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2006年02月25日

ピーター・ジェニングス

去年まで、アメリカの三大ネットワークのひとつABC放送に、夕方30分間のニュースを毎晩担当するピーター・ジェニングスというアンカーがいた。
ボクは、このアンカーマンが大好きだった。まず、ルックスがとってもカッコよかった。ほとんどいつも、濃紺のスーツをオシャレに着こなしていた。だれが見てもハンサムな上に、だれが見ても知性と気品があふれていた。それから、ニュースを読むときに、まったくといってよいほど、カムことがなかった。ニュースだけでなく、たとえば、選挙速報などの生の実況を担当しても、この人は絶対にトチラなかった。何人かのゲストを同時に招く特別な番組で司会をさせても、実に上手かった。非の打ちどころがなかった。そうしたプロフェッショナリズムが、ボクは本当に大好きだった。
ABCには、テッド・コッペルという、もうひとり有名なアンカーマンがいる。こちらは、インタヴュー相手に鋭くつっこむことが身上で、もっと遅い時間から始まる夜の報道特集番組をおもに担当している。しかし、動のテッド・コッペルに対し、ピーター・ジェニングスはあくまで静。沈着で、ソフトな喋りで、スキがないとでもいうのだろうか、一秒もずれることなく時間ピッタリにおわった。そして、毎晩、「I’m Peter Jennings, Good Night」といって、去っていくのであった。
アメリカのニュース番組は、日本のそれとは大違いで、ごく淡々と、事実を伝えることに重きをおいている。そして、アメリカのアンカーたちは、番組の中で自分のコメントをいっさい言わない。論評は視聴者がするものと、ちゃんとわきまえて自ら身を引いているのである。彼らは、ただ自分の目の前に(あるいは、耳の後ろから)フィードされるニュース原稿を、ひたすら読むだけである。もちろん、彼らは、そうした原稿を作る作業、またニュースを選び、どのニュースをどの順番で報じるかを決める作業の中では、大きな役割を担っているのであろう。しかし、これらは、番組が始まる前までに、すべて完了している作業である。ひとたび番組が始まってしまうと、アンカーにはほとんど何をする余地も与えられていない。いかに間違いなく原稿を読むかが、彼らにとっては何より重要なことなのである。
しかし、ピーター・ジェニングスは、このきわめて小さな裁量の範囲内でも、生きたニュースを演出し、それを伝えることに見事に成功していた。たとえば、とっても憤りを感じるようなニュースを報じた後は、ほんの一瞬、次のニュースへ移る前にためらった。皆が呆れはててしまうようなニュースを報じた後は、眉をちょっとだけ吊り上げてみせた。人間の温かみを感じるようなニュースを報じた後は、照れくさそうに微笑みをチラリとのぞかせた。そして、面白おかしいニュースを報じた後には、肩をほんの少しすくめてみせた。
こうした小さな仕草や表情は、自然にでたものかもしれないし、計算されたものであったのかもしれない。いずれにせよ、それらが見る者を引きつけ、共感をよび、彼が送るメッセージを生きたものにしていた。
ピーター・ジェニングスは、去年、癌で亡くなった。67歳だった。

