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2006年12月15日

なでしこイレブン

時間が時間だっただけに、見ようかな、どうしようかなと迷ったけど、きのうの夜、結局午前1時から、アジア大会の女子サッカー決勝の試合を見てしまった。0-0で、延長戦へ。そして、PK戦へ。終わったのは、3時半を過ぎていた。
日本は金メダルには及ばなかったけど、感動的な、素晴らしい試合だった。
リアルタイムで見ることができて、本当によかった。
それにしても、日本の選手たちは、よく頑張った。
スピードも、パスの正確さも、ボールコントロールも、すべて北朝鮮の方が明らかに上回っていた。それを、日本は、戦術とチームワークで補った。最初から最後まで、足の止まる選手がいなかった。この相手に対してはこの戦い方しかないという戦い方を、日本は一丸となって貫いた。DF岩清水、安藤、磯崎、矢野が、ガッツと沈着さを併せ持って、相手の攻撃を封じた。キーパー福元のファインセーブも、目を見張った。
たまらず相手がじれて、そして疲れてきて、数少ないけども日本にチャンスがめぐってきた。日本の選手たちは、それらをちゃんとものにして、相手を脅かした。荒川の左サイドからの三人突破のドリブル、そして沢へのラストパス。いやあ惜しかった。沢のヘッディングから、オフサイド判定で幻のゴールとなった大野のボレーシュート。これも本当に惜しかった。どちらも得点であってもちっともおかしくなかった。勝敗は、まったくもって紙一重であった。
ボクは、自分の娘がサッカーをすることもあって、女子サッカーがもっともっと日本でも普及すればいいなあと思っている。だいいち、女子サッカーは、見ていて楽しい。女子サッカーは、男子のサッカーに比べて、汚いファウルが少ないので、すがすがしい感じがする。たしかに、男子に比べて、シュートやパスの勢いは劣るし、個人技で抜け出てる選手も少ない。しかし、その分女子サッカーにはチームワークが要求されるので、戦術や各プレイヤーのポジショニングがより大切になる。その意味では、男子サッカーより女子サッカーの方が、知的なスポーツである。
それに、女子アスリートは、カッコいい。
ボクの娘は、前にカナダナショナルチームのキャプテン、アンドリア・ニール(Vancouver Whitecaps所属、背番号5)の指導を受けたことがあって、ボクもその縁でアンドリアさんに何度かお目にかかったことがあるが、この方、実にさわやかで、ホレボレしてしまった。ボクの娘もチームで背番号5番をつけているので、彼女にとってもとてもよいロールモデルとなってくれている。
毎年、ボクと娘は、元旦に国立競技場で行われる天皇杯の試合を見に行くことにしている。あまり一般には知られていないが、午後の男子の試合の前に、女子サッカーの天皇杯の試合も組まれている。同じチケットで、両方とも見れるのである。
今年は、より多くの人が、女子の決勝も見にきてくれるといいなあと、願っている。

2006年12月14日

みなとみらい

みなさん、みなとみらい線のみなとみらいという駅で降り立ったことがあるでしょうか。
ボクは、この駅とこの駅周辺が大好きである。
駅の改札口をでて、クィーンズスクェアーの方へ向かうと、ものすごく長いエスカレーターがあって、それに乗っているだけで本当に未来(みらい)都市の空間にいるような感じがする。エスカレーターから下を見おろすと、なんと電車のプラットホームまで見通せてしまう。つまり、駅自体がとてつもない吹き抜け構造になっているのである。これだけ凝ったつくりの駅は、東京にもなかなかない。
みなとみらい周辺には、ショッピングモールがいくつもある。
お金がなくても、ウィンドウショッピングするだけで、実に楽しい。
クィーンズスクェアーのモールは、ディーゼルとかビームスとか、どちらかというと若者向けの店が多いので、ボクのようなオジサンには入りづらい。ときどき勇気を出してコムサストアーをのぞくと、お決まりのビートルズがかかっていて懐かしい気分になるが、やっぱりここにもボクが買うようなものは置いてない(アイスクリームを食べることはあるけどね)。
そこで、オジサンは、どちらかというと、となりのランドマークプラザの方へ足が向いてしまう。JCrewがあり、COACHがあり、In the Roomがあり、この辺がボクのうろつく場所である。クィーンズスクェアーとランドマークプラザの間には、Hard Rock Café Yokohamaがあって、どうしても「今日はアメリカン」な気分に浸りたいとき、どうしてもハンバーガーとポテトが食べたいときに、入ることにしている。
しかし、最近のボクのお気に入りは、コスモワールド遊園地をへだてたワールドポーターズというモールである。その4階には、結構オシャレなインテリアの店がいくつも入っている。ソファーとか、テーブルとか、ベッディング類とか、かなり充実している。2階にはタリーズもあるし、1階の食料品売り場も品揃えが豊富である。そして、最近ボクの勉強場所になりつつあるのが、1階にあるイタリアン・レストランである。この前、時間をずらしてランチに入って、そのままずっと居座って勉強してしまった。平日行くと、結構空いていることがわかったので、また使わせてもらおうと思っている。
ワールドポーターズに飽きたら、そのまま赤れんが倉庫のモールまで歩いていって海を眺めるのもいいし、引き返して横浜美術館方面へ歩いていくのもひろびろしていてとてもすがすがしい散歩コースである。
そうそう、ま、いうまでもないけど、この辺は夜景がとってもきれいである。
どっしりと構えたランドマークタワー、そのまえにある三つの波のようなクィーンズタワー、帆のようなインターコンチネンタルホテル、そしてコスモワールドの観覧車。すこし先にはマリンタワー、そして遠くにはベイブリッジも見える。
横浜は、本当にすばらしい町である。
海が近くにあることが、活動というのか生活というのか、そうしたもののリズムになんともいえない癒しを与えてくれるので、大学からちょっと遠いけど、もう離れられないのである。

