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2013年05月14日

ヒューム『人間本性論』の誤訳について

今日は、ある論文のひとつの註を書くために、丸一日を費やしてしまった。
すでにその論文の締め切りをとうに過ぎていることからすると、たったひとつの註を仕上げるために丸一日もの貴重な時間を割いていいのか、と思われるか知れない。いや、まさにその通りで、本来であれば、そんな時間を割くべきでないのである。しかし、ここが研究職につくものの悲しい性(さが)で、どうしても妥協をしたくない一線というのがあって、そのために色々と資料をあたり、間違ったことを書かないように、時間を惜しみながらも、完璧をめざしてしまうのである。
では、今回一つの註を書くのに、なぜそれほどまでに時間がかかったのか。その理由は、ヒュームの『人間本性論』の新訳が法政大学出版局から出たのであるが、ボクがたまたま興味をもった箇所が、どう考えても誤訳ではないかと思えてしょうがなかったからである。もちろん、誤訳だとすれば、誤訳と言い切るだけの根拠を用意しなければならない。そして自分なりの正しい訳を用意しなければならない。それで時間がかかってしまったのである。
その当該の部分は、人間社会における道徳(美徳と悪徳)の根拠が理性ではなくむしろ感性にあるとヒュームが主張しているところ(Book III, Part III, Section I)にある。原文は、こうである。
“In general, all sentiments of blame and praise are variable, according to our situation of nearness or remoteness, with regard to the person blamed or praised, and according to the present disposition of our mind. But these variations we regard not in our general decision, but still apply the terms expressive of our liking or dislike, in the same manner, as if we remained in one point of view.”
この部分、伊勢俊彦氏、石川徹氏、中釜浩一氏による新訳では、次のようになっている。
「一般に、非難や称賛を受けている人物に対する近さや隔たりといったわれわれの位置に応じて、またわれわれの精神の現時点での状態に応じて、非難や称賛のあらゆる心情は変化する。しかし、こうした変化をわれわれは一般的な判定では顧慮せず、われわれの好悪を表わす語を、依然として、われわれが一つの観点に留まっている場合と同じ仕方で適用する。」
たとえば、この中のliking or dislikeを、ボクであれば「好悪」などと訳すことはありえない。この部分でヒュームが強調しているのは感性なのであるから、「好き嫌い」と訳す方がよほど文意に沿っている。「好悪」では、そもそも日本語としてしっくりこないばかりか、(好き嫌いという言葉が表すような)人々の主観的感情の表れであることがまったく伝わらない。
しかし、さらに致命的な誤訳だと思うのは、後段の部分の “as if”が見逃されている点である。ヒュームの主張したかったことは、「あたかも一つの観点に留まっているかのように」ということであり、それはすなわち「本当はひとつの観点に留まってはいないのに」という主張なのである。ところが、上記の訳では、この「あたかも」が訳されていないので、ヒュームが「一つの観点に留まっている」と信じているかのように理解されてしまう。しかし、これでは文意がまったく逆である。
そのようなわけで、ボクはこの部分を自分で訳し直さねばならなかった。ボクの訳は、以下の通りである。
「一般に、非難や称賛などあらゆる心情は、非難や称賛を受けている人物に対する近さや隔たりといったわれわれの位置に応じて、またわれわれの精神の現時点での状態に応じて、ばらつくものである。しかし、われわれは、自分たちが持ち合わせている何らかの一般的な判断のもとで、そうしたばらつきを認知しているわけではない。われわれは、あくまで好き嫌いを表現する言葉をそれらにあてはめて、そうすることであたかも一つの観点に留まっているかのような仕方で、認知しているのである。」

2013年05月03日

民主主義は改憲の根拠たりうるか?

