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変わること、変わらないこと

この1ヶ月の間に、ボブ・ディランとローリング・ストーンズのコンサートに行ってしまった。ストーンズは、なんと、二度も行ってしまった。別に音楽に能書きなんていらない、と思うかもしれないけど、ボクは、いろいろなことを、考えさせられてしまった。
まず、ストーンズ。ミック・ジャガーって、「この人、ふだん、何食ってるんだ?」ってうなるほど、エネルギッシュなステージだった。70歳ですよ、この人。にもかかわらず、2時間半(2曲だけキース・リチャーズにヴォーカルを任せた以外は)、ステージの端から端までを、ずっと走り回っていた。で、絶対に、息が切れたなんていうそぶりを見せない。エンターテイナーとしては完璧。すごい。ミック・ジャガーを生で見たせいで、ホント、次の日から、ボクは駅の階段を2段飛びするようになったもんね(あはは)。
キースも、素晴らしかった。ボクが行った二回目は、布袋寅泰が飛び入りで参加したのだが、その布袋のテクニックあふれる演奏に対して、キースはジャラーンと、一つのコードを鳴らすだけで、ステージを自分の方へ「持っていって」しまった(ボクと一緒にいったT・Y君の評)。年期が違うというか、何なんだろうね、こういうのって。やっぱり世界を相手に生きてきた「人生の重み」みたいなのがモノをいうっていうのか、「技術」が「経験」にかなうわけないだろ、ってところを見せつけていた。
さて、一方のディランだが、彼のステージはストーンズと真逆。ストーンズは、「♪Its only rock ’roll, but I like it♪」を、ずーっと、ずーっとやり続けている、つまり「変わらない」ことが真骨頂なわけだけど、ディランの場合は、まったく逆に、一回たりとも、同じステージはみせるものかというポリシーを、意固地なまでに守り通している。最後のアンコールの「風に吹かれて」なんて、これまで何百回と演奏しているのに、おそらく一回も同じではないのではないか。これも、プロとして、完璧。不断に「変わる」こと、つまり常に何からも「自由」であることが、ディランの存在意義なのであって、だから、歌もヘタクソ、ピアノの腕なんか素人同然なんだけども、でも「オレは、絶対、何からも拘束されるもんか、そう、過去の自分(の栄光)からも拘束されるもんか」というメッセージが、ひしひしと伝わってきた。だから、ディランのステージは、(エンターテイメントとしての)音楽性なんかどうでもよくって、人間性そのものが前面に押し出されていたのであった。
で、ボクには、ずっと気になることがあった。ディランの魅力は、いうまでもなく、その歌詞、つまり詩にある。ところが、今の彼のボソボソと唄う唄い方では、会場にいた日本人の9割は、その意味を理解できるわけがない。では、いったい彼は、なんで日本でこれだけ多くのコンサートを開くのだろうか。ディランは、「この目の前にいる日本人は、オレの詩なんかわかる分けない」と思っているに違いないのである。でも、日本でコンサートを開く、その彼のインセンティヴは何なのだろうかと、ボクは考えていたのである。
その答えを、今回、ちょっとだけ、かいま見ることができたような気がした。それは、ディランが一曲目に選んだ曲にヒントがあった。それは、Things have changedという曲で、そのサビの部分は、次のフレーズが繰り返される。

I used to care, but things have changed.

そう、昔だったら、ディランは、自分の詩のメッセージが聴く者に届いているかについて、I used to careだったのだろう。でも、自分は変わった、もうdoes not careになった。なぜか。それは、やっぱり、自分のメッセージが届こうが届くまいが、自分は自分の好きなようにやらせてもらうよ、ということなのだと思う。ここには、生きざまとして、まぎれもなくendlessly free soulがあるのである。