韓国で思ったこといろいろ
Asan Institute of Policy Studiesは、まだできてまもないシンクタンクである。にもかかわらず、それはいま世界の注目を集めている。光栄なことに、その年次イベントであるAsan Plenumに、はじめて参加させて頂いた。
まず驚くのは、充実したホスピタリティ。何十人ものスタッフを抱え、その全員が流暢な英語をしゃべる。印刷物、自らの組織を紹介するビデオ、会議の進行、ランチや夕食会の手配など、本当によく準備されている(もちろん、全部英語)。多くのビデオカメラが、各セッションでの討議を録画している。ヘリテージ、ブルッキングズ、ランド、カーネギーなどの重要な財団/シンクタンクはもとより、Financial Times、BBC、Wall Street Journalなど世界を代表するメディアからの代表が参加している。またアメリカ元国務次官補であるキャンベル氏、元国務副長官のスタインバーグ氏、中国の実力者であるYang Yi氏など、押さえておくべき人材をことごとく押さえて、人的ネットワークを広げ深めている。
ハッキリいわせてもらうが、いま、このような会議を日本で開催することは、不可能であろう。日本のどこの組織も、このような大がかりな会議をひらく財力をもっていないし、そもそも英語をこれだけ流暢に話す常勤スタッフを十分に抱えている財団や研究所はない。韓国の方が、人的ネットワークづくりという意味では、はるかに先進国である。
このような催しものにおける日本の国家としてのプレゼンスは、情けないほどに低い。キャンベル氏やスタインバーグ氏に匹敵するような、外務省OBも現役政治家もだれも来てない(呼ばれても来ないのか、そもそも声さえかからないのかは知らない)。そのため、セッションでは、中国の、あるいはアメリカの、自らの国益に根ざした発言がなされるが、それに対抗する日本の国益を背負った声はほんとうにかぼそいものであった。日本のジャーナリストのプレゼンスもまったく目立たない。多分ひとりもいなかったのではないか。いたとしても彼らは沈黙したままである。海外のジャーナリストとのネットワーク作りがこうした場で行われているとも思えない。いったい、彼らはどこで何をやっているのか。
韓国では学術が高く評価されているが、このことも日本との大きな相違点である。この研究所の理事長も所長も博士号を持っているし、またスタッフほとんどがアメリカなどの大学院で学んできたものたちである(だから、彼らは英語に苦労しないのである)。それにひきかえ、日本の外交官やシンクタンクのスタッフ中にPh.D.保有者の占める割合は、きわめて低い。
自分が博士号を持っているからいうわけではないが、博士論文を仕上げるというのは、とてつもなく困難な作業である。その過程では、いかにすれば考え方や関心の異なる他人に自分のアイディアをきいてもらえるようになるかについてのトレーニングを積む。自分のオリジナルな思考を発展させ、それをエビデンスに基づいて擁護し、しかも人々に納得いくかたちでプレゼンしなければならない。その過程を経ることで、物事を体系的に捉える視点と効果的に発信する技能を学んでいく。
日本の外交にもっとも欠けているのは、まさにそうした視点や技能である。これもハッキリいわせてもらうが、ボクがこれまで出会った日本の外交官およびそのOBたちは、自分の経験を滔々と(時に自慢げに)語ることは大好きだが、国際関係や政策決定のごく基本的な学術書さえ読んだことがないとしか思えないような人たちばかりである。彼らは、他国との日々の交渉の現場から外交の要諦を学べると思い込んでいるのではないか。そのような思い込みが、こうした(Asan Plenumのような)会議を、軽視することにつながっているのであろう。
しかし、現場主義なるものは、「実践知」を生むことはあっても、体系的で、理論的で、さまざまな場面に応用可能な「専門知」を導くことはない。帰納的手法が、演繹的手法によって補完されなければならないということは、社会科学の方法論の授業をとったものなら当たり前のこととして知っているが、それさえ知らないということになると、発想からしてすでに「科学的」ではないのである。いま日本の国益にとって必要なのは、広く深い国際関係の文脈の中に日本の置かれた戦略的立場を客観的に位置づけすることができる能力であり、そのような視点から外国に対して日本のメッセージを発信していくことにほかならないのである。