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解散について

衆議院の解散について、ちょっと考えを整理する必要があるので、まとめてみる。
1) いつもいうことだが、社会科学には、予測するという行為自体が予測されるべき現象に影響を与えるという、一種の自己言及性がついてまわる。だから、みんなが「野田さんが、いま解散するわけない」と予測すると、野田さんの側に「そうか、いまやれば、みんな不意をつかれることになるのか」という計算が生まれることになり、実際には(予測に反して)解散が起こりうる。今回の解散には、そういう要素があったと思う。
2) この前ある番組の中で申し上げたが、議院内閣制のもとでなぜ首相が解散権をもっているのかというと、それは基本的には、野党に対してにらみをきかせるというよりも、与党議員の中で政権に入っていないいわゆるバックベンチャーに対して「われわれ政権のやることを支持しないのなら、いつでもオレは君たちを路頭に迷わすことができるんだからな」という脅しをかけるためである。この脅しによって、立法府と執行府との間のconfidenceが成立する。だから(すべての抑止という現象に当てはまることだが)重要なのは首相が解散権をもっていること、もっといえばそれを行使しないということなのであり、逆にいうと、実際に解散をしたということは、首相の側が(脅しに失敗し)敗北したことを物語る。その意味では、今回の解散を、やはり野田さんが追いつめられたがゆえに起こった解散と見るのは、正しいと思う。
3) しかし、合理的アクターは、追いつめられたら追いつめられたなりに、その制約の中で最善を尽くそうとする。ボクのみたところ、党首討論で解散を宣言するという「奇襲」は、その意味ではなかなかよく考えられた戦略だったと思う。おそらく、臨時国会をいつ開くかを決めた頃から、このシナリオは野田さんの頭の中に可能性のひとつとしてずっとインプットされていたのであろう。この奇襲により、自民党側はいくつもの点で政治的ダメージを負うことになった。歳費カットや定数削減という政治家自らが身をきるというイニシアティヴが民主党主導で行われているという演出に加担してしまったこと。特例公債や定数是正の法案がわずか2日で通り、審議を遅らせていた責任が野党の側にあったという印象を残してしまったこと。そして、なにより、選挙後においても民自公の協力の枠組みが残っているかのような駆け引きにのってしまったこと、などである。もっとも、今回の野田さんの奇襲によって稼ぐことができた政治的得点が、それほど長続きするとは思えないが...
4) あの党首討論での光景は、いろいろなことを明らかにしたと思う。たとえば、あれだけ安倍さんが驚いたということは、これは話し合い解散ではなく、自民党はやはり不意をつかれたのだ、と理解すべきであろう。ということは、当然、橋下さんも石原さんも不意をつかれた、ということになる。もし、この時期に解散が起こっていなかったら、石原さんと橋下さんとの間の第3極をめぐる交渉の行方は、ちがったものになっていたかもしれない。少なくとも今日までの状況をみていると、時間がないということは、石原さんに対して橋下さんの方のバーゲニングパワーを高くしているように思える。
5) もうすこし、大局的なことを3点ほど。ひとつは、第三極(それがまとまるとしての話だが)が今度の選挙で勝てば勝つほど、選挙後の自民と民主との連立の可能性が高まるという、変な相関があると思う。第三極は、既存政党を打破しようとしているのだから、選挙後、どちらの陣営とも連携することは考えにくい。もっといえば、民主党が大敗すればするほど、自民にとっては、民主党を連立相手として選びやすくなるという皮肉な構図があるような気がする。第二は、それがゆえに、自民と民主とのあいだでは、本当の二大政党制のもとでの選挙戦のような(たとえばこの前のオバマとロムニーとのあいだで繰り広げられたような)、極端な誹謗中傷合戦の泥仕合にはならないだろうと思う。選挙後の連立、さらには政界再編をも意識して、どこか遠慮してお互いを批判しあうような選挙戦が繰り広げられるのではないか。第三に、しかしもしそうだとすると、それは日本の政治にとっては好ましくない。この際、自民党は2009年の政権交代以降の民主党政権の失政を、そして民主党は2009年にいたるまでの自民党政権から引き継がれたさまざまな政治的ツケをそうざらいすること、つまりどちらも徹底的に相手を批判し合うことの中からしか、日本の政治の再生はない、と考えるからである。