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    <title>早稲田のちょいわるオヤジ日記</title>
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    <title>政治家のサブスタンスとジェスチャー</title>
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    <published>2012-05-13T01:53:59Z</published>
    <updated>2012-05-13T01:56:22Z</updated>
    
    <summary>（ビル）クリントンは、当時現職であったブッシュ大統領を破って当選し、42代のアメ...</summary>
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        （ビル）クリントンは、当時現職であったブッシュ大統領を破って当選し、42代のアメリカ大統領となった。クリントンは、選挙戦で必ずしも最初から有利だったのではない。しかし、彼の勝利を決定的にしたと言われているひとつの場面がある。それは、第２回目の討論会で、観客から質問を受け付けたときの、二人の反応の違いである。
その場面は、いまyoutubeでみることができる。４分あまりのクリップなので、関心があったら見て頂きたい。英語がわからなくても、二人のボディランゲージを見るだけで、ボクが言おうととしていることは、伝わると思う。

http://www.youtube.com/watch?v=7ffbFvKlWqE

質問者は、「財政赤字は、あなたがた二人の生活に、どのように影響したのですか」と尋ねた。もし、財政赤字が個人的な影響を及ぼしていないなら、あなた方がどのような政策を掲げたところで、この問題を解決できるとは信じられないではないか、というわけである
この質問に対し、ブッシュはまず一般論ではぐらかそうとするが、司会者が「いや、質問は、あなた個人が、この問題でどのような影響を受けたのか、についてです」とツッコミを入れる。しかし、それでもうまく答えられず、結局ブッシュはいらいらしてしまい、「質問の意味がわからない」という態度をとってしまう。
続いて、答えに立ったクリントンは、何をしたか。
映像を見て分かるとおり、クリントンはゆっくりと質問者の方に近づいていく。そして、ブッシュよりも、はるかにその質問者との距離を縮めておいて、その質問者に個人的に語りかけるように、答え始める。いかに財政赤字という問題が、自分に個人的に影響を及ぼしたのかを、である。この瞬間、クリントンは、このテレビでの映像を通して、多くの（それまでどちらに投票しようか迷っていた）国民の心をつかんだのだ、といわれている。
政治家は、いかに中味の素晴らしい政策を掲げたとしても、国民からの信頼がなければ、その素晴らしい政策を受け入れてもらうことができない。このブッシュ＝クリントンの討論会の一場面は、それをきわめて見事に物語っている。
ひるがえって、日本の話。（ツイッターにも書いたが）今朝のNHKの日曜討論では、「一体改革」について、素晴らしい議論が展開されていた。サブスタンスは、そういう意味で、非常によかった。しかし、民主党の責任者である藤井裕久氏が、野党の質問や意見に対して（カメラアングルのせいかもしれないが）いつも「そっぽ」向いているようにみえた。このような態度をあからさまにみせてしまうことが、いかに国民の支持を勝ち取るうえでマイナスか、この人はまったく気づいていないようであった。
政治家にとっては、サブスタンスとともにジェスチャーも重要である。日本の政治が悪く言われる大きな原因のひとつは、このことに敏感な政治家が少ないからだと思うのである。

        
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    <title>政治家とプライベート情報</title>
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    <published>2012-04-29T22:36:47Z</published>
    <updated>2012-04-29T22:40:16Z</updated>
    
    <summary>ブログでも、（最近始めた）ツイッターでも紹介した、ボクのお気に入りのShield...</summary>
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        <name>河野勝</name>
        