2006年02月21日

好きな音楽

ひとそれぞれ、音楽に好みがある。そして、ひとそれぞれ、状況に応じて聞く音楽というものがある。ボクはそれほど音楽に造詣が深いわけではないけれど、それでも音楽なしの生活は考えられない。たとえば、今は、ディーン・マーティンを聴きながら、これを書いている。彼の優しい唄声、ホントにいいよね。これは、カナダに行ったときに、向こうのスタバで買ってきたうちの一枚です。日本のスタバでは売ってないと思って向こうに行くたびによくCDをあつらえてきたのだが、最近は日本のスタバでもCDを売るようになったみたいだから、この一枚も日本で手に入るかもね。いずれにせよ、選曲がなかなかいいので、ボクはこのスタバシリーズをたくさんもっている。いつどれをかけても、はずれることなく、心が落ち着く。
執筆などのために集中力を高める必要があるときには、いつもキース・ジャレットの『ザ・ケルン・コンサート』を聴く。澄みきって緊迫した音、あふれ出る創造力と熱情(パッション)。あれを聴くと、自分の創作意欲もグーンとアップするのがわかる。キース・ジャレットには、そのほかにもいろいろお世話になっている。朝コーヒーをいれながらよく聴くのは、彼がクラシックを弾いているもの。バッハのゴールドベルグ変奏曲、そう、あのチェンバロで弾いているやつ。それから、ヘンデルのクラヴィーア組曲、同じくヘンデルのリコーダーソナタもいいですよ。眠れない夜に聴くのもキース・ジャレットで、『The Melody At Night With You』という一枚。これは、先輩のMさんに教えてもらった。キース・ジャレットは、アメリカにいたとき、一度コンサートに行きました。いやー、彼は間違いなく天才です。
どういうわけか、洗濯物を干したり、アイロンをかけたりしながら聴くのは、ローリング・ストーンズ。三枚組の『Singles Collection』というのがあって、その三枚目、Honky Tonk WomanとかWild Horsesとかが入っているのがお気に入りです。残念ながら、ミック・ジャガーは、まだ生で見たことがない。もう、無理かなあ・・・。
読書をしながら聴く時は、グレン・グールドのピアノが多いかな。特にお気に入りは、バッハのフランス組曲とモーツアルトのソナタ集。ボクは、あまり「ながら作業」ができないので、小さな音量にして、聞こえるか聞こえないかぐらいにかけておく。すると、ちょうど心地よく、読書も邪魔されない環境が作り出される。
夜お酒を飲みながら聴くのは、ビリーホリデー。部屋を真っ暗にして、ひとつだけ小さな灯りをつけて聴く。友人をよんで家でパーティする時には、ノーラ・ジョーンズとか、マイルス・デーヴィスとか、ビートルズとか、万人受けするCDをかけるようにしている。
と、ここまで書いてきて、日本の音楽がないのに気がつきましたか?そう、最近、日本製音楽を聴く気分にまったくなれないのです。なぜかなあ。前は、サザンとかユーミンとか今井美樹とか、聴いていたのに・・・。ま、カラオケへいったら、このあたりから唄うことにしているんだけどね。

2006年02月19日

名前について

アメリカの高校に初めて一年間留学したとき、ボクの名前Masaruを正確に発音できる人がなかなかいなかった。カリフォルニアの小さな町で、日本人と接するのがはじめてというごく普通のアメリカ人高校生ばかりだったから、ま、しょうがないといえばしょうがない。マサルの「マ」にアクセントがついて「サルゥ」と尻つぼみになったり、「サ」をヤタラに強調する結果「マサールー」とかなったり・・・「そうじゃない、そうじゃない、どこにもアクセントをおかずにフラットに言ってみてヨ」と、最初はそのたびごとに修正してたんだけど、こちらも面倒くさくなり、しだいに「覚えてくれたんだから、なんでもいっかぁ」と思うようになってしまった。それにしても、英語以外喋ったことのないアメリカ人の語学に関する不器用さといったら、ひどいもんだ。ボクの名前のように、母音が三つ入っているだけでもうお手上げという人がたくさんいた。なかには、「Masa」と省略して「私はあなたをそう呼ぶことにしたの」と勝手に決め込む人までいたんだからね。
だいたい、一般のアメリカ人たちの名前って、ありふれてるのが多すぎると思いませんか?男だとデーヴィッドとかスティーヴとか。女だとステファニーとかリサとか。学校で30人ほどのクラスだと、必ず、二人ぐらいずつデーヴィッドとリサがいる。よくもまあ、混乱しないものだ、と思う。
さて、先日、バークレイで再会した友人K・K君のパートナーは、フィリピン出身で、名前をシェリルという。ボクは、ずっと、彼女にはフィリピンの名前があって、でもアメリカに来たらみんなにそれをうまく発音してもらえないので、シェリルという呼び名をつけたものとばっかり思っていた。イタリア人でもマルコをマークと言い換えたりする人もいるし、似た発音の元のフィリピン名前に由来したニックネームなのかな、と思い込んでいたわけだ。そしたら、フィリピンでは、アメリカの植民地統治時代の影響で、生まれたときから英語の名前をそのまま付ける場合があるんだってね。(←これ、本来は考えさせられる重たい問題を含んでいるわけだけど、今回はそれ以上深く突っ込まないことにして、話しを進めることに。)「へぇ~、で、なんでシェリルなの?」ときくと、その答えが面白かった。お父さんがテレビで放映されていたチャーリーズエンジェルの一人シェリルラッッドのファンだったから、だって。「えっ、ホントカよ」って、感じでしょ。フィリピンでは、今では、「マイケルジョーダン」とか「タイガーウッズ」とかいう名前をつけられる子供たちがいるんだそうです。彼女の子供時代には「ベートーベン」と名付けられた男の子が同級生にいた、といっていた。ファーストネームで、ですよ。いくらなんでも、それは可哀想だなあ、と思いながら、それでもボクは笑ってしまった。
ちなみに、シェリルには妹さんがいるそうです。しかし、その名前はジャクリンではありませんでした。ファラフォーセットでもありませんでした。残念でした。

