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2006年10月17日

西澤家にて蕎麦を打つ

先週末、同志社大学で会合があった帰りに、西澤先生のお宅を訪問した。
西澤先生は、イェール時代のボクの先輩である。どちらかというと、しっちゃかめっちゃかな人生を送っているボクを、奥様ともども、いつもやさしく見守ってくれている。いやはや、感謝の言葉もない。
いつも通り今回も暖かくアットホームなもてなしをしてくれたのであるが、翌日曜日には、ナント、ナナナント、蕎麦を打つことになった。活動的な奥様は、とっくに出かけている。もちろん、お子様たちは、それぞれの用事でいない。というわけで、そう、ボクと西澤先生の二人で、お昼用の蕎麦を打つことになったのである。
西澤先生は、前にも何度か経験があるらしい。
「外国からのお客さまが来ると、喜ぶんですよ」。ふんふん。
「粘土みたいなもんでね。子供の頃にかえった感じで楽しいんですよ」。なるほど。
「それにね、自分で作るから、まずくても文句いわれないでしょ」。←???
このあたりの発言に、西澤先生独特の合理的ユーモアを感じる。
まず、石鹸で手を爪の中までよく洗う。次に、蕎麦打ち用具5点セット、すなわち板と臼と棒、それに包丁と包丁に合わせて使う木片(←専門用語があるのだろうけど知らない)をおもむろにテーブルの上に広げる。
テキストは、ベターホーム出版局の『初めて打つ蕎麦・うどん』。これをちらちらとみながら、慎重に粉の量に見合う水を用意する。
蕎麦打ちは、水の量が命である。こねながら、すこしずつ水を足していく。ボクもこねるのを手伝う。「手際よくやってください」とテキストに書いてある。時間をかけると、乾いた部分ができてしまうからで、一度乾いてしまうとあとから水を足したりすることはできない。ここが全工程の中でおそらくいちばんむずかしいところである。それから、「パンを作るように伸ばしてはいけない」と書いてある。あくまで、内へ内へとこねていくのである。
艶が出てきたところで、今度は薄っぺらに伸ばす。これは、西澤先生に任せた。
そして、いよいよ蕎麦を切る段になる。ここは、ボクの出番である。
木片に包丁をあわせ、ストンと落とすように切る。包丁をほんのわずか斜めに倒し、その圧力で1ミリ程度木片が動く。そしてまたストンとやる。これを繰り返す。案外、慎重になりすぎると、太さが一定に切れない。リズムにのってやるのがコツである。悦に入って、神田まつやの主人になった気分であった。
自分で打った蕎麦は、たしかに美味しかったです。
西澤先生、どうもごちそうさまでした。
えっ?では、うちでもやるかって?実は用具5点セットを見たときは、いいなあ、うちでも揃えてみようかな、という気になりました。しかし、やってみると、かなり労働集約型作業だということがわかりました。そうねえ、たしかに客人をもてなすにはいいかもしれないが、自分ひとりでやるかといわれると、どうかなあ・・・。
ところで、なんで蕎麦を「打つ」というんですかね。行き着けの、早稲田の蕎麦屋の主人にこの前聞いたら、「私も知りません、今度調べておきます」だってさ。オイオイ、大丈夫かなあ。