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        ブログでも、（最近始めた）ツイッターでも紹介した、ボクのお気に入りのShields and BrooksというPBSの番組の中で、政治家と有権者との関係について、ブルックスさんが興味深い分析をしていた（http://www.pbs.org/newshour/bb/politics/jan-june12/shieldsbrooks_04-20.html）。
ご存知かと思うが、共和党の大統領候補ミット・ロムニーは、しばしば、有権者と「connect」していない、と批判されている。メッセージが伝わってこないとか、何を考えているかまったくわからない、という意味である。その理由として、彼がものすごい大金持ちであるということ、あるいは彼がよく意見を変える人（flip-flopper）であることがよく指摘される。しかし、ブルックスさんは、その最大の原因は、彼が自分の生い立ちについて、家族について、語らないからではないか、といっている。彼の父親は、メキシコからの移民であり、また彼はモルモン教の信者である。こうした部分を語ることが、もしかすると共和党という保守政党の候補としては、マイナスに働く可能性はもちろんある。しかし、これらの、いってみればプライベートな部分について語らないがゆえに、彼はいつまでたっても有権者とconnectできないのではないか、とブルックスさんは分析するのである。
ひるがえって、自分のことを考えてみる。ボクがそもそもブログを始めたのは、ゼミ生たちに、自分のプライベートな部分を少し（もちろん全部ではない）見せることによって、文字通り彼らとconnectすることができるのではないか、自分が授業で伝えたいメッセージとか自分の考え方のようなものが通じやすくなるのではないか、という動機からであった。
そして、最近になってボクがツイッターをはじめたのも基本的には同じであり、すこしずつではあるが新聞やテレビに出させて頂くようになったので、読者や視聴者の人にボクという人について若干情報量を増やすことで、connectionがうまくいくのではないか、と思ったからである。
もういちどひるがえって、日本の政治家たちのことを考える。橋下さんがいま人気があるのは、彼が自分の人間性（たとえばけんかっ早いところとか）をちらりとみせているからではないだろうか。かつて小泉さんが絶大な人気を誇ったのも、「なんとか」の一つ覚えのように、郵政民営化、郵政民営化と繰り返して、この人本当に「なんとか」かもしれない、あるいはこの人やっぱり変人だわと、有権者に思わせるような演出に成功したからではないだろうか。そして、いま首相である野田さんが一時期支持率を高くできたのも、自分をどじょうにみたて、ルックスにある種のコンプレックスをもっていることをちらりと垣間見せたからだったのではないか。垣間見せた内容が重要なのではない。（なんでもいいから）垣間見せることによって、有権者がその人を知った気になり、安心する、という効果が重要なのである。
ここには、プライベートな情報を信憑性をもって公開すると、公開した側が大きなアドバンテージを握れるという（どこかで聴いたことのあるような）法則が働いているように思える。しかし、話はそう単純ではないかもしれない。というのは、政治家が、本当に自分のプライベートな部分を見せている、とはどうしても思えないからである（というか、人間はだれでも、本当に自分のプライベートな部分を公開するわけがない）。つまり、有能な政治家は、こうした演出を演出として、演じきっているのであり、ある意味で、有権者はそのような演じきる能力を評価しているのかもしれないのである。

        
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    <title>小沢判決と検察審査会制度について</title>
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    <published>2012-04-28T07:39:57Z</published>
    <updated>2012-04-28T07:44:55Z</updated>
    
    <summary>小沢判決とそれについての報道やコメントから、いろいろなことを考えさせられた。まず...</summary>
    <author>
        <name>河野勝</name>
        
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            <category term="コンセプト" />
    
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        小沢判決とそれについての報道やコメントから、いろいろなことを考えさせられた。まず身近なところからいくと、今日付け（だと思う）の朝日新聞に、「小沢氏無罪、司法改革にも影響　議論進む可能性」という見出しの記事があり、それは次のような書き出しで始まっていた。

小沢一郎・民主党元代表を無罪とした２６日の東京地裁判決は、検察審査会という「民意」によって強制的に起訴される仕組みや、検察改革で進む取り調べの録音・録画（可視化）のあり方をめぐる議論に影響を与えそうだ（後略）