2006年02月17日

ノースビーチ

出張から帰ってきましたので、日記再開します。
さて、サンフランシスコが大好き、ということは前にこの日記にも書いたけど、その中でもとくにボクのお気に入り、それはノースビーチです。そう、ここは、イタリア人街。一時、さびれて、ストリップクラブが軒を連ねるちょっと危ないところというイメージだったのだけど、いまではもうすっかりその汚名を返上した。夜遅くまでにぎやかで、歩いていてもぜんぜん安全で、快適。ユニオンスクエアーから中華街を突っ切って10分もすれば、コロンバス通りにでる。それを左の方へ上がっていく。City Lightsという屋根裏部屋のような本屋さんがあり、そこで一服するもよし。音楽をききたければ、Pink Pearlsという結構レベルの高いジャズクラブもあるし、そのほかにもライブ演奏しているバーも数多くある。裏通りには、いくつか凝ったインテリアの店もあって、ホントウに楽しい。
ノースビーチで食べるなら、もちろんイタリアン。今回は大きな一軒家を改造したような店、Bocce Caféに行きました。店内は、天井が高くて気持ちがよい。暖かければ、外のバルコニー席も選べる。混んでいるときは、カウンターで一杯飲んでからドリンクをもって椅子席に移動する。運がよければ、ソファー席にゆっくり座ることもできる。ここは、値段が手ごろで、かつ膨大な量の料理が出てくるので、とりすぎ食べすぎにご注意ください。
軽くピザでもというときには、コロンバス通りに面している小さな店、Osteriaへどうぞ。夜いくといつも並んでいるので、昼にいくといいかもね。コーラを注文すると、缶ごとストローと一緒にでてくるという感じで、まったく飾りのない店。でも、味も雰囲気も申し分ない。
絶対はずせないのは、プッチーニというカフェのデザート。コロンバス通りには、いくつもカフェがあるので、分かりにくいかもしれないけれど、ここのチーズケーキは絶品です。他にも、ティラミスとか、日替わりのケーキがあっておいしそうなのだけれど、ボクはあるとき偶然出会ってしまったここのチーズケーキの味が忘れられず、いつもそればかり注文してしまう。今回も行きましたが、以前とまったく変わってなくて、安心しました。店には、いつも見習い風の若い衆がいて、彼らが一生懸命なのも、とても好感がもてる。
ところで、ノースビーチには、ちょいわるオヤジたちがたくさんいるのです。夜、食事もデザートも済ませて、もう一杯だけ飲んで帰ろうかと、その辺のバーに入るでしょ。すると、いるいる、アメリカ版ちょいわるオヤジたち。結構お腹もでて頭も禿げ上がっているのに、どういうわけか、若い綺麗な女の子を連れて、ゆったりと構えて座っている。で、ライブ音楽が始まると、二人で踊りだすのです。それがセクシーで、格好いいんだな。ラテン系の強みなのかなあ。ああいう腰の動きは、われわれ日本人のオヤジたちには、真似できませんね、ちょっと練習してみたけど・・・

