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2012年09月17日

政治リーダーシップ論

先日のコンパスでは、民主党と自民党の党首選と、求められる日本の政治のリーダーシップについて取り上げた。その時に、ボクの頭をよぎったいろいろなことを、ちょっと整理しておきたい。
まず、ボクは、政治学の研究として、とくに日本の政治学者(「を自称する人たち」も含めて)が書いたものの中で、学術的に読むに耐えうるリーダーシップ論に出会ったことがない。たいていは、属人的な「お話」にとどまって、せいぜい「類型化」をしているぐらい。しかし、類型化は、descriptive exerciseであってtheoretical exerciseではない。ボクらが翻訳したウォルツの本の中に(←そう、なんとウォルツ!)、イギリスとアメリカのリーダーを比較した論考が含まれており、もちろんとっても時代遅れだが、それでもちまたに溢れるリーダー論よりはこっちの方がよっぽど面白い。
第二に、リーダーを語るからには、そのリーダーの個人的属性について語るべきなのであり、たとえば理念とか政策とかを持ち出すのはおかしい。理念や政策は、そのリーダーが属している政党や団体の属性である。だから、「リーダーを選ぶ基準として理念や政策を大事にする」というのは、(独裁者を好むのであれば別だが)ボクは理解できない。
第三に、これは誰かがこの前のDNCでいっていた言葉の受け売りだが、優れたリーダーというのは、その人でなければできない、という能力をもっていることがもっとも重要な基準になるのではないか、と思う。集められる限りの情報を集めさえすれば、その中から自ずと答えが出てくるような意思決定に、リーダーは要らない。集められる情報をすべて集めるという体制を整えることは、もちろん重要だが、それは「その人でなければできない」ことではない。その人でなければできない決断というのは、集められる情報をすべて集めた上でも答えが自ずと出ないときに、はじめて必要となる。そのような場合でも、自分はこっちの方が正しいという判断が何らかの根拠によってでき、しかもそれをまわりの人に納得させることができる能力、それが本当のリーダーに必要とされる資質だと思う。
第四に、日本では、政治のリーダーを選ぶさいに、プライベートなことがあまり開示されていない。しかし、リーダーを選ぶというのは、繰り返すが、個人的な属性を選ぶことなのであるから、いったいその人がどういう人に愛されているのか、どういう家庭を築いているのか、といったことも重要な判断基準になると思う。ミッシェルオバマが "I have seen firsthand that being president doesn't change who you are – it reveals who you are"と、愛情こめていったとき、ああオバマさんはやっぱりブレない人なんだなあということが説得力をもって伝わってくる。政治家のプライベートなこと、とくに首相になるかもしれないような人たちのそのような部分を、日本では、二流週刊誌でなく、主流のメディアもどんどん取り上げるべきだと思う。