この後段部分はさておき、前段部分は、検察審査会をめぐる大きな誤解を象徴していると思った。検察審査会は、たしかに制度全体としては「公訴権の実行に関し民意を反映させてその適正を図るため」（検察審査会法第１条）のものである。しかし、各事件について設けられる個々の審査会は、それぞれ審査員11人で構成されるだけであり（同第13条）、その11人というごく少数の人たちが「民意」を代表しているなどと考えることはできない。小沢氏は、民意ではなく、あくまで（検察審査会もその一部である）司法制度によって起訴されたのだ、と考えなくてはならない。
検察審査会に批判的な人たちが快く思っていないのは、民意の影響ではなく、一般の人々、すなわち素人の集団が司法過程の中で重要な一コマを担っているという点である。ボクは、こちらの方の問題は、十分に議論してしかるべき問題だと思う。民主主義は政治の決定を素人に託すシステムである。しかし、それゆえに、民主主義はしばしば少数派や個人の権利を踏みにじる決定をする。多数派の暴挙に対する最後の防御として司法の救済を位置づけるとすると、司法過程を特別な能力と知識をもった専門家に任せるべきだ、という意見は十分に説得力をもつ。
ボク自身は、前にも違う（裁判員制度の導入についての）文脈において述べた通り、一般の人々が司法のプロセスで役割を果たすことを基本的によいことであると思っている（http://kohno-seminar.net/blog/2009/05/citizenship.html）。しかし、そこに問題もないわけではない。たとえば、陪審員制度を採用しているアメリカにおいて、同制度についてよくなされる批判のひとつは、プロの裁判官が、一般の人々が判決を下すための制度上の「案内役」に徹っする一方で、自分自身、判決を下すことについてまわる重い責任を負わない制度に変質してしまっているのではないか、ということである。似たような問題は、一般の人々が参画するすべての司法制度についても生じる可能性があると思う。
もしも、日本でいまのような検察審査会制度がなかったならば、プロである検察は、いってみれば、つねに背水の陣で、すべての事件に取り組まなければならない。しかし、いまの制度のもとでは、自分たちが起訴できなかったとしても、次なる手段として素人の検察審査会による起訴の可能性が制度的に担保されている。そのことを勘案して彼らの仕事ぶりに悪影響が出る、ということはないのだろうか。もしも、検察審査会制度があるがゆえに、プロが戦略的に振るまい、難しい案件を徹底究明せずに素人に任せがちになるという傾向が生まれるとすると、それはまったく望ましいことではない。
制度の構築は、しばしば「予期せざる帰結（unintended consequences）」を生む。それでも、そうした帰結を予期しようとする努力は、不断に続けていかなくてはならない。

        
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    <title>小沢さんの影響力</title>
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    <published>2012-04-24T15:16:57Z</published>
    <updated>2012-04-24T15:27:32Z</updated>
    
    <summary>26日に判決が予想される小沢さんについて、コメントして下さいといわれたので、考え...</summary>
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        <name>河野勝</name>
        
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        26日に判決が予想される小沢さんについて、コメントして下さいといわれたので、考えをまとめてみます。
まず大前提として、小沢さんという人は非常にスタンダードなというか、わかりやすい行動をする政治家だと、ボクは基本的には思っています。彼は自分のおかれている境遇、自分に与えられている試練、すなわち自分に与えられているすべての素材を、ポジティブなものであれ、ネガティブなものであれ、すべて将棋の持ち駒のように、あるいは碁石の配置のようにとらえて、その時々で最適な戦略を取るということを、いつでもつねにしている人です。
さて、目下のところ（というか、このところずっと）小沢さんが直面している戦略上の選択肢は、究極的には単純な二者択一で、すなわちそれは既存の民主党をのっとるという形で復権をはかるか、それとも民主党を離れて新党をつくり、バーゲニングパワーを握るような形で復権をはかるか、のどちらかです。もし他の条件が同じであれば、その二つの戦略に二分の一ずつの確率でヘッジすることになりますが、どうもいまはそうは行かないのではないでしょうか。というのは、まず後者の新党構想の可能性を考えると、この実現性を高めるシナリオは、ひとつには、国民新党を離党した亀井さんと連携し、さらには橋下さんや石原さんを巻き込んで流動的な政局を作り出していこうとするというものですが、これはいまのところまったくうまくいっていません。より現実的なもうひとつの可能性は、自民党と民主党がそれぞれ割れ、大きな政界再編が起こることです。これは、たとえば、いまの民主党の（野田首相の）非常にしたたかな「のらりくらり」路線に自民党がしびれを切らし、その一部が消費増税に賛成にまわり、自民党の中で反増税や反TPP勢力が民主党の中の同じような勢力と連携していこうということになったときに起こるシナリオです。こうなれば、小沢さんにもう一度チャンスがめぐってくることになります。
これに対して、もう一方の、民主党の中に残り復権をはかるという戦略は、いろいろな意味で行き詰まってしまう戦略にしか思えません。第一に、そのようなシナリオは、現政権に対する支持率が下がり、民主党内でふたたび「小沢待望論」のようなものが盛り上がってくることを意味しますが、なかなかそれは起こるとは考えられない。おそらく、小沢さん自身もそのように気づいており、そして小沢さんが気づいているということを、民主党の他の人たちも感じとっている、と思います。
そして、非常に重要なポイントですが、小沢さんはよく数を握っているといわれますが、その多くの小沢チルドレンたちは選挙基盤がきわめて脆弱な人たちです。もし、彼らが次の選挙における再選の確率を上げることができるとすれば、それは民主党に残ることではなく、民主党に見切りをつけて、選挙直前に民主党を飛び出し、反民主の無所属で次の選挙を戦うことだと思われます。こうした人たちの動きを、小沢さんが食い止めることはむずかしく、それゆえ、小沢さんの二つの戦略のうちの一方は、そもそも現実となる可能性が低いのです。
ということはどういうことか。小沢さんには戦略が二つあるようで、実は一つしかない。いってみれば、彼は、自民党を巻き込んだ政界再編に賭けるしかないように思えます。それは基本的に他力本願であり、その意味で彼の政治的影響力、彼が政局を左右する力は、現在においてはそれほど大きくないと考えるのが、正しいのではないか、と思います。

