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2011年01月30日

マクドナルドの平等と効率性

ボクがよく利用する山下公園前のマクドナルドには、注文のためのレジが複数ある。ボクが見るところ、時間帯によっては、お客さんたちが「一列待ち」をし、空いたレジへと順番に移動する慣行が自然に成立している。ところが、混んでくると各レジの前にそれぞれ列ができるようになり、状況は混沌としてくる。もちろん、「複数列待ち」は、いろいろな意味でフェアーではない。たまたま自分の前の人が大きい注文をし、しかも「領収書下さい」などというしっかり者のお客さんだったりすると、後からきて運良く隣の列に並んだ人の方が自分よりも先に商品を手にする、などということが起こる。また、複数列待ちをしている中、新しいレジが端の方に開かれると、そのレジに近い人だけが排他的にその恩恵を受けることになってしまう。
先日、そのような混沌とした中で不快な思いをしたので、ボクはマクドナルドのお客様センターに電話をして、なぜ会社として一列待ちを全国で徹底しないのか、聞いてみた。すると、1)一列待ちをさせるかどうかは各店舗の判断に委ねられている、2)店舗の中には、一列待ちをさせるほどスペースに余裕がないところもあり、すべてを一律に一列待ちさせることはできない、という趣旨の回答だった。
さて、このマクドナルドの担当者のお話は、ちょっと大げさにいうと、日本における平等の問題、ひいては平等と効率性の問題を考える上で、興味深い題材を提供しているのではないか、と思った。
ボクは、まず上記2)について、一列待ちも複数列待ちも物理的に占めるスペースは同じなのだから、意味の通らない理屈ではないか、と電話口で反論した。すると、その担当者は、ベビーカーなどと一緒に店を訪れるお客さんにとっては、一列待ちをするのが難しい状況もあるのだと弁解した。これは、なかなか練られた理屈となっている。なぜなら、この担当者は、ベビーカーや車いす利用客にも、それ以外の多数の客と同じように、つまり「平等に」、お店を利用していただくために、あえて複数列待ちを許容しているのだという論理を立てているからである。ボクが主張したい一列待ちの平等性原則に対して、少数派への配慮という別の平等性原則を対抗させて、現行の複数列待ちを擁護しようとしているのである。
しかし、よく考えればわかるように、この論理は(その時電話ではいわなかったが)やっぱり破綻している。もし、本当に(つまり、多数派にも少数派にも)平等を追求するのであれば、本来なすべきことは、ベビーカーや車いす利用客が不便を感じないですむだけの一列待ちのスペースを、各店舗に設けるということ以外、ありえない。実際、山下公園前の店は、飲食のためのスペースを少し壊せば、その位のスペースが確保できるほどの余裕が十分ある。それをしないで、多数派に不平等(が生じる可能性)を押し付ける複数列待ちを許容しているのは、なんのことはない、売り上げを延ばしたいという企業の効率性の大原則に従っているだけなのである。
最近日本では、銀行はもとより、JRのみどりの窓口とか、公衆トイレでも、人は整然と一列に並んで順番を待っている光景を目にする。この意味では、マクドナルドの対応(の欠如)は、国際的チェーンとして知られ、しかも大もうけをしている会社のやることとは思えない時代遅れなものである。また、日本社会のさまざまな場面で一列待ちが定着してきているということは、日本人の中には、特に何も指示がなければ、一列待ちをすることが当たり前であると思っている人が増えてきていることを意味する。だから、最低限、マクドナルドには、各店舗において、一列待ちをすることが期待されているのか、それとも複数の列に並ぶことが期待されているのかを明らかにし、混乱を回避するための努力をするという義務があると思う。

2011年01月23日

シールズ&ブルックス(とオバマ大統領のアリゾナ演説)