2006年02月09日

サンフランシスコ

明日からサンフランシスコへ出張です。なので、しばらくこの日記を更新できなくなると思う。ここまで快調に書いてきたので、中断するのはちょっと残念だけど、ま、しょうがないね。帰国したら、出張のご報告がてら、またペースを戻していくことにします。

さて、サンフランシスコ。ボク、大好きなのです。だから、どうも、「出張」なのに心がウキウキと踊ってしまう。♪I left my heart~~~in San Francisco~~♪目をつぶると、ほんとに、いくつもの坂が空につづいている光景が浮かんでくる。
世界のどこに住みたいかと聞かれて、自由に選べるんだったら、ボクの場合は間違いなくサンフランシスコと答える。人種や民族が多様で、活気があって、オシャレで、海に囲まれていて、料理が美味しくて、文化が栄えていて・・・、と、良いところをあげればキリがない。物価がちょっと安ければ、もう、いうことないんだけどね。
人生のある一時期、ボクは毎年、サンフランシスコを訪問することにしていた。その頃はまだ向こうに友人が多く住んでいたので、彼らを訪ねていったり、母校のスタンフォードに戻ってみたり、あるいはたまった仕事(執筆)をこなすために気分転換にいく、ということもあった。すると、どういうわけか、東京ではできないような面白い経験をすることができて、それが自分にとってかけがえのないエネルギーとなっているのが感じられた。
たとえば、ある年、友人に連れられて、飲茶ブランチへいったことがあった。そこには6~7人、ボクにとっては初対面の人たちがいて、紹介されることになった。新しくフランス料理店を開くことになったというご夫妻。サンフランシスコという街でレストランを開くことの苦労話をいろいろ聞かせてくれた。そのとなりには、香港からきているというご夫妻。ここで何をしているのですか、と聞いたら、「いや別に。この街を楽しんでいるだけ」という。会話をしているうち、ベンチャーに出資して大当たりして、もう働かなくてもよいくらいのお金持ちだということが判明した。「いまは、いろいろなところに半年ぐらいずつ住んで、最終的な居住地を決めているところなの」。へぇー、世界には、いろんな人がいるもんだなあと、そのときつくづく思った。そして、ボクの友人。スタンフォードの政治学博士号をもっているのに、政治学をさらりとすてて、画家になる勉強をしていた。で、その彼氏。シリコンバレーにある、会社の社長。彼氏というよりも、そのスポンサーかな。ね、面白いでしょう?こういう(日本ではそうお目にかかれないような)人たちと会うと、なんか日本の生活の中で溜まっていたストレスが、すーっと抜けていったのですよ。
当時、ボクはホテル日航を定宿にしていて、ボクの顔をみるとスタッフたちは「お帰りなさい」という挨拶で出迎えてくれた。もちろん、「ただいまー」って入っていくわけには、いかなかったけどね。
では、行ってきます。おみあげ(話)を期待していてくださいね。

2006年02月07日

市川団十郎

ついこの間、ボクの誕生日だったのだけれど、その時、ある方から、歌舞伎のDVDをプレゼントして頂いた。市川団十郎の「勧進帳」。もちろん団十郎は弁慶。富樫が中村富十郎、義経は尾上菊五郎という配役。

ボクは歌舞伎が大好きで、特に「勧進帳」を東京で演っているときは、必ず見に行くようにしている。しかも、現在活躍している役者の中では、団十郎さんの大ファン。このDVDをプレゼントしてくれた方は、ちゃんとそれを知っていて、選んでくれたのだ。あらためて、感謝、感謝。

さて、この団十郎さん、本当にすごい、と思う。ボクは、団十郎を襲名する前の市川海老蔵の時代も何度も観ていたのだけれど、ま、はっきりいって、その頃はあんまり好きではなかった。独特の声をしていて、それが耳について仕方なかった。ところが、団十郎を襲名した頃から、だんだん変わってきた。それまでは、耳について仕方なかったのに、しだいに、あの声を聞きたい、と思うようになったのだ。その上、いつのまにか、尋常ではないオーラが団十郎さんから出始めた。団十郎さんは、けっして背が高い役者ではない。しかし、見栄をきったり、にらんだりするときのスケールの大きさには、他の追随を許さないものをもっている。で、ボクは、ついに、あの声をきかないと歌舞伎を観た気がしない、団十郎さんが出てないと歌舞伎じゃない、とまで思うようになってきたのだから不思議なものだ。

