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2012年11月25日

政党、あるいはネコ科ヒョウ属の話

ライオンは、ネコ科ヒョウ属に属する。
実は、トラも、ネコ科ヒョウ属に属する。
なんだよ、おかしいじゃんか、ライオンとかトラの方が、ヒョウよりもよっぽどメジャーな動物じゃないのか、と思うかもしれない。
ライオンは「百獣の王」なんだから、ネコ科ライオン属とすればいいではないか。トラも、絶滅しそうで貴重な存在なのだから、ネコ科トラ属としておくべきではないか。そう思うかもしれない。
だいたい、ライオンとヒョウを、一緒にしていいのか、ライオンはライオン、トラはトラで、それぞれユニークな存在なのではないのか。そんな声も聴こえてきそうである。
しかし、やはりそうではないのである。
なぜそもそもわれわれは、「属」とか「科」とか「亜目」とかいったカテゴリーを作るのか。それは、小異ではなく大同を確認しようとするためである。つまり、(ヒョウ属の)ライオンやトラやヒョウと、ネコ科ネコ属の(ふつうの)ネコとを区別するため、あるいはネコ全般とイヌやクマとの違いを際立たせるために、そういう作業をするのである。
だから、ネコ科の中に、トラとライオンというそれぞれ別々の呼称のついたカテゴリーを設けてしまうと、カテゴリーを設ける意味そのものがなくなる。トラとライオンの違いを強調したいのであれば、「トラ」あるいは「ライオン」という名前そのもので呼べばいいのだけの話である。別に、ヒョウ属の中に入れられているからといって、トラやライオンのユニーク性がそこなわれるわけではない。
さて、話し変わって、なぜ民主主義には「政党」なるものが必要なのか。それは、政党という組織がないと、十人十色、千差万別である有権者の意見が、いつまでたっても集約されないからである。政党とは、まさに「属」とか「科」といったカテゴリーである。
つまり、それは、小異ではなく大同を確認するためのものにほかならない。自分はいったいどの人と意見が近いのか、逆にいえば自分の意見はどの人とは種類が異なるのか、そのことを確認する作業を積み重ねなければ、多数派が形成され政治的決定をできるようにはならないのである。
だから、個々の政治家が、こともあろうに、選挙の前に(自分の選挙事情か何かは知らないけれども)属していた政党を抜けて、新しい政党を作るというのは、おかしな話である。現有勢力が一人とかごく少数の状態が長らく続いている政党も、民主主義という政治体制のもとで民意を集約することの大切さをないがしろにしている、とボクは思う。少数意見を代表することは、もちろん大事である。しかし、同調するものを多数集められない以上、そうした意見は自分の個人名でくみあげるべきであろう。
いうまでもないが、少数意見も、詳しくみれば、その中にまたいろいろな意見もある。まさにヒョウ属の中にもいろいろなユニークな存在がいるのとおなじである。しかし、だからといって、ヒョウ科ライオン属を新たに設け、その下にさらなる細目を設けるなどということをしていては、カテゴリーを作ることの意味、そもそも政党という組織のもつ意味を損ねるだけなのである。