        
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    <title>原発再稼働について</title>
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    <published>2012-04-15T01:15:20Z</published>
    <updated>2012-04-15T01:23:08Z</updated>
    
    <summary>（BSフジ新番組「コンパス」のパイロット収録に際して用意したメモを、多少修正補筆...</summary>
    <author>
        <name>河野勝</name>
        
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            <category term="コンセプト" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://kohno-seminar.net/blog/">
        （BSフジ新番組「コンパス」のパイロット収録に際して用意したメモを、多少修正補筆し、ここに再録します。）

野田政権が、原発再稼働をめぐる意思決定の最後のステップに「政治判断」を位置づけたことは、少なくとも二つの意味で問題であった。第一に、民主党政権は、「３・１１」後に、すべての原発を停止させるという選択肢があったにもかかわらず、そうしなかったのであるから、同政権は、実は、すでに一つの大きな政治判断をすませていた、つまり「安全であれば稼働させる」という大きな政治判断を終えていた、と捉えなければならない。「最後の段階での政治判断」をアピールすることで、あたかもこの原初の段階での政治判断がなかったかのように振る舞っていることは、おかしい。第二に、したがって、残されていたのは「安全かどうか」という判断であるが、そのような判断ができるのは、専門家であり、政治家であるわけがない。でたらめさん、じゃなかった、班目さんを退場させることもせず、保安院や原子力委員会の組織構造を刷新することもなく、原子力規制庁もつくれてないのであるから、野田政権のここまでの取り組みをポジティブに評価することは、到底できない。
さて、一般論では、国家の政策を決めるべきは、憲法で定められているように国権の最高機関すなわち「国会」か、あるいは民主主義の理念にのっとり直接的な「国民投票」か、のどちらかでしかない。よく責任をもてるのは「政府」しかないとか、「国」が最終的に決めるべきだ、という声を聞くが、ボクにはこれらの主張の意味するところがわからない。もし、政府を「行政府」のみと捉えているのだとすれば、それは民主主義的というよりはエリート主義的である。議院内閣制のもとでの政府とは国会の多数派を意味することを忘れてはならない。また、原発再稼働論議の文脈においてしばしば言及される「国」なるものが、何を指すのかは、曖昧である。仮に将来また原発事故が起こったとき「国」が責任をもつとしても、その補償は、結局は「国民」からの税金と財産でまかなわれることになる。ゆえに、「国が責任をもつ」、というのは、つきつめると、国民自分たちが責任をもつ、ということに等しい。
では、国会が決めるべきか、国民投票で決めるべきか。ボクは、原発の存廃については後者によるべきだと思っている。この選択は、民主主義における意思決定として間接民主制と直接民主制のうち、どういう場合にどちらが選ばれるべきか、その根拠はなにか、という問題である。
もちろん、現代においてすべての意思決定を国民全体の直接投票できめるということは明らかに非効率的であるが、効率性という基準は、間接民主制をセカンドベストとして選ぶ「消極的な」理由にすぎない。そうではなく、意思決定の手続きとして直接よりも間接が選ばれるより積極的な理由があるとすれば、それは後者は「意見の集約」をできるという点をおいてほかにない。そう、このことを高らかにまた理路整然とうたったのは、ボクが尊敬して止まないJ・マディソンによるFederalist Papers第10篇である。100人の人が集まってそこからひとりの代表を選ぶというのは、その100人のまったく異なる意見を取り込んで意思決定をするためではなく、その100個の異なる意見の最大公約数をみつけていくプロセスである。そして、そのような作業が、個別利益にもとづく対立を打ち消し合う、という積極的な意味をもつのである。
しかし、（マディソンが喝破していたように）このような意見集約は、異なる政策争点や異なる利害をいわば「取引」し合うことによってようやっと成立するものである。ボクは、原発の存廃は、他の争点や利害とリンクさせて決めるべき問題ではない、と考える。なぜなら、それは、人間の想像力を超えた影響を次世代に及ぼすかもしれないという意味で、モラルの問題、つまりわれわれ一人一人が自分の胸に手をあてて決するべき問題、だからである。
最後に、日本では国民投票をする法的手続きがない、という意見をきくが、この意見も、ボクには理解できない。国権の最高機関である国会が、原発存廃について「国民投票する」という特別法をひとつ制定するだけの話であると考える。

