なぜ経済学者の論争は不毛か
昨日NHK「日曜討論」を見ていたら、早稲田の同僚の若田部さんと、まえに一緒に仕事をしたことのある慶応の土居さんがそろって出演し、震災後の復興とこれからの日本経済の立て直しについて、野田財務大臣を囲んで話をしていた。政治家たちによる討論の時とちがい、学者がゲストとして出演しているときの「日曜討論」はどこか淡々と進むことが多いのであるが、昨日はそういう退屈さを察してか、司会の解説委員の方が一所懸命、若田部さんと土居さんとの対立点を強調しようとしていた。ま、早稲田対慶応という構図もわかりやすいし、それも一興だな、と思ってみていたのだが、そのうちこの二人の経済学者による論争はやっぱりなにかずれている、というか、なにか大事な点を見逃している、という感想を強くもった。
ごくごく単純にいうと、土居さんは消費税を上げる必要性を主張し、若田部さんはいまは消費税をあげる時ではないという主張をしていた。しかし、土居さんも若田部さんも、どちらも日本経済がデフレを脱却することがもっとも肝心であるという点では意見が一致していた。では、デフレ脱却という目標で一致しているにもかかわらず、なぜ二人の意見は対立するのか。土居さんはいつどのくらい消費税率をアップするかを明確にすることこそが、人々のインフレ期待を高めるので、デフレ脱却に効果的であると考える。一方の若田部さんは、いま震災から復興しようとしているさなかに増税を予告することは、消費マインドを下げ経済を停滞させるだけである、という考えである。
一見したところ、この意見の相違は、経済学における理論上の対立に基づいているようにもみえるが、実はまったくそうではない。土居さんは、急務の課題である震災からの復興と、今後の日本経済の成長とを切り離して論じることはできないとする立場にたって、デフレ脱却を模索する。一方の若田部さんは、震災からの復興はそれとしてとらえ、日本の抱えるより大きな財政や社会保障の立て直しの問題とは切り離して考えるべきだと反論する。とすると、二人の間の対立は、経済学の内部では解消されえない考え方の違いに根ざしていることになる。なぜなら、二人の間の対立点は、「短期」の問題と「長期」の問題とを切り離して考えるべきかどうか、ということについての意見の違いに由来しているからである。
もし切り離して考えるべきだ、というのであれば、若田部理論が正しい。切り離せないのなら、土居理論が正しい。つまり、それぞれの理論は、それぞれの前提にもとづけば、どちらも正しい。しかし、そもそも「短期」と「長期」とを切り離して考えるべきか否かという、その前提そのものについては、二人の経済学理論はどちらも、知的に有益な示唆や情報を何も提供してくれていないのである。
「短期」とは何か。それはすぐれて哲学の問題であるとでもいわなければならない。あるいは、人間や国家社会にとって「短期」と「長期」とは連続しているのか、断続しているのか。そのような問いかけは、心理学者にゆだねられるべき問題、あるいは歴史学者が(結論のあてなく)延々と議論する問題であろう。そして、目下の日本が抱える課題として、「短期」に集中するのか、「長期」まで考えた経済の構築をはかるのか。それは、まったくもって政治の選択の問題であって、すくなくとも経済学の理論から解答がえられるような問題ではないのである。