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2009年05月23日

テレビ出演の大騒ぎ

知っている人は知っているが、この前あるテレビ番組に出させていただいた。有名なゲストを相手にするインタヴューのお手伝い、といった役回りであった。ボクは実は、前にNHKの国際放送(英語)で、テレビ・ラジオあわせて結構頻繁に出ていた時期があるのだが、その時はまあ国内にはそれほど視聴者がいないからいいかな、ということで引き受けた。しかし、今回は、生放送で2時間、政治に関心のある多くの人たちがみるような番組である。出演が決定した時点から、緊張しっぱなしであった。
そこで、自分なりに下準備をした。まず、その番組は毎日やっている番組なので、前の週に一度下見にいき、スタジオの隅の方で2時間ずっと番組の進行を見学させてもらった。いったいどのぐらいの人数のスタッフがまわりにいて、コマーシャルの時はどうするのか、とか、自分の前に置かれる机は資料を置けるぐらい大きいか、とか、スタジオの温度はスーツを着ていっても暑くないか、とか、をチェックした。おかげで、前もってスタッフの方々の名前と顔も覚えることができたし、当日、サプライズ要素は少なくてすんだ。
それから、自分が出演している場面を想像していたら、その場でメモを取ることが必要だと思えたので、新しいノートバッドを買いにでかけた。ボクは、どういうわけか、それは黄色いノートパッドでなければいけないという気がしていた。アメリカの大学の生協などにはよく売っている、あの黄色いノートパッドである。なぜそうなのかといわれるとまったく理由もないのだけれども、こういうのは自分勝手に想像しているイメージだから、しょうがない。黄色いノートパッドは、日本ではあまり見たことがないが、週末に同志社で行われていた学会で、たまたま浅野正彦先生がそのまさにボクの思い描いていたノートバッドをもっていたので、「それ、日本だとどこに売っているんですか」と聞いてみた。そしたら、「オフィスディーポになら売ってます」ということだった。それで、ボクは、近くのオフィスディーポまで歩いていって、こだわりの黄色いノートパッドをちゃんと手にいれることができた。
当日は、スタジオに入る前に、床屋でさっぱりと髪を整え、髭もそってもらおうと、前から決めていた。それで予約を取るために「文化理髪」に電話した。ところが、なんと、その日は第3火曜日でお休み、ということが判明した。これには、参った。こういう小さな歯車のズレみたいなところから、自分に自信を無くして、失敗の連鎖につながるんじゃないか、という嫌な予感が走った。それで、この嫌な雰囲気は吹き飛ばさなきゃ、と思い、ジョギングに出かけた。5キロを結構速いペースで走り、汗をビッショリとかいた。床屋さんの熱々タオルで癒される代わりに、自分で精神的にも肉体的にもスッキリとさせておきたかったのである。
さて、残った時間では、自分なりにどういうしゃべり方をすればいいのかを、いろいろ思い悩んだ。それで、You-tubeで、お気に入りのキャスターのしゃべっているところをいろいろ聴いてみた。George Stephanopoulos、Tom Brokaw、古いところではDavid Brinkleyなど。ボクは前から保守派の論客のGeorge Willの自信ありげなしゃべり方がかっこいいなと思っていたので、彼のクリップもじっくり見たが、自分にはこういうしゃべり方は絶対できないと思い、諦めた。結局、いちばん参考になったのは、大好きな(前にブログでも紹介したことのある)Peter Jenningsであった。彼の、無駄をとことんそり落としていくセリフのつくり方、雰囲気の出し方が、いちばんいいのではないか、と思った。もちろん、当日、自分がそれをうまくできたかどうかは別であるが、それを意識していたことだけは、本当です。

2009年05月12日

オリジナルはベストか

今日、いつものように、朝、いきつけのコーヒーショップで勉強していたら、昔よく聴いたジョージ・ハリスンの名曲を誰かがアレンジしなおしたのが流れてきた。あ、これ、All Things Must Passだ、そう思った瞬間、ショップのお姉さんと目が合ってしまって、「知ってる、この曲?もとはジョージ・ハリスンの唄だったんだよ」といった。
すると、彼女、「ジョージ・ハリスンって誰ですか?」。
ガーン、ショック・・・。そうか、いまの若いひとは、ジョージ・ハリスンを知らないのかぁ、SMAPのメンバーの名前は全員言えても(←ボクは言えない)、ビートルズの4人が誰かは知らないんだ・・・。
「ええと、ジョージ・ハリスンはねぇ・・・、ビートルズが解散するとすぐ、3枚組みのアルバムを出してね、それがAll Things Must Passっていうアルバムで、さっきのはそのタイトルソングだったんだよ・・・」と、親切に説明しようかと思ったけど、面倒くさくなって、やめた。
相手が同年代だと、「ジョージ・ハリスンって、ほら、パティ・ボイドと結婚して、でも彼女をエリック・クラプトンに寝取られちゃった人」というと、たいていウケるわけだが、そんなこといったって、通じるわけがない。
家に戻って、ジョージの唄が懐かしくなってしまい、いろいろ、you-tubeで探してみた。そうそう、バングラデシュ救済コンサートの中で、いくつか、いまでは考えられないような共演があったっけと思い出し、それを中心に、サーチをかけた。
そしたら、ある、ある、珠玉の名演がちゃんと、見られるのである。
知っている人は知っている通り、このコンサートには、リンゴ・スター、エリック・クラプトン、ボブ・ディランなど、そうそうたるジョージの友人たちが、無報酬で参加している。で、それぞれのもとの持ち歌とは全然ちがうライブテイクが聴けるのである。
まず、Here Comes the Sun。これは、アコースティックギターで、ジョージが弾き語りするもの。これは、掛け値なしに、素晴らしい。「アビーロード」に入っているオリジナルよりも、こっちの方が全然ロマンチックである。
それから、ジョージとディランとレオン・ラッセルによる共演で、Just Like a Woman。ボクは、「偉大なる復活(Before the Flood)」の、ギター一本(プラスハーモニカ)のバージョンも大好きだが、もう何十年ぶりにこの3人の共演バージョンを聴いて、これもいいなあ、とあらためて思った。ボブ・ディランの凄いところは、この唄に限らず、どの唄も、バージョンによって、まったく違う唄になっちゃうというところ。彼の場合、オリジナルよりも、こうしたライブの方が、圧倒的に魅力的である。
ボブ・ディランとジョージは、If Not For Youでも共演している。これは、もともとは、ジョージがディランに送った曲だったと思う。しかし、これに関しては、ボクはジョージの3枚組の中のバージョンの方が好きである。
・・・というわけで、結論をいうと、オリジナルは、必ずしもベストではない。後から作られたリメイクの方が、いい場合もあるし、そっちの方が有名になることもある。
さて、ひとしきり、昔聴いた音楽を何十年ぶりかに聴いたあとで、まさかないだろう、と思ったが、もしや、と思い、オードリー・ヘップバーンが映画「ティファニーで朝食を」の中で唄う「ムーン・リヴァー」をサーチしてみた。そしたら、ジャジャジャーァン、ちゃんとありました。もう、この曲に限っては、誰がなんと言おうと、このオリジナルがベストです、はい。みなさんも、彼女の美しさとイノセントな唄声に、どうか魅せられてください。

