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シールズ&ブルックス(とオバマ大統領のアリゾナ演説)

念のため、ブルック・シールズ(Brooke Shields)のことではありません。Mark ShieldsとDavid Brooksのこと。
この二人のベテランコラムニストが、毎週金曜日、アメリカのPBSのNews Hourという番組に登場して、一週間の政治について語るというコーナーがある。司会は、これまたベテランで、アンカーとして高く評価されているJim Lehrer。
ボクはこのコーナーが大好きである。落ち着いた大人の会話が流れている。情報の新鮮さというよりも、情報を解釈してみせるときに「鋭いな」と思わせるコメントがどこかに必ず含まれている。二人ともリベラルだ(と思う)が、もちろん評価や意見が異なるときがある。すると、お互い、どこにその違いが由来するのかを考える冷静さをもち、そのプロセスを通じて、視聴者の方も、なるほどいろいろな考え方ができるんだな、ということを納得する。非常に知的な掛け合いである。
ボクは、このコーナーがどのくらい長く続いているのだろうと思い調べてみたら、なんと(年上の)シールズさんの方は1988年から(パートナーを変えながらも)ずっと出演しているのだそうである。すごい、というか、こうなるともう立派な伝統である。夜のプライムタイムでレギュラーをずっと張れるのは、彼らが単に優秀だからではなく、常に努力をおしまず切磋琢磨しているからにほかならない。そうであるがゆえ、このコーナー自体も、多くの人から長いあいだ支持されているわけである。短いスパンで番組(やレギュラー)が次々と衣替えをする日本の報道番組とは、ちょっとちがう。
ジャーナリズムとは、本来、それぞれ自律している個々のジャーナリストたちによる集合的営みとして成立するものである。たとえばブルックスさんは、いちおうNew York Timesのコラムニストということになっているが、PBSのみならずABCやNBCの解説番組でもよくみかける。イギリスBBCの記者がアメリカの(他局の)討論番組に登場するということも頻繁にある。ところが、日本では、読売新聞の記者がテレビ朝日の報道番組に出演するなどということは、あまり想像できない。もしも日本で、ジャーナリズムとは日夜切磋琢磨すべき個々のジャーナリストたちによって支えられるものであるということがよく理解されていないとすれば、各新聞社・テレビ局の営みは累々続いたとしても、ジャーナリズムの伝統が確立されることはない。
さて、二週間ほど前のシールズ&ブルックスでは、アリゾナ州で起きた惨劇と、それについてのオバマ大統領の演説が話題となっていた。シールズさんは、友人の言葉であると断りながらも、この経緯について、次のように見事に、その本質を解説していた。We saw a white, Catholic, Republican federal judge murdered on his way to greet a Democratic woman, member of Congress, who was his friend and was Jewish. Her life was saved initially by a 20-year-old Mexican-American college student, who saved her, and eventually by a Korean-American combat surgeon. …And then it was all eulogized and explained by our African-American president. And, in a tragic event, that's a remarkable statement about the country.
ちなみに、このオバマ大統領の演説は、彼の数々の名演説の中でもとくに素晴らしい演説であったと評価されている。ボクもおそまきながら今日you-tubeで聴いて、涙が止まらなかった。いかにただの言葉にすぎない演説が、人々の魂を鎮め、混乱から国家を救い、国民に夢と希望を復活させることができるのか、みなさんも是非聴いてみてください。