2012年11月23日

兎と亀の政治学的会話(解散・衆院選①):橋下さんの誤算

兎:第三極の動きが、慌ただしいね。一度合流を約束した減税日本をソデにしたり、みんなの党とは、くっつくんだか、離れるんだか・・・。
亀:不透明だよね、プロセスとして。
兎:政治家同志の駆け引きだけが先行し、有権者が置き去りにされている。橋下さんや石原さんの重要なメッセージは、既成政党の打破っていうことのはずなのに、こういう動きは、彼らも有権者に対するアカウンタビリティーをないがしろにしている、っていう印象を与える。
亀:いや、そもそも政党は、ある程度継続的に存在しているからこそ、民主主義にとって非常に重要なアカウンタビリティを担保できる。選挙前に急仕立てに作った政党に、それを期待することは、どだい無理な話だよ。
兎:でも、なぜ、こうなっちゃったのかな。
亀:橋下さんにはいくつかの誤算があって、状況の展開をすでに彼が制御できなくなってしまっている、って感じがするね。
兎:アウトオブコントロール状態?
亀:そう。第一の誤算は、石原さんの国政復帰。まさか石原さんが突然都知事を辞めて、第三極づくりに加わってくるとは思ってもいなかった。援軍は期待してただろうけど、まさか選挙の前に自分から乗り込んでくるとは、思ってなかったんじゃないかな。
兎:だいたい、なんで石原さんは、都知事を辞めたのかな。
亀:いろいろ憶測はできるよね。これは、知り合いの早稲田のちょいわるオヤジさんが複数のソースからきいた噂だそうだが、石原さんは自分の息子が総裁になれなかったことで、自民党に対し相当頭にきたらしい。そもそも彼が都知事4選に出馬するときに、それを請いた自民党との間で密約があった、という噂さえある。
兎:へえー。しかし、その噂が本当だとすると、突然都知事職をほっぽり出したことも、また国政へ復帰して自民党に対抗する第三極を作ろうと動き出したことも、どちらもうまく理解できるね。
亀:橋下さんは、もともと今回の選挙では、維新の会の「地固め」をすればよい程度に思っていた。今回自分が立候補しないのも、今回じゃなくその次の選挙が本当の大勝負だとふんでいたので、そのときに切れるカードをとって置くという意味でも、じわじわと攻めようとしていたわけだ。
兎:ところが、石原さんが動いたことで、そのじわじわ戦略を放棄せざるをえないところに、追い込まれちゃったわけだ。
亀:で、第二の誤算は、解散のタイミングだな。
兎:こんなに早く解散になるとは、思っていなかった、っていうわけだね。
亀:そう。おそらく、石原さんの動きを見て、野田さんの頭の中には、橋下さんの当初の計画に狂いが生じたっていうことが見えたんだと思う。別に、このことだけが彼の決断を生んだわけではないが、橋下—石原の連携がまだ整ってなく、そこにつけこむ余地があるとの読みが、野田さんの側の計算にあったこともまちがいないと思う。
兎:しかし、だね、第三極として力をもつためには、やっぱり橋下—石原の連携というのは不可欠じゃないのかな。だって、なんといったって、大阪と東京という二つの巨大自治体の首長同士が組んでいるんだから、これ以上の連携はありえないよ。
亀:さあ、そこだな。問題は連携の仕方だよ。橋下さんも石原さんも、既成政党の支配に風穴をあけようと、本来は地方の自治体の長としての彼らの実績を売り込みたいわけだ。だから、ありうる連携としては、地方政党がゆるやかに連携するという形の方が効果的だったような気がする。
兎:なるほど。ところが、いま行われていることは、むしろ「極」をつくるということにこだわっちゃって、非常に中央集権的なもうひとつの政党を作るかのように動いているように見えるね。
亀:ところが、日本維新の会の、国政政党としての実績はゼロ。
兎:いいのかね、橋下さんは、このままで。
亀:どうだろうかね。みんなの党と組みたいというのは、地方政党ゆるやか連携路線ではなく、国政路線まっしぐらのようにもみえるが、実はみんなの党と組むことで石原さんの個人的な影響力を薄めようという狙いもあるような気がする。いずれにしても、彼の当初の計画通りにことが進んでいないことが、この第三極をめぐる動きをばたばたしたものに見せているってことは、間違いないと思うな。

2012年11月16日

解散について

衆議院の解散について、ちょっと考えを整理する必要があるので、まとめてみる。
1) いつもいうことだが、社会科学には、予測するという行為自体が予測されるべき現象に影響を与えるという、一種の自己言及性がついてまわる。だから、みんなが「野田さんが、いま解散するわけない」と予測すると、野田さんの側に「そうか、いまやれば、みんな不意をつかれることになるのか」という計算が生まれることになり、実際には(予測に反して)解散が起こりうる。今回の解散には、そういう要素があったと思う。
2) この前ある番組の中で申し上げたが、議院内閣制のもとでなぜ首相が解散権をもっているのかというと、それは基本的には、野党に対してにらみをきかせるというよりも、与党議員の中で政権に入っていないいわゆるバックベンチャーに対して「われわれ政権のやることを支持しないのなら、いつでもオレは君たちを路頭に迷わすことができるんだからな」という脅しをかけるためである。この脅しによって、立法府と執行府との間のconfidenceが成立する。だから(すべての抑止という現象に当てはまることだが)重要なのは首相が解散権をもっていること、もっといえばそれを行使しないということなのであり、逆にいうと、実際に解散をしたということは、首相の側が(脅しに失敗し)敗北したことを物語る。その意味では、今回の解散を、やはり野田さんが追いつめられたがゆえに起こった解散と見るのは、正しいと思う。
3) しかし、合理的アクターは、追いつめられたら追いつめられたなりに、その制約の中で最善を尽くそうとする。ボクのみたところ、党首討論で解散を宣言するという「奇襲」は、その意味ではなかなかよく考えられた戦略だったと思う。おそらく、臨時国会をいつ開くかを決めた頃から、このシナリオは野田さんの頭の中に可能性のひとつとしてずっとインプットされていたのであろう。この奇襲により、自民党側はいくつもの点で政治的ダメージを負うことになった。歳費カットや定数削減という政治家自らが身をきるというイニシアティヴが民主党主導で行われているという演出に加担してしまったこと。特例公債や定数是正の法案がわずか2日で通り、審議を遅らせていた責任が野党の側にあったという印象を残してしまったこと。そして、なにより、選挙後においても民自公の協力の枠組みが残っているかのような駆け引きにのってしまったこと、などである。もっとも、今回の野田さんの奇襲によって稼ぐことができた政治的得点が、それほど長続きするとは思えないが...
4) あの党首討論での光景は、いろいろなことを明らかにしたと思う。たとえば、あれだけ安倍さんが驚いたということは、これは話し合い解散ではなく、自民党はやはり不意をつかれたのだ、と理解すべきであろう。ということは、当然、橋下さんも石原さんも不意をつかれた、ということになる。もし、この時期に解散が起こっていなかったら、石原さんと橋下さんとの間の第3極をめぐる交渉の行方は、ちがったものになっていたかもしれない。少なくとも今日までの状況をみていると、時間がないということは、石原さんに対して橋下さんの方のバーゲニングパワーを高くしているように思える。
5) もうすこし、大局的なことを3点ほど。ひとつは、第三極(それがまとまるとしての話だが)が今度の選挙で勝てば勝つほど、選挙後の自民と民主との連立の可能性が高まるという、変な相関があると思う。第三極は、既存政党を打破しようとしているのだから、選挙後、どちらの陣営とも連携することは考えにくい。もっといえば、民主党が大敗すればするほど、自民にとっては、民主党を連立相手として選びやすくなるという皮肉な構図があるような気がする。第二は、それがゆえに、自民と民主とのあいだでは、本当の二大政党制のもとでの選挙戦のような(たとえばこの前のオバマとロムニーとのあいだで繰り広げられたような)、極端な誹謗中傷合戦の泥仕合にはならないだろうと思う。選挙後の連立、さらには政界再編をも意識して、どこか遠慮してお互いを批判しあうような選挙戦が繰り広げられるのではないか。第三に、しかしもしそうだとすると、それは日本の政治にとっては好ましくない。この際、自民党は2009年の政権交代以降の民主党政権の失政を、そして民主党は2009年にいたるまでの自民党政権から引き継がれたさまざまな政治的ツケをそうざらいすること、つまりどちらも徹底的に相手を批判し合うことの中からしか、日本の政治の再生はない、と考えるからである。