今年の憲法記念日は、21世紀の日本にとっての、ひとつの重要な節目となるかもしれない。このところ、憲法をめぐる議論や論争は著しく活発化している。そのような政治状況であればこそ、われわれは原点に立ち戻り、日本のような民主主義国家にとって、憲法なる文書を起草し、それを政治の中心に据えることにどういう意義があるのかという根源的な問題を考える必要がある。
実は、憲法とは、多数決を意思決定の基本とする民主主義と対立する制度である。民主主義とは、独裁者や専制君主など一握りの権力者が大多数の国民の意思を踏みにじって政治的決定を下すのを排除することを理想とする。これに対して、国民の基本的権利や統治のあり方を定める憲法は、通常、一般の法律とちがい(議会を制する)多数派といえども簡単には変更できない文書として制定される。憲法を起草し、いくつかの重要な政治的決定をあらかじめそれに委ねることには、少数派を多数派の暴挙から守るという意味がある。
憲法が民主主義と逆を向いた制度である以上、憲法を改正する大義として単純に民主主義の理念を掲げることはできない。最近自民党や維新の会などは、現行の96条にある「国会議員の三分の二」という発議要件について、「国民の多数が憲法を変えるべきだと言っているのに、わずか3分の1の議員が反対すれば発議すらできないというのはおかしい」(安倍首相)と批判しているが、この批判は的外れである。多数派に属する人々が自らの意思にしたがって変更できる文書であるならば、国家がそれを憲法として起草する意味はない。そのような文書に、多数派の暴挙を抑えるという、憲法が本来になうべき役割を期待することはできない。そもそも、96条を改正の手順を定めた手続的な(つまり本質的でない)条項だと理解することが誤りである。96条自体、違憲立法審査権や最高法規性を定めた条項などとともに、憲法の意義そのものを表している本質的な条項なのである。
ところで、憲法は、多数派の意思をそのまま反映させないための仕掛け、というだけではなく、もうひとつ別の意味でも反民主主義的な制度である。それは、一度制定された憲法は頻繁に改正されないので、憲法とは現在の多数派のみならず、将来の多数派をも拘束する文書だ、という点においてである。
このことに関して、200年以上も前のアメリカでは、ジェファソンとマディソンとのあいだで(私信のやりとりを通じた)有名な論争があった。ジェファソンは、現在の人々(の決定)が将来の人々を拘束することがあってはならないと考え、(ある算出根拠にもとづいて)憲法は20年ごとに改正されなければならないと主張した。つまり、民主主義の原則を世代を超えて適用し、そこに憲法を改正する正当性を見出そうとしたのである。これに対して、マディソンは、そのような定期的な改正は、憲法を国民のあいだに定着させることを妨げ、不安定な政治状況につけこむ勢力を助長し、ひいては将来の人々にとって不利益をもたらすことになると反論した。
憲法を起草したり改正したりするには、屋台骨となる理念が必要である。「時代に合わなくなった」憲法を変えるのは当たり前ではないかと、いま声高に主張している人々は、憲法の根拠をあくまで民主主義にもとめたジェファソンの立場に一見重ね合わせられる。しかし、ジェファソンの意を正しく汲むならば、憲法改正を定期的に行うことが憲法自体に明記されなければならない。なぜなら、民主主義が続く限り、現在の(改憲を主張している人々を含む)世代だけが特権化され、将来の世代を拘束できる理由はないからである。しかし、もしそのような条項を実際加えるとなると、今度はマディソンが危惧した政治の混乱が現実味を帯びると判断する人もおそらく多くなるのではないだろうか。このようにして、アメリカの二人の偉大な「建国の父」のあいだでのこの論争は、今日でもその重要性を失っていない。われわれも、いま、ひとりひとりの良心と能力の限りを尽くして、憲法改正を正当化する根拠が何なのかを、改めて考えなくてはならないのである。