もちろん、大名跡を継いで、団十郎さんが血のにじむように、精進に励んだことはいうまでもないだろう。日々稽古に稽古を重ねて、歌舞伎役者としての芸を極めていったのにちがいない。しかし、ボクには、どうもそれだけではない、というか、どうも逆ではないかと思えてならない。つまり、団十郎さんが歌舞伎を極めたのではなくて、(うーん、うまくいえないけど)歌舞伎が団十郎さんに近づいていったのではないか、歌舞伎の方が団十郎さんに引き寄せられ、飲み込まれてしまい、歌舞伎なるものが団十郎さんを軸にして新たに再構成されてしまったのではないか、そんな気がするのである。

なぜ、そんなことが起こりうるのか。そんなことがもし起こりうるとすれば、それはもう、芸とか技とかではなくて、魂の仕業でしかないに決まっている。いまの団十郎さんは、その点においては、本当に本当に稀有な役者さんなのではないか、と思う。魂のこもった振舞いは、人を動かし、何百年という伝統にでさえ新たな命を吹き込むことができる。一生のうち、一度でいいから、自分も、そんな仕事をしてみたいものだ。

2006年02月06日

関西

関西方面へ出張していて、日記更新が遅れてしまった。今月と来月にわたり、めまぐるしく海外へ出張しなければならないのでこれからもたびたび更新できないことが予想されるのだが、やっぱり、やろうと思い立ったことが途切れてしまうのは、あまり気分のよいものではないね。ま、気を取り直して。
ええと、今日は、その関西について。
まず、関西へ行っていつも思うのは、人が少ない、ということ。そういうと、すぐさま反論その①「ええっ、そんなことはない、梅田とか三宮とか、人がウジャウジャいるじゃん」(←なぜか横浜弁)が返ってきそうだが、ちがうんだな、コレが。どんなに混んでいても、首都圏のラッシュアワーのような混雑ぶりは、関西の電車ではいまだに経験したことがありません。やっぱり、東京の混み方は、ちょっと尋常ではない。「夜11時ごろの山手線、あれ、異常やでェ」と(関西弁丸出しの)久米先生がおっしゃるとおりだと思う。
今回は、神戸大学へ行ったのだが、そのキャンパスも昼間から閑散としていた。まだ試験期間中(みたい)だったので、学生たちがいなかったというわけではけっしてない。ただ単に、人口密度が低い、それだけのことなのです。ゴミゴミした早稲田からすると、実にうらやましいほど。大きな木も多いし、遠くに海は見えるし、あんなところで勉強できる学生さんたちは、まちがいなく恵まれている。ただ、夜になるとちょっと寂しいのではないかな、とも思うけどね。
それから関西へ行っていつも思うのは、関西人は背が低い、ということ。これに対しては、反論その②「はあッ?なにィ?それは偏見やでェ、関西バカにしたらアカンでェ」(←こちらはなぜか地元弁)が返ってきそうだが、関西の電車に乗ると、ホント、東京で電車に乗るより自分の身長がひときわ高くなった気がするのですよ。はて、でも、なぜだろう。東京では、ボクよりも背の高い若い男性の人口の比率が高いのかな。あるいは、東京周辺で、最近、外国人人口が激増しているせいかな。
あと、関西人、基本的に楽しい人が多いですね。新大阪駅の新幹線からの出口では、声の大きな女性駅員が元気に案内係を務めていて、もうそれだけでこちらの気分も明るくなってくる。お店に入っても、タクシー乗っても、フレンドリーな人多いしね。電車でも、結構、他人の子供や赤ちゃんに話しかけている場面を見かける。
実は、研究者たちについても同じことがいえて、ボクは、関西出身の政治学者たちが好きですね。なにせ、みんな、プレゼン能力が高く、面白い。久米さんもそうだけど、京都大学の待鳥さん、大阪市立大学の北村さんなど、発表のどこかで絶対笑いをとってやろうといつも(真剣に)考えている。そういえば、以前、ある学会のパネルでこの強力トリオと一緒に発表しなければならないときがあって、彼らのしゃべくり技術にまったく太刀打ちできず、悔しい思いをしたことがあったなあ。ま、しょうがないか、彼らには、吉本興業の血が入っているんだからね。