2012年11月11日

オバマさんの涙

再選されたアメリカ大統領オバマさんのスピーチが話題になっている。
選挙の結果が明らかになった夜、興奮する大勢の支持者の前でした、オフィシャルな勝利宣言スピーチではない。
実は、あの勝利宣スピーチは、たいして感動を呼ぶものとはいえなかった。スピーチがうまい政治家であるオバマさんにしてみれば、かなりランクの下の方に属する、はっきりいって凡庸なスピーチだった。
話題になっているのは、選挙が終わった次の日に、自らの選挙活動を支えてくれた少人数のスタッフたちを前にして、彼らに感謝の気持ちを表すためにしたほんの5分程度の短いスピーチである。
なぜ、そのスピーチが話題になっているかというと、そこでオバマさんが、感極まって、涙を流しているからである。

http://www.youtube.com/watch?v=pBK2rfZt32g&feature=related

オバマさんは、もっぱら「クール」な政治家と言われる。あまり喜怒哀楽を表に出さない。それがゆえに、彼に対しては、「本当に熱情をもって政治をしているのか」という批判がなされることさえある。
オバマさんがクールであるのは、彼が自分自身で「『怒れる黒人』であってはならないと心に決めているから」(Mark Shields)である。彼のクールさは、彼にとっては政治家としての装いでもあり、同時にまた彼の政治信条そのものでもある。
だから、オバマさんが人前で涙をみせるというのは、珍しい。
だから、話題になっているのである。
なぜ、オバマさんは、それほどまでに、感極まったのか。
オバマさんは、もともとシカゴで、コミュニティビルダーとして、政治を志すようになった。その若き日の自分の姿が、今回の選挙で彼を支えてくれた若いスタッフたちと重なり合い、自分がやってきた活動が回り回って、いま何百というその後継者たちに引き継がれていっていることに感動したのである。
「君たちは、何をやったとしても、間違いなく成功する」と、彼は語った。
そして、自分の抱いた志が幾重にも広がっていくさまを、彼は「ripples of hope」と表現したのである。
オバマさんは、単に手紙やメールを書くのではなく、数百人のスタッフひとりひとりと、握手と抱擁をし、感謝したそうである。きっと、そのひとりひとりが、いずれまた数百人の後継者を生んでいくことを、そうまさに希望が幾重もの波紋として広がっていくことを、確信していたにちがいない。
このスピーチは、彼が自分のパーソナルな面をみせた珍しい演説の一つとして、きっと長く記憶に留められていくと思う。

PS:ripples of hopeという表現については、Amy Davidson の小文も参照。http://www.newyorker.com/online/blogs/closeread/2012/11/obamas-tears-and-ripples-of-hope.html?mbid=social_retweet