        
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    <title>桜問答</title>
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    <published>2012-04-06T13:11:24Z</published>
    <updated>2012-04-07T09:52:22Z</updated>
    
    <summary>山下公園には、美しいしだれ桜がある。桜の木の寿命がどのくらいなのか、ボクには見当...</summary>
    <author>
        <name>河野勝</name>
        
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        山下公園には、美しいしだれ桜がある。桜の木の寿命がどのくらいなのか、ボクには見当もつかないが、いまが旬というか、ちょうど大人になったばかりというか、本当に美しい姿かたちをしている。ウチの犬と連れ立って散歩をすると、いつも沢山の人が写真をとっている。場所は、ちょうどニューグランドの本館の前あたり。かのマッカーサーも、この桜を見ていたのかもしれない。桜は、それとなく、人を歴史へといざなう。
しだれ桜は、和菓子に喩えると、サクラ餅ではなく、道明寺だと思う。こういって、ピンと来る人は、関東の人である。関東では、サクラ餅とは、クレープのような生地で餡を巻いたものをさす。一方の道明寺は、モチモチした生地によって、餡がすっぽりとその中に覆われている。紛らわしいことに、関西では、後者をサクラ餅とよび、前者を長命寺餅と呼ぶのだそうである。この違いを知らないで関東の人と関西の人が会話を続けると、「こんにゃく問答」ならぬ、「サクラ餅問答」になって、結構おもしろい。まったくもって「いとをかし」である。
なんでしだれ桜がサクラ餅ではなく道明寺なのかというと、別に根拠があるわけではなく、ただそんな感じがする、というだけのことである。ボクには、サクラ餅には、あっけらかんとした若さというか、明るさがあるように思える。つまり、それはソメイヨシノなのである。それにくらべて、道明寺には、どことなく、しっとりとした色気というか、奥ゆかしさがある。それがしだれ桜を思い起こさせる。
ところで、白洲正子さんの書いた『西行』（新潮文庫）の中に（←ちなみに、この本は、ボクが最近読んだ本のなかで、もう圧倒的に、もっとも感動した本、ホント、こんな素晴らしい本があっちゃっていいのか、という本である）、西行と在原業平の桜についての歌の違いについての、名文としかいえない一節がある。

西行の歌
　春風の　花を散らすと見る夢は　さめても胸の　さわぐなりけり
業平の歌
　世の中に　絶えて桜のなかりせば　春の心は　のどけからまし

そして、白洲さんは、こう書く。「これは古今集にある業平の歌で、桜の花を謳歌した王朝時代に、もしこの世の中に桜というものがなかったならば、春の心はどんなにかのどかであっただろうに、と嘆息したのである。むろん桜を愛するあまりの逆説であるが、西行がこの歌を知らなかった筈はなく、同じようにはらはらする気持ちを、「夢中落花」の歌で表現したのではなかったか。そこには長調と短調の違いがあるだけで、根本的な発想には大変よく似たものがあると思う」（87頁）。
さて、どちらが長調で、どちらが短調か。ここにも、何の根拠があるわけでない。しかし、それがちゃんと伝わるところが、「いとをかし」である。