2006年02月04日

村上春樹

ボクの日記に村上春樹の名前が出てきてびっくりというコメントが何通かきたので、「へっ、なんで?」という感じだった。というのは、ボクは、大学時代、村上春樹を読みまくっていたからだ。

『羊をめぐる冒険』を読んだときのショックは忘れられない。この小説は、「新聞で偶然彼女の死を知った友人が電話で僕にそれを教えてくれた」という一文で始まるのだが、それだけ読んで「これだぁー、オレの待っていた小説は!」と感動した。人生の偶然性、人間の存在の社会性、(いわゆる「私小説」に満ち溢れている)自意識(過剰)の無意味性を、小説の冒頭でこんなに端的に表現している人はいない、と思ってしまった。

感動して、なんどもなんども読みふけっていたら、そのうち『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』が出版される、ということになった。で、この小説も読んでみたら、とっても感動した。ま、小説からすると、こちらの方が完成度が高い、ということになるのでしょうねえ・・・ちなみに、ボクは、この本の初版本をちゃんとゲットしているのです(えへっ!)。でも、実は、ボクは、『羊をめぐる冒険』の方が、やっぱり好きなんだな。

この『羊をめぐる冒険』と『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』との関係は、イーグルスの『呪われた夜』と『ホテルカリフォルニア』との関係に良く似ている。『呪われた夜』が出たとき、「すげぇー、これは傑作だな。これ以上のアルバムはつくれないだろうなあ」とか思ったものだ。そしたら、あっさり、『ホテルカリフォルニア』をつくっちゃうんだからね。でも、やっぱり、ボク、『呪われた夜』に対する愛着があるんです。「ハリウッドワルツ」、「アフター・ザ・スリル・イズ・ゴーン」、「アイ・ウィッシュ・ユー・ピース」、ああ、なつかしいなあ。

さて、村上春樹。ボクは大学時代、村上春樹を読め読めと、会う人ごとに薦めまくっていた。そのひとりが、ボクの先輩で、敬愛するMさん。この方は、プリンストン大学に留学していたのですが、偶然、そのとき村上春樹さんが同大学に滞在していたのでした。そしたら、このMさん、ちゃっかり、村上さんと友達になってしまったのです(!)。おいおい、ボクをわすれないでよー、ボクだったでしょ、村上さん紹介したの~~。というわけで、このMさん、村上さんと食事したりする仲らしいのだけれど、ボクは、村上さんと友達ではありません。

あと、ボクが大学時代読んだ小説といえば、夏目漱石、ドストエフスキー、国木田独歩、安岡章太郎、中上健次。評論では、小林秀雄、吉本隆明、柄谷行人、蓮實重彦、加藤典洋。小説とか、評論とか、政治学にあんまり関係ないと思うかもしれないけど、ボク自身は、実は、こういった人たちを読んでいたおかげで、いまの自分の思考の仕方とか、自分の文章の組み立て方があると思っている。読書は、できるときにしておかないとね。
あ、日がすっかり暮れてきた。散歩にでようかな。小さな波の音でも聴くために。

2006年02月03日

早稲田界隈のメシ処その2

ええと、きのうからの続きね。

カフェ125。ちょっと早稲田キャンパスには似つかない感じ(と、みなさん思いませんか?)のオシャレなカフェ。そうそう、そういえば、この前、テレビの取材が入っていたっけ。ここは、ほとんど毎日といっていいくらい、一日のどこかで立ち寄って、ブレンドコーヒーをテイクアウトしている。従業員さんたちはみんなボクがコーヒーに砂糖とミルクを入れることを知っていて、いうまえから先回りして入れてくれる。店がすいている頃を見計らって、ここでのんびり本をよんだり、採点をしたりすることもありますよ。
このカフェの良いところは、いろいろな学生たちに出会えること、かな。授業などで顔は知っているけど名前は知らないというような学生とは、なかなか話す機会が生まれない。キャンパスですれ違っても、そういう学生たちはお辞儀するぐらいだしね(お辞儀もしないで、わざと目をそらす人もいるけど、そういう人はこちらがそれに気付いてないとでも思っているのかなあ)。だけど、このカフェなら、そういう学生でも、結構気軽にこちらから声をかけられる。ところで、ここのベーグルは、かな~り、おいしいです。ボクはアメリカ留学時代にベーグルが大好きだったんだけど、日本でおいしいベーグルにはなかなかめぐり会わない。でも、ここのベーグルはホント、結構いけます。みなさん、ぜひ一度試してください。

