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2007年10月31日

Douglass North先生

ノーベル経済学賞を受賞されたノース先生が早稲田を訪れた。
成田で出迎えたのは、ボクであった。
80歳をとっくに超えていらっしゃるのに、まったくそんなことを感じさせない。
「すこし空港でお休みになってからいきますか、それともすぐにホテルの方へ向かいますか」と尋ねると、「いや、すぐに行こう。あとをついていくから、さあどんどん行ってくれ」とおっしゃる。で、タクシー乗り場まで行き、タクシーに乗った。エレガントな奥様が同行されている。
ボクはノース先生と10年ほど前に一度だけ、言葉を交わしたことがある。真摯にボクの質問に答えてくれたので、そのときボクはとっても感激した(このことについては『制度』のあとがきに書いた)。で、そのことを話したら、それをきっかけにして会話が弾むようになった。共通の友人や知り合い(ボクのかつての先生たち)も結構多く、話題が尽きないうちになんとかホテルまでたどり着くことができた。
で、その次の日からの彼の行動といったら、本当にすごかった。
やはり超一流の人は違う、ということをまざまざと見せ付けられた。
まず、どこからわいてくるのだろうという体力。時差ボケなどまったく影響なかった。
次に、これもどこからわいてくるのだろうという知的好奇心。どんなささいな、学問と関係のない話にも、ちゃんと食いついてきた。
それから、底抜けの明るさ。宴席では、大きな声で笑い、人の肩をぽんぽん叩いてはしゃいでいた。
そして、最後に、頭がさがるほどの気配り。院生たちのポスター発表をひとつひとつ回って、じっくり耳を傾けコメントしていた。もちろん、自分がそうすることでいかに若い研究者たちが励まされるかを自覚してのことである。その姿には、ジーンときた。けっして偉ぶらないで、何かにつけ「君の意見を聴こうじゃないか」とおっしゃっていた。そういえば、講演会場で、ボクが「先生の意見には大方賛成なんですが・・・」と質問を切り出したら、間髪をいれずに「意見が一致しないのはどこなのかね」と逆に催促されてしまったのには笑った。
今回の来日中、かなり個人的なお話をうかがえるまで、親しくさせていただいた。
本当に光栄なことである。ノース先生自身の了解をとってある範囲で、いくつかエピソードを披露すると・・・。
まず、先生は、朝ごはん以外の食事には、赤ワインを欠かさないのだそうである(自分には4分の1イタリア人の血が入っているのだと、あたかもそのことが正当化の理由であるかのようにおっしゃっていた)。それから、毎日午後4時半になると、バーボンを一杯飲む。大学キャンパスまでは、1マイル半の道のりを、行き帰り歩く。執筆するのは午前中で、普段午後からは読書に費やす・・・。
話を聞いていてつくづく思ったのは、とても規則正しい生活をなさっている、ということであった。
久々に、すごい人、いや本当にすごい人と会った。

2007年10月02日

最近のトンチンカン発言

時津風部屋で若い力士が亡くなった。相撲ファンとしては、大変悲しい。いまの相撲協会の後手後手の対応ぶりをみると、もしかして、このようなことがほかにも行われていたのではないか、ほかの部屋でも同じようなことに加担した力士がいて、そういうやつらが堂々とというかしらじらとというか、われわれの見ている前で神聖なる相撲の土俵に上がっているのではないかという疑念を抑えることができない。はっきりいって、もう相撲は見る気がしない。アンタ方は知っているのか、相撲が国技であることを・・・。あの愛子さまだって、楽しみにしてるんだってことを・・・。
で、今回の時津風部屋の事件について、多くのマスコミは、死んだ原因が「通常の稽古」とみなせる範囲だったか、それともそれを超える「暴行」だったか、という問題のたて方をしていた。ボクにいわせれば、この問題のたて方は、トンチンカンもいいところである。「稽古」であろうがナンであろうが、その結果としてひとりの人間の命が奪われた以上、傷害致死であり、「暴行」に決まっているではないか。相撲における稽古というのは、力士をいまよりももっと強くするため行われるものである。しかるに、ここには強くなった力士は存在しない。彼は、強くなるどころか、死んでしまったのである。だから、時津風部屋で行われた行為は、ことばの定義上、稽古ではない。そんなこと、あったりまえではないか。
さて、次。沖縄戦における「集団自決」での日本軍の関与についての記述が教科書検定で削除された問題で、文部科学省は、記述の修正の検討を始めたそうである。町村信孝官房長官いわく、「教科書検定には政治が関与しないということを踏まえないといけないが、沖縄の人たちの心や痛みをしっかりと受け止めて、何ができるか、文部科学省に考えてもらっている」。・・・???・・・。これって、ナニ???いまの教科書検定の制度自体、政治の関与であるということを、知ってておっしゃっているのか、それともまさか知らないでおっしゃっているのか。いずれにせよ、どうしようもなくトンチンカンな発言で、怒るどころか、笑ってしまった。
しかし、極め付きは、三番目。それは、海上自衛隊の給油に関連し、それがイラク作戦向け艦船へ転用されているのではないかという疑惑に対する政府の説明である。平たくいうと、転用された事実を認めつつも「どこに転用されているかは知りません」という主旨の開き直りであった。ボクは、こういうのを「悪意の善意性」と呼ぶことにしている。この論理が通るのであれば、最近社会問題化している「闇サイト」を運営している連中の論理だって、同じようにまかり通ってしまうことになる。つまり、「サイトでどういう情報が交換されているか、一切知りませんし、関知しません」という論理である。闇サイトでは、犯罪に関わる情報が提供されている。そういう事実があるかもしれないということを予感して、「善意」すなわち自分は「知りません」という態度をとる。しかしだね、ここには、善意を装う動機そのものが、悪意であるという構造が、疑いなくあるじゃあないですか。こんな論理を正々堂々と、あるいはしらじらと言ってのけて、それでもまあ大丈夫だろうなんて思っているところが、いまの日本の政治家たちの限界だね。