念のため、ブルック・シールズ(Brooke Shields)のことではありません。Mark ShieldsとDavid Brooksのこと。
この二人のベテランコラムニストが、毎週金曜日、アメリカのPBSのNews Hourという番組に登場して、一週間の政治について語るというコーナーがある。司会は、これまたベテランで、アンカーとして高く評価されているJim Lehrer。
ボクはこのコーナーが大好きである。落ち着いた大人の会話が流れている。情報の新鮮さというよりも、情報を解釈してみせるときに「鋭いな」と思わせるコメントがどこかに必ず含まれている。二人ともリベラルだ(と思う)が、もちろん評価や意見が異なるときがある。すると、お互い、どこにその違いが由来するのかを考える冷静さをもち、そのプロセスを通じて、視聴者の方も、なるほどいろいろな考え方ができるんだな、ということを納得する。非常に知的な掛け合いである。
ボクは、このコーナーがどのくらい長く続いているのだろうと思い調べてみたら、なんと(年上の)シールズさんの方は1988年から(パートナーを変えながらも)ずっと出演しているのだそうである。すごい、というか、こうなるともう立派な伝統である。夜のプライムタイムでレギュラーをずっと張れるのは、彼らが単に優秀だからではなく、常に努力をおしまず切磋琢磨しているからにほかならない。そうであるがゆえ、このコーナー自体も、多くの人から長いあいだ支持されているわけである。短いスパンで番組(やレギュラー)が次々と衣替えをする日本の報道番組とは、ちょっとちがう。
ジャーナリズムとは、本来、それぞれ自律している個々のジャーナリストたちによる集合的営みとして成立するものである。たとえばブルックスさんは、いちおうNew York Timesのコラムニストということになっているが、PBSのみならずABCやNBCの解説番組でもよくみかける。イギリスBBCの記者がアメリカの(他局の)討論番組に登場するということも頻繁にある。ところが、日本では、読売新聞の記者がテレビ朝日の報道番組に出演するなどということは、あまり想像できない。もしも日本で、ジャーナリズムとは日夜切磋琢磨すべき個々のジャーナリストたちによって支えられるものであるということがよく理解されていないとすれば、各新聞社・テレビ局の営みは累々続いたとしても、ジャーナリズムの伝統が確立されることはない。
さて、二週間ほど前のシールズ&ブルックスでは、アリゾナ州で起きた惨劇と、それについてのオバマ大統領の演説が話題となっていた。シールズさんは、友人の言葉であると断りながらも、この経緯について、次のように見事に、その本質を解説していた。We saw a white, Catholic, Republican federal judge murdered on his way to greet a Democratic woman, member of Congress, who was his friend and was Jewish. Her life was saved initially by a 20-year-old Mexican-American college student, who saved her, and eventually by a Korean-American combat surgeon. …And then it was all eulogized and explained by our African-American president. And, in a tragic event, that's a remarkable statement about the country.
ちなみに、このオバマ大統領の演説は、彼の数々の名演説の中でもとくに素晴らしい演説であったと評価されている。ボクもおそまきながら今日you-tubeで聴いて、涙が止まらなかった。いかにただの言葉にすぎない演説が、人々の魂を鎮め、混乱から国家を救い、国民に夢と希望を復活させることができるのか、みなさんも是非聴いてみてください。

2011年01月04日

兎と亀の政治学的会話:新春編

兎:明けましておめでとう。今年もよろしく。
亀:おめでとう。今年はキミの年だね。それにしてもウサギ年というと、「飛躍の年」だとか「跳躍の年」だとか、どこへいっても決まりきった新年のあいさつしか耳にしないのは、つまらんなあ。
兎:悪かったね(笑)。ところで、われわれの前回の対談は、まったく的をはずしてしまったね。民主党の党首選では菅が勝ってしまった。
亀:いや、的外れどころか、大当たりだと思ったけどな。
兎:そうかな。われわれはこう予測した。小沢には、負けたら党を割って出るまでの覚悟がうかがえる。それに匹敵するような迫力が、菅の方には見えない。だから小沢が圧勝するだろう、と。
亀:そう。しかし、あのとき、われわれはこうも予測した。菅が勝つとすれば、それは、小沢と曖昧な仲直りをしないことを明確にする場合だろう、と。今起こっている、いわゆる「小沢切り」は、その予測が正しかったことを証明しているんじゃないかね。
兎:つまり、党首選に際し、菅は、小沢を切ることを本当に約束して、自分への支持を固めたということか。
亀:そうとしか考えられない。小沢の「党を割って出て行ったって、いいんだからな」という脅しに対抗できる唯一の脅しは、「出て行かなくたって、こっちから追い出してやるからな」という脅ししかなかったのさ。まあ、その意味では、すごいガチンコの勝負だったんだな、あの党首選は。
兎:なるほど。それで今、党大会が間近に迫る中で、菅はそのときの約束をほごにしたら、自分を支持してくれた人たちから批判をまねくことになるんで、実行に移しているってわけだ。つまり、「小沢切り」はなにも唐突に始まった話じゃなくて、党首選の政治的駆け引きの中に種がちゃんと蒔かれていた、というわけだね。
亀:菅は、小沢を切らなければ、自分を支持してくれた反小沢グループから見放されるという意味で、追いつめられているというか、選択の余地がないのさ。
兎:しかし、追いつめられているといったら、小沢の方がもっと追いつめられているだろうね。
亀:その通り。いまや「党を割って出て行く」という脅しは、まったく効かないからね。それどころか、党を割って出て行って、強制起訴されたら、彼の政治生命は本当に終わってしまう。
兎:小沢にとって、起死回生の一手は残されていないかね。
亀:ないだろうね。小沢は、仙谷(と馬淵)問題をテコにして、党大会で揺さぶりをかけるだろうが、いま、菅は、内閣改造についてずっと何もいわないでいる。これは、小沢からの批判が出てきたときに仙谷を切ってかわそうと、カードを温存しているからだ。よく考えているよ。
兎:しかし、そうなることは、仙谷だって十分承知しているはずだ。
亀:そうだね。だから、これから万が一の起死回生があるとすれば、小沢が仙谷と連携することじゃないかな。菅にお払い箱にされる者同士として、二人の利害はだんだん一致してくるはずだから。ま、これまでの二人の関係からすると、それはなかなか難しいだろうと思うけどね。