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2012年08月24日

町の適切な規模について

久々にカナダのバンクーバーを訪れて、あらためてこの町の素晴らしさを実感している。海あり山ありという自然のランドスケープの見事さはいうまでもない。それ以上に、そのランドスケープにぴたりとはまっている人々の風景が美しい。
たとえば、公園では、犬を散歩させている小学生とか中学生ぐらいの子供をよく見かける。おそらく、それが彼らに与えられたchore(家族の中での仕事)なのであろう。
カフェでは、ipodをききながら、大学生(と思われる若い人)たちが、分厚い教科書を読んだり、パソコンをたたいている。これからの自分の人生に、まっすぐ向き合っている感じがする。
バイシクリングをするカップル。ちゃんとヘルメットをかぶり、右折や左折のジェスチャーをして、交通規制を守っている。
そして、ベンチでゆっくりとおしゃべりしているリタイア仲間たち。ギリシャ系、あるいはポーランドなどの東欧系の顔をみることが多い。
なぜボクがこうした風景を美しいと思うのかというと、それぞれの人々の姿がバンクーバーという町を構成するピース(部分)のような、一種の調和があるかのようだからである。うまくいえないが、それぞれまったく異なった行動をとっているのに、彼らの行動のひとつひとつが、全体の中で位置づけされ、秩序づけられているという感じがする。バンクーバーには、いうまでもなく、いろいろな人種・民族背景をもった人が住んでおり、貧富の差もかなりはげしい。そうした多様性にかかわらず、バンク―バーという風景に、みんなしっくりなじんでいる、というように見えるのである。
いつもいうのだが、ボクは、町には適切な規模があると思っている。ボクの中では、その基準というのははっきりしていて、それは、人が一日行動していると思いがけなく知り合いに遭遇することが、午前と午後に一回ずつぐらい起こる、という程度の規模である。バンクーバーでは、実際そのぐらいの頻度で、かつての知り合いとか、娘の高校時代の同級生とかに遭遇する。
こうした遭遇が「人とつながっている」という安心感を与える。もちろん、防犯や青少年の非行抑止といった点においても、遭遇の可能性があるだけで、かなり効果がちがうと思う。そして、そのような遭遇によって、住んでいる町が自分たちのコミュニティーであることを実感できるようになると思う。自分が不特定多数の一人なのではなく、誰かから特定されるという期待が、町へのコミットメントを高め、自分たちの町だから、きれいにしていこうとか、自分たちの町だから子供たちがちゃんと育てられる環境にしていこう、とかいった気運が醸成される。
これは、日本でむかしからある「ご近所」という感覚と、似ているけれども、ちがうと思う。ご近所では、毎日顔を合わせることが当たり前のように期待される。しかし、重要なのは、思いがけなく遭遇する、ということにある。「思いがけない」という距離感が、必ずしも「ご近所」にはないプライベートな空間を担保しているからである。
いいかえれば、町は、広くなりすぎてもよくないし、狭くなりすぎてもよくない。それには、適切な規模がある、と思うのである。

2012年08月10日

原因の結果に対する時間的先行性、あるいは、なでしこJの惜敗について

常識では、「原因」は「結果」よりも時間的に先行しなければならない、ということになっている。実は、このことは、ボクが大学で学部生や院生に対して研究指導するとき、口を酸っぱくして注意を喚起する方法論の問題のひとつでもある。たとえば、「経済成長が民主化を促す」という因果命題が正しいためには、経済成長が民主化よりも時間的に先行して起こっていなければならない。もし民主化よりも経済成長の方が後に起こったのだとすると、われわれは因果関係を逆転して、民主化が経済成長を促進したのだろう、と考え直すべきである。
しかし、本当にそうなのだろうか。
アリストテレスやヒュームは、この問題と格闘した(らしい)。彼らのような人類を代表する知的巨人たちの思索に、ボクがここで付け加えることは、おそらく何も残っていない(はずである)。
しかし、「おい、キミ、結果の方が原因よりも先に起こることは、本当にないのか、え、絶対にそういい切れるのか、え、どうなんだ」と、グイグイと誰かに詰め寄られたら、(誰かって、誰だかわからないが)、「いや、ちょっと・・・」と、ボクは口ごもってしまうかもしれない。
なぜかというと、ですね、うーん、なでしこJは惜しくも負けちゃったんですね、オリンピックの決勝で。で、ボクには、この最後に負けちゃったという事実が、それよりも時間的に先行しているもうひとつの事実の、(結果ではなく)原因のように思えてならない、のであります。
ご存知のように、なでしこJは、予選を通過する際、スェーデンと引き分けて、グループを2位で通過した。この時、1位で通過するよりも2位で通過する方が、対戦相手とか競技場間の移動の関係で戦略的に有利かもしれないということがいわれていた。この「2位通過」という事実が、結果として(実際には起こらなかったが)「金メダル獲得」というもう一つの事実を生み出す可能性は、たしかにあった。実際、「2位通過」が、準々決勝の対戦相手ブラジルよりもフィジカルコンディションの面でなでしこJに優位をもたらしたという因果関係は、十分に成り立つ。そもそも「2位通過」がなければなでしこJは決勝まで進めなかったかもしれないと推論することも、可能である。こうした推論は、常識的な原因と結果に関する時間的先行性の考えに基づいている。
しかし、ボクには、それとは逆転した推論も可能のように思えてならない。つまり、「2位通過」という事実が、むしろ、なでしこが優勝しなかったという事実の結果にあたるのではないか、という解釈である。
これは、ふだんから考える時間という概念から解放されなければ出てこない解釈なので、うまく表現することがむずかしいが、次のようなことである。たとえば、(こういう言い方をすると正確性を欠くことになるのは目に見えているけれども)、なでしこJがぶっちぎりで強いチームだったら、予選「2位通過」などということは、そもそもありえなかったはずである。ところが、現在のところ、世界の女子サッカーに、圧倒的に強いひとつのチームはない。フランス、アメリカ、カナダ、ブラジルなど、どのチームにも今回優勝するチャンスがあった、という方が正しい。このことは、なでしこJが今回優勝を逃したという事実は、たまたまそうだった、ということにすぎないということを意味している。つまり、それは確かに実際に起こった事実であるが、(十分にありえた可能性としては)起こらなかったかもしれない事実なのである。そして、いったん、この事実をそのようなものとして、つまり優勝できたかもできなかったかもしれないという、両義的なものとして捉えると、さかのぼって、それがなでしこJが「2位通過」したことの原因として位置づけられるように、ボクには思えてくる。「2位通過」が「優勝しなかった」ことの原因でないことは明らかであるが、その逆は解釈としてありえるのではないか、というように、である。
こういうことをぐじゃぐじゃというと、「キミのいっているのは、単なる歴史の(時間の)後知恵のことだよ」というツッコミを受けそうである。たしかに、それだけのことなのかもしれない。しかし、歴史の後知恵というのは、原因(t-1)としての事実と結果としての事実(t)よりも、さらに後の時点(t+1)に立つことを前提にしてはじめて成り立つ見方である。ボクはそうした時間の流れ自体から解放されたときに、もしかしたら違う(因果関係の)解釈が生まれるかもしれない、ということをいいたいのである。