2013年05月02日

韓国で思ったこといろいろ

Asan Institute of Policy Studiesは、まだできてまもないシンクタンクである。にもかかわらず、それはいま世界の注目を集めている。光栄なことに、その年次イベントであるAsan Plenumに、はじめて参加させて頂いた。
まず驚くのは、充実したホスピタリティ。何十人ものスタッフを抱え、その全員が流暢な英語をしゃべる。印刷物、自らの組織を紹介するビデオ、会議の進行、ランチや夕食会の手配など、本当によく準備されている(もちろん、全部英語)。多くのビデオカメラが、各セッションでの討議を録画している。ヘリテージ、ブルッキングズ、ランド、カーネギーなどの重要な財団/シンクタンクはもとより、Financial Times、BBC、Wall Street Journalなど世界を代表するメディアからの代表が参加している。またアメリカ元国務次官補であるキャンベル氏、元国務副長官のスタインバーグ氏、中国の実力者であるYang Yi氏など、押さえておくべき人材をことごとく押さえて、人的ネットワークを広げ深めている。
ハッキリいわせてもらうが、いま、このような会議を日本で開催することは、不可能であろう。日本のどこの組織も、このような大がかりな会議をひらく財力をもっていないし、そもそも英語をこれだけ流暢に話す常勤スタッフを十分に抱えている財団や研究所はない。韓国の方が、人的ネットワークづくりという意味では、はるかに先進国である。
このような催しものにおける日本の国家としてのプレゼンスは、情けないほどに低い。キャンベル氏やスタインバーグ氏に匹敵するような、外務省OBも現役政治家もだれも来てない(呼ばれても来ないのか、そもそも声さえかからないのかは知らない)。そのため、セッションでは、中国の、あるいはアメリカの、自らの国益に根ざした発言がなされるが、それに対抗する日本の国益を背負った声はほんとうにかぼそいものであった。日本のジャーナリストのプレゼンスもまったく目立たない。多分ひとりもいなかったのではないか。いたとしても彼らは沈黙したままである。海外のジャーナリストとのネットワーク作りがこうした場で行われているとも思えない。いったい、彼らはどこで何をやっているのか。
韓国では学術が高く評価されているが、このことも日本との大きな相違点である。この研究所の理事長も所長も博士号を持っているし、またスタッフほとんどがアメリカなどの大学院で学んできたものたちである(だから、彼らは英語に苦労しないのである)。それにひきかえ、日本の外交官やシンクタンクのスタッフ中にPh.D.保有者の占める割合は、きわめて低い。
自分が博士号を持っているからいうわけではないが、博士論文を仕上げるというのは、とてつもなく困難な作業である。その過程では、いかにすれば考え方や関心の異なる他人に自分のアイディアをきいてもらえるようになるかについてのトレーニングを積む。自分のオリジナルな思考を発展させ、それをエビデンスに基づいて擁護し、しかも人々に納得いくかたちでプレゼンしなければならない。その過程を経ることで、物事を体系的に捉える視点と効果的に発信する技能を学んでいく。
日本の外交にもっとも欠けているのは、まさにそうした視点や技能である。これもハッキリいわせてもらうが、ボクがこれまで出会った日本の外交官およびそのOBたちは、自分の経験を滔々と(時に自慢げに)語ることは大好きだが、国際関係や政策決定のごく基本的な学術書さえ読んだことがないとしか思えないような人たちばかりである。彼らは、他国との日々の交渉の現場から外交の要諦を学べると思い込んでいるのではないか。そのような思い込みが、こうした(Asan Plenumのような)会議を、軽視することにつながっているのであろう。
しかし、現場主義なるものは、「実践知」を生むことはあっても、体系的で、理論的で、さまざまな場面に応用可能な「専門知」を導くことはない。帰納的手法が、演繹的手法によって補完されなければならないということは、社会科学の方法論の授業をとったものなら当たり前のこととして知っているが、それさえ知らないということになると、発想からしてすでに「科学的」ではないのである。いま日本の国益にとって必要なのは、広く深い国際関係の文脈の中に日本の置かれた戦略的立場を客観的に位置づけすることができる能力であり、そのような視点から外国に対して日本のメッセージを発信していくことにほかならないのである。