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2010年08月11日

リバタリアンはコミュニタリアン?

ボクの政治思想の学問的知識はとってつけたようなものだけれども、それでも政治思想的にものごとを考えることは嫌いではない。で、最近とくに、自分自身の政治思想的立場は、どういうものなのだろうと自問自答することが多いのであるが、その種の自己分析をする上で結構有用ではないかと思われる事件が日本各地で露見している。高齢者が生きているか死んでいるかを行政が確認できていないという、例の問題である。
最初に二つの命題を掲げてみる。
(1)国民の一人ひとりが存在しているかどうかを確認することは、国家の中核的業務のひとつである。
(2)民主主義体制のもとでは、個々の国民は、国家が1)の業務を遂行することを拒絶したり妨害することはできない。
まず(1)について。ボクは、本人の生存確認ができないと不正に年金を受給する不埒者が出てくるという、いま実際に起こっている問題は、法的もしくは技術的に簡単に解決できると考えている。生存確認を年金(やその他すべての公的サービス)受給の前提要件にすればよい、と思うからである。プライバシーの観点から、行政スタッフが家の中まで入って本人の生存を確認することがためらわれているようであるが、プライバシーを尊重することと年金を給付することは別次元の問題である。プライバシーを盾にして本人確認を拒絶するのであれば、行政の側は、まさにその方のプライバシーを尊重して、年金を給付しないという決定を下せばよいだけの話である。おそらく、リバタリアンと呼ばれる政治思想的立場を標榜する人々が選ぶ解決策は、これであろう。
しかし、今日の話のポイントは、実はこの先にあって、このようなリバタリアン的立場自体を許してよいのか、という問題である。つまり、(プライバシーを尊重するがゆえに)結果として、国家が国民の人口を正確に把握できなくなったとしても、それでよいのか、という問題である。
ボクは、そうは思わない。その理由が(2)の命題である。
民主主義という政治体制は、(年齢など一定の要件を満たす)すべての有権者が平等に政治に参加する権利をもつというシステムである。そのような体制のもとでは、原則として、どこに住む有権者の一票も、その「重み」が同じでなければならない。こうした政治参加における平等は、そもそも国家が国民(有権者)の人口の総数とその分布を正確に把握していなければ、成立しえない。ということは、民主主義的政治体制のもとに暮らしたいと思っている限り、その人は、自分のプライバシーを若干犠牲にしても、(民主主義にとって不可欠な)国民一人ひとりの存在を確認する国家の業務に協力する義務を負っていると考えなくてはならない。それゆえ、上記のリバタリアン的立場はありえない、とボクは思うのである。
もちろん、ボクは、リバタリアン的立場を原理的に否定しているわけではない。自分たちのプライバシーを何より最優先にする彼らが集まって、民主主義とは異なる政治体制のもとで暮らすことを選択するのであれば、それはそれで、きわめて論理的に一貫した立場の表明であり行動であると思う。ただし、そうすると、リバタリアンたちは、自分たちだけのそのような立場を共有する人々だけとしか暮らせないことになるかもしれない。すると、結局のところ、リバタリアンたちはコミュニタリアン的政治思想に近づいていくことになるのではないかという、(おそらく学術的にいわせたら)トンチンカンな結論に、ボクは達してしまうのである。