2009年05月01日

共和主義とcitizenshipと日本の裁判員制度について

あまりに有名なので引用するのも気が引けるが、アメリカのケネディ大統領の就任演説の一節に、「国が君たちのために何ができるかではなく、君たちが国のために何ができるかを問いなさい」(Ask, not what your county can do for you, ・・・ask what you can do for your country)という言葉がある。日本では、北米社会は自由主義と個人主義に貫かれていると考えがちであるが、それは歴史認識としても現状認識としても大いに間違っている。アメリカが200数十年前に打ち立てたのは、いまでいうところの「共生の思想」に基づく「共和国」(Republic)であった。個人が異なる考えを自由に表明できることは、もちろん重要である。しかし、そのためには「個人が異なる考えを自由に表明できることの重要性」を(個人を超えて)みんなが合意しなければならない。共和主義というのは、個人が個人であるための社会をみんなで築いていこうという、逆説的な思想にほかならないのである。
実際、北米に暮らした経験があればだれでも、向こうの人たちがいかに自分の属する集団やコミュニティーをよくしていこうとする努力を普段から行っているかを感じとることができる。たとえば、家庭の中では小さな子供にも皿洗いやゴミだしの役割を与えて、家族というひとつの社会を支えあうことを早くから学ばせる。学校でも、自分たちの学校をいかに誇りの持てる学校にしていくかということを常に考えさせ、スポーツであれ、美術であれ、演劇であれ、音楽であれ、その年にもっとも貢献した生徒を表彰することをよくやる。そうした表彰の対象として、とくにcitizenship awardという賞を設けている学校も少なくない。citizenというのは市民という意味であるから、そこでは優れた「学校市民」として、だれ彼(彼女)隔てなく友人関係を構築したり、親身にクラスメートの相談にのったり、イベントの企画や片付けを率先してボランティアしたり、というような学生が選ばれるのである。
個人が自分に認められている権利を主張したり行使したりするだけでは、その人はcitizenとは認められない。citizenという概念には、個人が自分の属する集団やコミュニティーの中で義務や責任を果たすことが期待されている。冒頭引用したケネディの演説は、北米に根強いこうした思想的伝統を見事に表現しているのである。
さて、振り返って、日本では一般の人が裁判に関わる裁判員制度が導入されようとしている。これは日本の社会のあり方に各個人がcitizenとして関わることを促進するという点において、歓迎すべき制度だと思う。この制度の導入に反対している人たちは、これまで専門の裁判官たちだけで正しく裁判が行われてきて何の問題もなかったのに、なんでいま導入する必要があるのか、という主張をする。しかし、ボクは、どうしてこれまでの裁判官たちの判決が「正しい」と、そう自信たっぷりにいえるのだろう、と思ってしまう。千差万別の状況下で起きるそれぞれの「罪」に対してもっとも適した「罰」が何であるか、といった問題に、唯一「正しい」答えなど、あるはずがない。裁判員制度は、正しい答えがないながらも、それを一生懸命考え抜こうとする責任を、人任せにするのではなくわれわれひとりひとりが負うべきである、といっているのである。
反対派は、一部の人たちだけが心理的、経済的に負担の重い裁判に巻き込まれるのは不公平だ、ともいう。しかし、この主張も、ボクには納得できない。もし一部の人だけが裁判員に選ばれることが不公平であるとすれば、一部の人だけが犯罪に巻き込まれることも、一部の人だけが交通事故に巻き込まれることも、同じように不公平だといわなければならない。現実に存在するこうした社会の不公平に対しては目をつぶって自らの課題として引き受けようとせず、その一方で自分に振りかかってこようとする不公平に対してだけは声高に不公平だと主張しそれを回避しようとするのは、自分勝手な論理である。
そもそも現代においては、ごく普通の人が、ごく普通に買い物をしたり電車にのったり、ごく普通に人を好きになったり嫌いになったりすることから、犯罪や事故に巻き込まれていく。つまり、われわれは裁判員として選ばれるはるか以前から、他人との関わりに巻き込まれて生活せざるをえないのである。裁判員になることがなければ、「巻き込まれる」ことなく、平穏に暮らすことができるなどと思うのは、まったくの幻想に過ぎない。