五郎八。地下鉄の駅をあがってすぐのところにある。この界隈の蕎麦屋では、ボクは、ここが圧倒的に好きだね。一階のカウンター席の、木のカウンター自体が格好いいし、流れているジャズも心地よい。何を注文するかといったら、きざみ鴨せいろ。これは、ヤミツキになりました。冷たいお蕎麦を、ちょっとあたたかいつゆ汁に浸して食べる。その汁のなかに、きざんだ鴨肉と葱がはいっているのです。最後は、もちろん蕎麦湯を入れて、その汁を最後まで飲む。値段も高くないし、週に一回は通ってます。

すず金。これは、現在改装中のうなぎやさんです。ボクは、健康を考えて、毎週うなぎを食べるようにしているので(うなぎをたべると必要なミネラル類が一週間分取れると聞いたから)、ここは(改装前は)よく行った。はやく、再開しないかなあ。渋谷や銀座で食べるよりもうーんと安く、しかもおいしいうなぎだったので、この店がやっていないのは、ホント困ったものだ。

楠亭。ご存知、早稲田の教員食堂。学生たちにとっては、あまり馴染みがないかもね。入ってみたい人は、だれか先生と仲良くなって、つれてってもらうしか、ないんだろうね。ここは、リーガロイヤルホテルが入っている(←多分)ので、この種の食堂としてはリーズナブルなランチが出てくる。ここの良くないところは、なにせ、同僚がたくさんいるので、「めったな話」ができないこと。えっ?「めったな話」って何かって?そんなの、決まっているでしょうに・・・

2006年02月02日

早稲田界隈のメシ処

よく学生たちに、どこでランチするのか、と聞かれる。そこで、いくつかボクのよくいく店を紹介しよう。あ、そうそう、今日は、早稲田界隈の話ね。より広く、東京や(いまボクの住んでる)横浜のお気に入りレストランについては、またいつか日を改めて、ということで・・・

高田牧舎。早稲田周辺の食事処としてはめずらしくゆったりとしたスペースでテーブルが並んでいるのが心地よい。オーナーの藤田さんとは、3年前ボクが早稲田に赴任して、すぐ仲良くなった。その頃ボクはフットサルを毎週金曜の夜にやっていて、ある日その話をしていたら、藤田さん、自分も行きたいと言い出した。それで彼もフットサル仲間に加わったのでした。もちろん、彼の方がずっと若いし、ずっとうまいですよ。ここ一年、ボクは忙しくて行けないのに、藤田さんは毎週行っているみたい。
で、この高田牧舎、早稲田の先生だと、ツケが利くのです。ツケの利く店があるって、なんか、いいよね。なんか自分が特別な存在になったような気がして、自慢したくなる。えっ?ツケって、どういうシステムなのかって?現金で払わずに、小さな所定の紙に自分の所属学部と名前を書いて出てくる。すると、その集計した金額が大学からもらう給料から毎月引かれるというシステムになっている。実は、昨日も一昨日も、ここでお昼を食べました。Bランチの和定食。おととい店にいったら、ちょうどゼミ論文を提出にきていたゼミ生4人がいて、そのうち前田君がこの和定食を食べていた。豚汁がおいしそうだったので、迷わずボクもそれを注文。実際おいしくて、きのうも続けて同じものを食べてしまった。あと、ここはメンチカツがとびきりおいしい、ジューシーでね。

