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天災と神の天罰について

院生の金君からすすめられてJudith ShklarのThe Faces of Injusticeを読んだ。この本は現代哲学では古典の部類に入るらしいが、残念ながら訳本はない。しかし、大震災に見舞われたこの日本で、できるだけ多くの人に読んでもらいたい、素晴らしい本である。
この本は、When is a disaster a misfortune and when is it an injustice?という問いかけから始まる。災害は、どういう時に「不運」で、どういう場合に「不正義」となるのか。われわれは、全くの天災だったらそれを「不運」と位置づける。一方、「どこかで正義でないこと、正しくないことが行われて、それが起こった」と感じれば、われわれはその不正義を追及したいと思う。しかし、シクラー先生は、この二つを分けることは容易ではない、という。実は、この本は、最初から最後まで、不運としての天災と不正義としての天災との境界がいかに微妙で曖昧か、というメッセージを、繰り返しいろいろな角度からさまざまな実例を通して、われわれに伝えようとするものである。
たとえば、今回日本でおこったことについて、地震と津波は「天災」だが、原発事故は「人災」だった、というような線引きが行われることがある。原発事故が単なる不運として片付けられないことは明白だが、では地震や津波で多くの人々が亡くなったことにまったく「不正義」はなかったといえるのか。どこかで誰かが、防波堤の高さと強度を過信させ、人々の警戒を怠たらせるという不正義を働かなかったか。どこかで誰かが、高いところへ避難するための逃げ道を整備するのを怠るという不正義を働かなかったか。考えだせば、可能性としてはきりがない。
さて、この本の第二章は、The modern age has many birthdaysという興味深い一文から始まる。そして、近代という時代の始まりとしては、いろいろな契機が考えられるが、その一つとしてリスボン大地震がある、という。1755年に起こったこの地震では、1万人以上が死んだといわれている。では、なぜこの地震が起こった日を近代の幕が開けた日と考えられるのか。シクラー先生は、以下のように説明する。この地震までは、天災が起こるとヨーロッパでは、それが神さまの仕業であるという議論がまかり通っていた。天災に見舞われた人々が「なぜ私たちだけが不運に見舞われなければならないのか」と問い、それに対して教会や宗教家たちは「神の意志である」というような解釈をしてきた。しかし、リスボン大地震の後では、被害の規模があまりに大きかったため、そのような解釈はもはやすんなりと受け入れられなかった。ヴォルテールは、神にしてはあまりに残酷な仕打ちではないかと教会や宗教者たちを挑発し、ルソーは大規模な被害が出たのは、神の仕業ではなく富めるものあるいは権力を握っているものたちが原因ではなかったかと糾弾した。そして、カントは、当時の科学的知識を総動員して地震の原因を探ろうとし、神の行為を詮索するのは止めようと諭した。ただ、いずれにしても、リスボン大地震は、神と人間の関係についての議論の仕方を大きく変えてしまった。すなわち、この地震を最後にして、知識人たちが公的の場での論争において、「なぜ神は罪もない多くの人々を殺すのか」という問いを議論することはなくなった。こうして、啓蒙近代が訪れた、というわけである。
実は、昨日、東日本大震災は日本人に下った「天罰」であると発言し、一度それを撤回しながらも新しい著書でその言葉を再度用いた政治家の方と、テレビ番組でご一緒させて頂いた。残念ながら、きっかけをうまくつかめず、上記のシクラー先生の本については、番組中も番組が終わってからも、その方に伝えることができなかった。