        
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    <title>ビル・クリントンの失敗論</title>
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    <published>2012-04-03T14:52:01Z</published>
    <updated>2012-04-03T15:02:06Z</updated>
    
    <summary>出張帰りの飛行機の中で、ビル・クリントンについてのドキュメンタリーを見た。生後６...</summary>
    <author>
        <name>河野勝</name>
        
    </author>
            <category term="コンセプト" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://kohno-seminar.net/blog/">
        出張帰りの飛行機の中で、ビル・クリントンについてのドキュメンタリーを見た。生後６ヶ月にして、父親を交通事故で亡くしたこと。高校時代、家庭内で母に対して義父が暴力をふるうという問題を抱えていたが、そんな問題を他人の前では完璧に押し殺し、学業からスポーツから学級委員にいたるまで賞を総なめにして卒業したこと。エール大学のロースクールでヒラリーに会った頃から、すでに政治家を目指し、授業などどうでもよく、人脈をつくることに長けていたこと。驚異的な体力にまかせて、ライバルよりも何倍も有権者と実際に握手をし対話をすることによって、政治家としての名が知られるようになっていったこと、などが印象に残った。
クリントンを全国的に有名にしたのは、1988年の民主党大会での、マイケル・デュカカス候補へのノミネーションスピーチであった。そのとき、彼はあまりに長くしゃべったので、会場でさんざんな評判であった。その場面も映像で紹介されていたが、疑い深いボクなんかは、それもしたたかな計算の上だったのではないか、という気がした。
しかし、どうやら、そうではないらしい。というのは、彼は、そのスピーチの失敗を取り戻すべく、すぐに次の一手にうってでたからである。その策とは、なんと、人気バラエティー番組Tonight Showに出演すること。当時のホスト、ジョニー・カーソンは、それまで決して政治家を自分の番組に出演させたことがなかった。しかし、政治家としてでなく、サックス奏者として出演させてくれというクリントン側のリクエストを、カーソンは結局受け入れた。クリントンが登場し席につくと、カーソンは机の下から砂時計を取り出し、「一体、今日はどのくらいしゃべるんだ？」と訊く。会場が爆笑に包まれる。こうして、この夜、クリントンは、見事に失敗を成功へと変えてしまった。ジョークの通じる若い政治家として、サックスを吹く新しいタイプの政治家として、彼の名前は全国に知れ渡ることになったのである。
クリントンは、「２度目のチャンスは、２度しか与えられないのではなく、それは失敗の数だけ与えられる」という信念を、まさに自分の人生として体現してきたような人である。これに対しては、とんでもない、という保守派からの反対が当然あるであろう。何度も失敗を重ねている人に、いつまでも甘い顔をするのはよくない、と。しかし、クリントンの凄さは、自分の失敗を失敗と、ちゃんと正しく認識する能力にある。
それを、彼はどこで学んだか。まだ若い１期目のアーカンソー州知事であったとき、彼は州の政治をなにもかも変えようとして、失敗し、人気が急落する。再選を目指そうとするも、いとも簡単に落選。しかし、それからしばらくして、知事として返り咲いたときには、クリントンは、誰もが批判しようもない教育問題の改革に特化して取り組み、大成功をおさめる。何がすべての問題に通じる根源的な問題なのかを見極め、それを軸にして戦略を立て直したことによって、彼は優れた州知事としての地位と名声を築き、大統領選挙へとでていく政治的素地を固めたのである。
失敗から何かを学ぶためには、そして失敗を成功へと転化させるためには、まず自分の失敗を失敗として認めることが、必要である。人々は、失敗から学ぼうとする謙虚な者を受け入れ、応援したいと思うものである。すくなくとも、２度目の失敗ぐらいまでは。
政権交代後の民主党の人気が急落したのも、またかつて政権党であった自民党の支持率が回復しないのも、どちらも、失敗を失敗と認め、自らの失敗から学ぼうという姿勢が伝わってこないからなのである。

        
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    <title>レイチェル・メドウの戦争論をめぐる雑感</title>
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    <published>2012-03-29T13:07:42Z</published>
    <updated>2012-03-29T13:27:40Z</updated>
    
    <summary>レイチェル・メドウは、アメリカではいわずとしれたリベラル派の論客で、いまではMS...</summary>
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        <name>河野勝</name>
        
