彼にとっては早い段階で動くことが、合理的だった。
兎:前原には、野田が立候補したことで。焦りはなかったのかね。
亀:全然なかったと思うよ。だって、考えてもごらんよ。前原にとっては「待つ」戦略が最適だった。「前原は出ないのか」という待望論がザワザワと背景にある限りは、野田を含め「どの候補もいまいちだなあ」という気分が広がる。そういう気分にさせればさせるほど、前原が最後に出てきて「いいとこどり」する効果が倍増するわけだ。それに前原には、短期決戦を好む理由がある。献金問題やらなにやらで、いろいろな質問攻めにあうのはたまらない。だから、だーっと、最初の勢いのあるうちに、代表選を迎えたいんだよ。
兎:そうかあ。「白紙」とか「熟考中」とか、いろいろいってたけど、ただただ時間のたつのを待ってたんだね。
亀:ストーンズでも口ずさんでたんじゃないか、「Time is on my side, yes it is」ってね(笑)。
兎:でもさ、仮に前原が今回代表になったとしても、首相を長くは続けられないよね。あと2年のうちには、総選挙がある。このままじゃ間違いなく、民主党は負けるよね。
亀:そう。だから、前原が出馬するっていうことは、結構意味深いことだと思うよ。
兎:どういう意味だい?
亀:前原にしてみれば、本当は短命に終わる政権なんて、望むところではないはずだよね。まだ若いし結構自信家だから、自分だってやろうと思えば小泉さんぐらい長くできると思っている。とすれば、だね、ここは一回パスして、次の機会をうかがう、っていう戦略だって、彼の頭をかすめたと思う。
兎:一種の長期戦略だね。
亀:そう。でもね、彼は長期戦略をとらず、今回短期戦略をとろうと決心したわけだ。
兎:それは何を意味するんだい?
亀:それは、だね、前原自身が、次の選挙で民主党が勝つことはありえない、という判断をした、ということを意味するんだよ。おそらくは、大負けをするだろうと。そして、立ち直るまでに相当時間がかかるだろうと。いや、立ち直れるかどうかも、わからないと。彼は自分の党の将来に見切りをつけたというわけさ。
兎:そうか。冷静というか、結構、冷酷だね
亀:いやいや、合理的なだけさ。しかしね、わかんないのはさ、前原を担いでいるあの若い連中たちだよ。あの人たち、リーダーが立候補を決めたということが実は党の将来に見切りをつけたことを意味するということをわかって、彼を担ごうとしているとは、どうみても思えないんだな。

2011年08月15日

なぜ経済学者の論争は不毛か

昨日NHK「日曜討論」を見ていたら、早稲田の同僚の若田部さんと、まえに一緒に仕事をしたことのある慶応の土居さんがそろって出演し、震災後の復興とこれからの日本経済の立て直しについて、野田財務大臣を囲んで話をしていた。政治家たちによる討論の時とちがい、学者がゲストとして出演しているときの「日曜討論」はどこか淡々と進むことが多いのであるが、昨日はそういう退屈さを察してか、司会の解説委員の方が一所懸命、若田部さんと土居さんとの対立点を強調しようとしていた。ま、早稲田対慶応という構図もわかりやすいし、それも一興だな、と思ってみていたのだが、そのうちこの二人の経済学者による論争はやっぱりなにかずれている、というか、なにか大事な点を見逃している、という感想を強くもった。
ごくごく単純にいうと、土居さんは消費税を上げる必要性を主張し、若田部さんはいまは消費税をあげる時ではないという主張をしていた。しかし、土居さんも若田部さんも、どちらも日本経済がデフレを脱却することがもっとも肝心であるという点では意見が一致していた。では、デフレ脱却という目標で一致しているにもかかわらず、なぜ二人の意見は対立するのか。土居さんはいつどのくらい消費税率をアップするかを明確にすることこそが、人々のインフレ期待を高めるので、デフレ脱却に効果的であると考える。一方の若田部さんは、いま震災から復興しようとしているさなかに増税を予告することは、消費マインドを下げ経済を停滞させるだけである、という考えである。
一見したところ、この意見の相違は、経済学における理論上の対立に基づいているようにもみえるが、実はまったくそうではない。土居さんは、急務の課題である震災からの復興と、今後の日本経済の成長とを切り離して論じることはできないとする立場にたって、デフレ脱却を模索する。一方の若田部さんは、震災からの復興はそれとしてとらえ、日本の抱えるより大きな財政や社会保障の立て直しの問題とは切り離して考えるべきだと反論する。とすると、二人の間の対立は、経済学の内部では解消されえない考え方の違いに根ざしていることになる。なぜなら、二人の間の対立点は、「短期」の問題と「長期」の問題とを切り離して考えるべきかどうか、ということについての意見の違いに由来しているからである。
もし切り離して考えるべきだ、というのであれば、若田部理論が正しい。切り離せないのなら、土居理論が正しい。つまり、それぞれの理論は、それぞれの前提にもとづけば、どちらも正しい。しかし、そもそも「短期」と「長期」とを切り離して考えるべきか否かという、その前提そのものについては、二人の経済学理論はどちらも、知的に有益な示唆や情報を何も提供してくれていないのである。
「短期」とは何か。それはすぐれて哲学の問題であるとでもいわなければならない。あるいは、人間や国家社会にとって「短期」と「長期」とは連続しているのか、断続しているのか。そのような問いかけは、心理学者にゆだねられるべき問題、あるいは歴史学者が(結論のあてなく)延々と議論する問題であろう。そして、目下の日本が抱える課題として、「短期」に集中するのか、「長期」まで考えた経済の構築をはかるのか。それは、まったくもって政治の選択の問題であって、すくなくとも経済学の理論から解答がえられるような問題ではないのである。