2006年12月10日

愛することと愛されること

昨日ゼミのOB会があった。
一年に一度、年末恒例の行事である。
遠くから、忙しい1期生、2期生たちも参加してくれた。
いつの間にこんなに大所帯になったのだろうというくらいの人数であった。
ボクのゼミを通して、これだけ多くの人々が繋がっているのだという事実に、感動した。
すこしはボクも世の中の役にたっているのだと思えて、嬉しかった。
みんな、いい子たちである。
みんな、ひとりずつ、本当に可愛い。
みんな、ひとりずつ、自分なりに真剣に人生を歩んでいる。
人間だからそれぞれ悩みや嫉みや恨みを持っているに違いない。
まだ若いからそれぞれ自分の将来に不安を抱えていないわけがない。
しかし、みんな一生懸命、それらと格闘している。
その姿が、それぞれ輝いている。
知っている人は知っているが、ボクは最初から大学の教師になろうと思っていたわけではなかった。
大学の教師になったのは、ま、はっきりいって、偶然みたいなものであった。
しかし、いま、大学の教師になって、本当に、本当によかったと思う。
こんなにいい子たちにいつも囲まれて、これ以上を望んだら、バチあたりである。
損得のない人と人との付き合いは、社会に出てしまった後では、なかなか経験できるものではない。
大学のゼミとは、そういう付き合いが可能なのだということを実感できる、貴重な場である。
そういう付き合いがあることを知って社会にでて人生をおくる人と、知らないまま一生を終える人とでは、人生の豊かさに格段の違いがある。
一期生の一人がいっていたように、そうした付き合いこそ、人生において「いつも戻って来れる心の原点」にほかならないからである。
これからもずっと、ボクのゼミとそのOB会が、そうした原点を提供できればいいと思う。
もう14年も前に娘が生まれた時、遅まきながらボクが学んだことは、人を愛するということは、その人に対して無償の愛をささげることなのだ、ということであった。
無償の愛とは、いうまでもなく、損得勘定などが入り込む余地のない愛のことである。
人間だから、いつか見返りがあるのではないか、これだけの愛を注いだらきっと相手も愛を返してくれるのではないか、などと期待してしまうこともある。
ま、そういうこともあるかもしれない。
しかし、面白いことに、いや本当に面白いことに、無償の愛をささげると、無償の愛がちゃんと返ってくるのである。
人を愛するということがどういうことなのかを、ボクは娘に、娘の笑顔と仕草に、教えられたのである。
人を愛するということは、素晴らしい。
なぜなら、人を愛するということが、人から愛されること、だからである。

ゼミ生のみなさん、ゼミのOBのみなさん、また来年元気に顔を合わせましょう。

2006年12月08日

道路標識の謎

最近ずっと考えている問題に、道路標識の矛盾がある。
きっと同じような例は日本にもあると思うが、具体的にボクの頭を悩ましているのは、今年の夏バンクーバーでみた、二つの標識である。
それは、
1)月曜日から金曜日の3-6時まで、ここには駐停車してはいけない
という標識と
2)月曜日から金曜日、ここには2時間まで駐車してよい
という標識である。
道路標識とは法律の一種である。ということは、これは法律には二つの異なった方向性をもつものがあることを示唆している。ひとつは1)のようなネガティヴな法、つまりなにかを禁止している法であり、もうひとつは2)のようななにかを許可しているポジティヴな法である。
この辺までは、まあ当たり前の話かもしれない。
さて、実際にバンクーバーへ行ってみるとわかるが、この二つの標識は、ときどき隣り合わせに張られている。すると、どうしても一瞬頭が混乱する。これはどういう意味なんだろうか、と。あれ、いまここに車をとめてもいいのかな、と。
もし2)だけであれば、たとえば水曜日の4時にそこに駐車しても、罰金をとられることはない。もちろん4時から2時間以上駐車したら罰金をとられるが、2時間を越えなければ問題はないはずである。しかし、2)と1)の標識が両方あったら、これは4時に駐車してもよい、ということにはならない。おかしいことに、2)を字義通り解釈すれば4時にとめてもよいことになっているから、それをたてにとめてもいいではないかという議論もできそうな気がするが、そのような解釈にもとづいて駐車したらたちまち罰金を払わなければならないことになる。
これは、どういうことなのだろうか。ポジティヴな法とネガティヴな法があったら、かならずネガティヴな法の方が優越する、ということなのだろうか。これも興味ある問題だが、ボクにはもうひとつ重要なメッセージがこの先にあるように思えてならない。
それは、ネガティヴな法とポジティヴな法というのは、人間社会の基本的な見方として対抗関係にあるということである。ネガティヴな法というのは、3-6時以外であれば、何時間でもとめてよい、ということを意味する。ということは、一見とても規制的にみえるが、それはわれわれにより多くの裁量を与えるような見方を提供している。これに対して、ポジティヴな法というのは、2時間はとめられますというように、一見われわれに対して多くの特権を与えているかのように見えるが、それは逆に「2時間しかとめられない」ということをいっているのであるから、より規制的で、小さな裁量しか与えていない見方に立っているように思える。つまり、法が前提として考えている人間社会のあり方について、ネガティヴな法の書き方のほうが、われわれの自由をより大きくとらえる見方になっているのではないかと思うのである。
ご存知のとおり、現行の日本の憲法には、次のように書いてある。
第十九条【思想及び良心の自由】
 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
第二十条【信教の自由、国の宗教活動の禁止】
 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。
なぜ、19条はネガティヴに、そして20条はポジティヴに書かれているのか、謎はますます深まるのである。