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2009年09月27日

夏目雅子さんの番組とプライベートな空間について

ボクが中学生の頃、週末にFM東京で夏目雅子さんがパーソナリティをつとめていた番組があった。彼女が大女優としての道を歩み出す前の、まだ素人っぽさが残るういういしい時代のことである。世の中にこんな美しい人がいていいのか、と誰もが思うほど美しい方だったのに、とっても気さくな感じが伝わり、まさしく「パーソナル」な感じでとりとめのないおしゃべりをし、送られてくる葉書を読み、自分の好みの音楽をかけていた。
ボクは、この番組が大好きだった。夏目さんとボクとの間にラジオを媒介としてひとつの空間がつくられ、ボクのような(女の子と縁のない生活を続けていた)男子中学生にとっては限りない癒しとなっていた。彼女の声を聴いている間は、その癒し空間がボクの部屋をすみからすみまで包みこんだ。いうまでもなく、それはとてもプライベートな体験であった。彼女の番組を聴いていた人は、それぞれに、(公共の電波でありながらも)そうしたプライベートな体験を心地よく感じていたのである。
さて、この前ある方からうかがったところによると、京都の地元の放送局では、いまでもこのようにひとりの人が語り続けるラジオ番組がたくさんあるのだそうである。その方は、東京のラジオ番組は対話形式になっていてホストがいてゲストがいる、あるいはホストとアシスタントがいる設定が多い、という印象を持っておられる。なぜだろう、というので、ボクは単純に「東京に比べて、京都のその放送局は予算がないんじゃないですか」と、その時は答えた。
しかし、ボクにはこの違いがずっと頭に引っかかっていた。
ひとりの人がパーソナリティである番組と違い、対話形式の場合、ラジオ体験はプライベートなものには絶対にならない。なぜなら、そこにはすでに、対話をしている人たちの空間が出来上がってしまっているからである。われわれ一般の視聴者は、その空間の当事者となることはできない。あくまで第三者的な傍観者あるいは傍聴者なのである。それゆえ、そうした形式のもとでは、ボクが夏目さんの番組に対してはぐくんだようなパーソナルなアタッチメントは、生まれようがない。
実は、対話形式の番組においても、ちょっとしたことで、つくられる空間が異なる趣を呈する。これは、ラジオに限らず、解説の声だけがきこえてくるテレビのスポーツ番組などでも最近よく遭遇することであるが、解説者が実況のアナウンサーにいわゆる「タメ口」で対話をしていることがある。「この力士は稽古が足りないんじゃないですかね」という代わりに「この力士は稽古が足りないんじゃないの」とか、「私だったらここで代打を送るところなんですがね」という代わりに「ぼくだったらここで代打だな」とかいった具合である。これは、親近感というか、親しみやすさをかもし出そうとしているのかもしれないが、そうだとしたらとんでもない誤解である。対話形式の番組では、この解説者は視聴者とではなく、対話の相手であるアナウンサーと空間をまず共有しているのである。それはいってみればアナウンサーとのプライベートな空間に過ぎないのであって、それをいくら親しみやすいものとして演出したとしても、視聴者との空間が親しみやすくなるわけではないのである。
夏目さんは、あるときには笑い転げ、あるときには涙ぐみ、自分の感情を惜しみなく番組の中で出していた。しかし、それでもボクが彼女の番組をこよなく愛したのは、それが自分にとってのプライベートな空間を作ってくれていたからである。夏目さんは、彼女が他の誰かと作った自分だけのプライベートな空間を、ボクらに押し付けていたのではなかったのである。