トキワ。ここも、ボクの研究室からだとすごく近い。いま早稲田の大学院からコーネルに留学している遠藤君に、はじめ何回か連れて行ってもらった。遠藤君はポークジンジャーがお気に入りだったけど、ボクはカツカレー。学期中は、毎週一回は行くかな。ここのマスター、ホント、元気が良くて、礼儀正しくて、よく働いて、話題も豊富で、素晴らしい。ここで食べて出てくると、「ウン、世の中すてたもんじゃない」という気分になるのです、ハイ。

北京。ゼミ生たちをよく連れて行く中華料理屋さん。昼時は、一般の早稲田関係者ではないような人たちも、たくさん食べていて、いつも活気あふれている。ここでのボクのお気に入りは、かた焼きそばとタンメン。どちらも野菜がいっぱい入っている。疲れたり風邪を引きかけたかなと思うような時は、そのどちらかを注文して、さらに半餃子をつけたりする。すると身体の抵抗力が増すような気になるのです。そうそう、「病は気から」って、本当なんだよね。こう考えると、この店、ボクの健康管理の上で、かなり重要な役割をになっているんだなあ。 

2006年02月01日

日記開始宣言!

学生たちにそそのかされて、日記を書くことにした。一応これでも文章を書くことをナリワイにしている人々の端くれにいるので、定期的に書くのは訓練にもなるし、日々浮かんでくるアイディアの記録をとっておくのもあとでなにかの役に立つかなとも思うし・・・ま、いつまで続くか、わかんないけどね。

最初なので、今日は日記のタイトルについて。ボクは、週刊誌もテレビもほとんど見ないので、こういう流行語に弱いのだが「ちょいわるオヤジ」というこの言葉は、ゼミの学年末納会(つまり飲み会←大学関係者でない読者を想定した注)の時に、学生たちに教えてもらった。ネガティヴな表現なのかと思ったら、褒め言葉なんだってね。学生たちは、そういってボクを褒めてくれたわけだ。ただの「オヤジ」だったら嫌だけど、その前に「ちょいわる」がつくといいらしい。

で、なんでボクが「ちょいわる」なの?いろいろ聴いたけど、こういうのはイメージとかセンスとかの問題だから、決まった答えがあるわけではもちろんない。ただボクの場合は、授業をふつうの服装でする、どうもそれがひとつの要因らしい。「ジーンズと革ジャンで教壇に上がる先生なんて、うちの学部、そういないッスよ。」そうかなあ。そんなことはない。経済の清水(和巳)さんとか栗山さんとか、結構普段着をオシャレに着こなす先生たちは多いと思うよ。

ほかの人はともかく、ボクの場合、スーツにネクタイという格好で授業をしないのは、ま、スーツやネクタイを買うお金がないという現実の問題もあるけど、ボクなりに教育効果を狙っている、というところもある。村上春樹の初期の短編(「象の消滅」『パン屋再襲撃』所収)に「僕の個人的な意見はネクタイをはずさないと出てこないんです」という名セリフがあるのだが、格好というのはコミュニケーションの場を規定してしまうから、気を使わなければならない、とボクは思っている。だって、こちらがいかにも大学教授という格好で上から押し付けるような物言いで授業したら、学生たちはぼんやり聞いているだけになるでしょ。学生たちのオリジナルな思考を育みたい、すこしでも「一緒に考えようよ」ってメッセージを伝えたいなら、自分と学生が同じステージにいることを演出しなくっちゃね。それにね、毎回同じようなスーツとネクタイだったら、学生たちはそれだけで飽きちゃうよ。「先生今日はどんな服着てくるかな」ということをちらりとでも思わせたら、その時点ではこちらの勝ち、だって「ツカミ」に成功しているわけだからね(←ちょっと大げさ)。

さて、ちょいわるオヤジ。学生たちに、芸能人では誰がそれに当たるのか、と聴いたら、いろいろ名前をあげてくれたが、ボクのしらない人ばっかりだった。「矢沢永吉ってのはどう」とこちらから聞くと、「あれは、チョイちがいます。あれはチョイワルではなく、セクシーですから。」そうか、上には上があるんだ・・・ちなみに、ちょいわるオヤジの女性版は「アデージョ(艶女)」です。飯島先生、知ってました?