2006年10月10日

Seinfeld

知っている人は知っているが、ボクは将来シナリオライターになりたいという夢をもっている。半年間、表参道にあるその筋のスクールに通ったこともある。毎週課題を提出して、添削もちゃんと受けた。なので、一応、シナリオの書き方の最低限のルールは知っているつもりである。あとは、時間さえあればなあ・・・。うん、ホント、時間さえあれば大作が書けるのになあ・・・。ま、早稲田に就職している限りは、そんな時間に余裕のある生活なんて、どう考えてもできそうにないけどね。
さて、ボクの書きたいシナリオは、コメディーである。ボクは、以前から、日本のコメディーは、ドタバタや会話の妙で笑わせるものばかりで、ストーリーの展開で笑わせるものがないという不満を持っている。それに比べると、アメリカのテレビのシットコムは、本当によく考えられている。ボクのお気に入りは、Cheers、Mad about You、Will and Grace、そしてFrasierなどなど。実は、ボクのうちには、これらのDVDが買い揃えてある。「勉強」のつもりで、ときどき見ては、笑わせてもらっている。
しかし、中でも圧倒的に好きなのは、Seinfeldである。このシットコムは、Jerry SeinfeldというコメディアンとLarry Davidというプロデューサーの手による傑作である。これまでのところ第6シーズンまで、DVDが発売されている。もちろん、北米にいけば、いまでも再放送を見ることができる。
Seinfeldが他のコメディーと違うのは、ばかばかしさに徹しているところである。Cheersにせよ、それを受けて作られたFrasierにせよ、どこかウエットな部分を持っている。家族や恋愛問題、あるいは老いることについてのメッセージがあって、ちょっと考えさせたあとで笑わせるという仕掛けが見え隠れする。またMad about Youには男女のあいだの平等に関しての、さらにWill and Grace にはゲイに対する差別とかに関してのメッセージがあって、どこか現代社会を風刺してやろうという思惑が見え隠れする。Seinfeldには、そのような仕掛けや思惑が一切ない。もう最初から最後までばかばかしいストーリーの展開があるだけである。これぞ本物のコメディー、コメディーとはかくあるべしというようなコメディーなのである。
アメリカの知識人でSeinfeldを知らない人はいない。Seinfeldを囲む3人の友人George、Elaine、Kramerという登場人物が誰なのかを知らない人もいない。ボクは、Seinfeldなしに現代アメリカ文化を語ることは不可能であると思う。実際、このコメディーについては、まともな政治哲学者が研究書まで出しているほどである。
Seinfeldは、英語の慣用句を新たにいくつも世に送り出したことでもユニークである。これらの慣用句は、いまでは会話の端々に普通に使われている。yada yada yadaとか、Master of Domainとか、sponge-worthyとか。こうした慣用句の多くはセクシャルな意味合いを持っているので、カクテルパーティなどで隠語として使えて、とても便利である。首相になった安倍さん、訪米する前にいくつか覚えて行ったらどうですか?ウケると思いますよ。

2006年10月01日

リユニオン

ゼミの一期生と二期生がうちに集まった。
みな忙しいので、全員というわけではなかったが、10名ほどで楽しい時間を過ごした。
彼らは、卒業してからずっとうちに遊びに来たいといっていたので、ようやくそれが実現できてよかった。前の日から、大きな鍋でカレーを煮込んでおいて、それをメインにした。あとは、野菜サラダとパスタサラダを作った。みんな、おいしい、おいしい、といって食べてくれた。まあみんな、本当によく食べること・・・。冷蔵庫はすっかり空になった。
彼らから、いろいろなことを言われた。
「先生、相変わらず、若いですね」←これは嬉しい。
「でも、ちょっと白髪増えましたね」←じゃかあしい。
「結構オシャレなところに住んでますね」←さんきゅー。
「インテリアとか、ご自分で選んだんですか」←失礼な、オレにセンスがないとでもいうのか。
正直言うと、卒業したら学生たちはボクのことなんか忘れてしまうのではないか、と思っていた。だから、彼らがボクをいまでも慕ってくれるのはとてもうれしい。でも、卒業したら、やはりどうしてもかつてのようには、緊密に連絡を取り合うことができなくなってしまう。もしかしたら、いつかボクのことを忘れてしまう人も出て来るだろうと、やっぱり思う。
でも、それでいいのである。
ルイ・アームストロングが歌うように、ボクは彼らが成長するのを見守ることしかできない。彼らはこれからたくさんのこと、ボクがいま知っている何十倍、何百倍のことを学んでいくのである。
ボクは、たしかに、彼らの若かったある一時期に、多少彼らの人生に影響を与えたかもしれない。しかし、ボクが彼らの人生にこれからずっと影響を与えられるような存在であるわけがない。
重要なのは、彼らがもうすこし年を取ったときに、今度は立場をかえて、彼ら自身が次の若い世代に自分の経験や理想を語っていく責務を負うということである。そのとき彼らも、きっといまのボクと同じ心境に達すると思う。そうして、時代が変わっても、素晴らしい世界が続いていくのである。
いや、だからって別に、ボクのことを忘れろなんていってるんじゃないですよ。
いや、というか、もし君たちが偉くなって、日経新聞の裏面の交遊録にボクの名前を出してくれたら、それはきっと嬉しいと思うよ。それから、君たちが成功して会社つくって、ボクにその「社外取締役」に就任して下さいなんていうリクエストをもってきたら、きっと大歓迎するだろうねえ。とくにボクの定年の頃にそういう話を持ってきてくれるとありがたいんだけどなあ。
あ、そうそう、もちろん、おいしいワインとチーズをもって、先生今夜いっぱいやりましょうよ、とブラリと訪れてくれるのも、とっても嬉しいかも・・・。
みなさん、また会いましょうね。