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共和主義とcitizenshipと日本の裁判員制度について

あまりに有名なので引用するのも気が引けるが、アメリカのケネディ大統領の就任演説の一節に、「国が君たちのために何ができるかではなく、君たちが国のために何ができるかを問いなさい」(Ask, not what your county can do for you, ・・・ask what you can do for your country)という言葉がある。日本では、北米社会は自由主義と個人主義に貫かれていると考えがちであるが、それは歴史認識としても現状認識としても大いに間違っている。アメリカが200数十年前に打ち立てたのは、いまでいうところの「共生の思想」に基づく「共和国」(Republic)であった。個人が異なる考えを自由に表明できることは、もちろん重要である。しかし、そのためには「個人が異なる考えを自由に表明できることの重要性」を(個人を超えて)みんなが合意しなければならない。共和主義というのは、個人が個人であるための社会をみんなで築いていこうという、逆説的な思想にほかならないのである。
実際、北米に暮らした経験があればだれでも、向こうの人たちがいかに自分の属する集団やコミュニティーをよくしていこうとする努力を普段から行っているかを感じとることができる。たとえば、家庭の中では小さな子供にも皿洗いやゴミだしの役割を与えて、家族というひとつの社会を支えあうことを早くから学ばせる。学校でも、自分たちの学校をいかに誇りの持てる学校にしていくかということを常に考えさせ、スポーツであれ、美術であれ、演劇であれ、音楽であれ、その年にもっとも貢献した生徒を表彰することをよくやる。そうした表彰の対象として、とくにcitizenship awardという賞を設けている学校も少なくない。citizenというのは市民という意味であるから、そこでは優れた「学校市民」として、だれ彼(彼女)隔てなく友人関係を構築したり、親身にクラスメートの相談にのったり、イベントの企画や片付けを率先してボランティアしたり、というような学生が選ばれるのである。
個人が自分に認められている権利を主張したり行使したりするだけでは、その人はcitizenとは認められない。citizenという概念には、個人が自分の属する集団やコミュニティーの中で義務や責任を果たすことが期待されている。冒頭引用したケネディの演説は、北米に根強いこうした思想的伝統を見事に表現しているのである。
さて、振り返って、日本では一般の人が裁判に関わる裁判員制度が導入されようとしている。これは日本の社会のあり方に各個人がcitizenとして関わることを促進するという点において、歓迎すべき制度だと思う。この制度の導入に反対している人たちは、これまで専門の裁判官たちだけで正しく裁判が行われてきて何の問題もなかったのに、なんでいま導入する必要があるのか、という主張をする。しかし、ボクは、どうしてこれまでの裁判官たちの判決が「正しい」と、そう自信たっぷりにいえるのだろう、と思ってしまう。千差万別の状況下で起きるそれぞれの「罪」に対してもっとも適した「罰」が何であるか、といった問題に、唯一「正しい」答えなど、あるはずがない。裁判員制度は、正しい答えがないながらも、それを一生懸命考え抜こうとする責任を、人任せにするのではなくわれわれひとりひとりが負うべきである、といっているのである。
反対派は、一部の人たちだけが心理的、経済的に負担の重い裁判に巻き込まれるのは不公平だ、ともいう。しかし、この主張も、ボクには納得できない。もし一部の人だけが裁判員に選ばれることが不公平であるとすれば、一部の人だけが犯罪に巻き込まれることも、一部の人だけが交通事故に巻き込まれることも、同じように不公平だといわなければならない。現実に存在するこうした社会の不公平に対しては目をつぶって自らの課題として引き受けようとせず、その一方で自分に振りかかってこようとする不公平に対してだけは声高に不公平だと主張しそれを回避しようとするのは、自分勝手な論理である。
そもそも現代においては、ごく普通の人が、ごく普通に買い物をしたり電車にのったり、ごく普通に人を好きになったり嫌いになったりすることから、犯罪や事故に巻き込まれていく。つまり、われわれは裁判員として選ばれるはるか以前から、他人との関わりに巻き込まれて生活せざるをえないのである。裁判員になることがなければ、「巻き込まれる」ことなく、平穏に暮らすことができるなどと思うのは、まったくの幻想に過ぎない。