2011年08月04日

天災と神の天罰について

院生の金君からすすめられてJudith ShklarのThe Faces of Injusticeを読んだ。この本は現代哲学では古典の部類に入るらしいが、残念ながら訳本はない。しかし、大震災に見舞われたこの日本で、できるだけ多くの人に読んでもらいたい、素晴らしい本である。
この本は、When is a disaster a misfortune and when is it an injustice?という問いかけから始まる。災害は、どういう時に「不運」で、どういう場合に「不正義」となるのか。われわれは、全くの天災だったらそれを「不運」と位置づける。一方、「どこかで正義でないこと、正しくないことが行われて、それが起こった」と感じれば、われわれはその不正義を追及したいと思う。しかし、シクラー先生は、この二つを分けることは容易ではない、という。実は、この本は、最初から最後まで、不運としての天災と不正義としての天災との境界がいかに微妙で曖昧か、というメッセージを、繰り返しいろいろな角度からさまざまな実例を通して、われわれに伝えようとするものである。
たとえば、今回日本でおこったことについて、地震と津波は「天災」だが、原発事故は「人災」だった、というような線引きが行われることがある。原発事故が単なる不運として片付けられないことは明白だが、では地震や津波で多くの人々が亡くなったことにまったく「不正義」はなかったといえるのか。どこかで誰かが、防波堤の高さと強度を過信させ、人々の警戒を怠たらせるという不正義を働かなかったか。どこかで誰かが、高いところへ避難するための逃げ道を整備するのを怠るという不正義を働かなかったか。考えだせば、可能性としてはきりがない。
さて、この本の第二章は、The modern age has many birthdaysという興味深い一文から始まる。そして、近代という時代の始まりとしては、いろいろな契機が考えられるが、その一つとしてリスボン大地震がある、という。1755年に起こったこの地震では、1万人以上が死んだといわれている。では、なぜこの地震が起こった日を近代の幕が開けた日と考えられるのか。シクラー先生は、以下のように説明する。この地震までは、天災が起こるとヨーロッパでは、それが神さまの仕業であるという議論がまかり通っていた。天災に見舞われた人々が「なぜ私たちだけが不運に見舞われなければならないのか」と問い、それに対して教会や宗教家たちは「神の意志である」というような解釈をしてきた。しかし、リスボン大地震の後では、被害の規模があまりに大きかったため、そのような解釈はもはやすんなりと受け入れられなかった。ヴォルテールは、神にしてはあまりに残酷な仕打ちではないかと教会や宗教者たちを挑発し、ルソーは大規模な被害が出たのは、神の仕業ではなく富めるものあるいは権力を握っているものたちが原因ではなかったかと糾弾した。そして、カントは、当時の科学的知識を総動員して地震の原因を探ろうとし、神の行為を詮索するのは止めようと諭した。ただ、いずれにしても、リスボン大地震は、神と人間の関係についての議論の仕方を大きく変えてしまった。すなわち、この地震を最後にして、知識人たちが公的の場での論争において、「なぜ神は罪もない多くの人々を殺すのか」という問いを議論することはなくなった。こうして、啓蒙近代が訪れた、というわけである。
実は、昨日、東日本大震災は日本人に下った「天罰」であると発言し、一度それを撤回しながらも新しい著書でその言葉を再度用いた政治家の方と、テレビ番組でご一緒させて頂いた。残念ながら、きっかけをうまくつかめず、上記のシクラー先生の本については、番組中も番組が終わってからも、その方に伝えることができなかった。