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        レイチェル・メドウは、アメリカではいわずとしれたリベラル派の論客で、いまではMSNBCで自分の名のついた番組をもつほどに、その実力が認められている。その彼女が新しく書いたDriftという本について、この前Meet the Pressで、本人が登壇して、紹介しているのを見た。ボクはこの本を読んでいないので、その内容がどのくらい事実関係として正確な記述となっているかは判断できないが、番組中に彼女が口頭で述べた中心テーマは、とても興味を引くものであった。
そのテーマとは、いつからかアメリカは戦争をすることに慣れてしまったのではないか、ということである。その一つの原因は、最近アメリカの戦争が、ごく一部の軍人たち（総人口の約10パーセントほど）だけが関わることによって遂行されているからだ、という。逆にいうと、国自体は最近ずっと（時には、同時に複数の）戦争を遂行しているのにもかかわらず、大多数のアメリカ人は、戦争を自分自身の問題として考えなくなっている、というのである。
この見解を聞いて、いろいろなことを考えされた。第一は、いまアメリカで起こっている現象は、歴史的というに値するかという問題。一般の国民をはじめて全面的に国家の戦争へと巻き込んだのは、ナポレオンだったといわれる。それ以前、戦争とは戦うことを職業とする人たちだけの間で行われるものであった。メドウの観察が正しいとすると、アメリカは、戦争の形態が近代以前のそれへと逆戻りする兆候を示している、ということになるのだろうか。
第二は、民主主義と戦争の関係という（政治学上の）大問題。民主主義という政治体制が平和志向的であるかもしれないのは、（かつてカントがいったように）民主主義においては一般の人々が、国家として戦争するかどうか、すなわち自分が戦争にいくかどうか、を決める権利をもっているから、と考えられる。しかし、現代のアメリカのように、つねに戦争にたずさわる人とまったく戦争にたずさわならい人とのあいだに明確な役割分担が確立してしまうとすれば、この民主主義的平和論はその重要な根拠を失うことになるのではないか。
第三は、つねに戦争にたずさわる人とまったく戦争にたずさわらない人とが分断されることの、規範的含意について。直感的には（おそらくメドウもそうであるが）われわれは、このような分断は「よくない」ものと捉えるのではなかろうか。自分の命をかけて国を守っている人がいる傍ら、そのような人の努力が支える安全保障にただ乗りするだけの人がいるという現実は、あまり座り心地のよいものではない。しかし、もしそうだとすると、なぜ、今の世の中には、たとえばジュネーブ条約のような、国家間の戦争においても「文民の保護」が尊重されなければならない、などという真っ向から対立するかのような規範が存在するのか。戦争において軍人は殺してよいが文民は殺してはならないという規範は、命をかけて戦っている人よりもただ乗りしている人の方が人間の価値として重い、という含意をもつことにはならないのか。

        
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    <title>卒業おめでとう　2012</title>
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    <published>2012-03-25T22:02:48Z</published>
    <updated>2012-03-25T22:05:36Z</updated>
    
    <summary>卒業おめでとう。 ２年間、みんなと同じ時代を過ごすことができた巡り合わせに感謝し...</summary>
    <author>
        <name>河野勝</name>
        
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            <category term="ごあいさつ" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://kohno-seminar.net/blog/">
        卒業おめでとう。
２年間、みんなと同じ時代を過ごすことができた巡り合わせに感謝しつつ、立派に社会へと巣立っていったことをうれしく思います。

♪いま、君は、門出に立っている…誇り高き勇者のように…♪。

本当にその通り。だから、昨日の二次会の席では、みんな寂しい、悲しいと言っていたけれども、今日からまた心（と涙腺）を引き締め、ひとりひとり、人生の勇者として振る舞っていきなさい。
二次会の席で誰かが、先生は悲しくないんですかと、ボクに訊いた。悲しいかと訊かれれば、悲しいに違いない。けれども「でも、また下から10期生たちが入ってくるから」と、ボクは答えた。時は常に流れていく。時が流れるから、この世は、美しいのである。君たちも、その流れの中にあるから、ボクの中で、お互いの中でずっと美しく輝く。
いろいろと、意味をつけるとか、解釈を施すとか、そういうことをしてはいけない。この２年間は、まさに、「自分が生きている証拠だけが充満し、その一つ一つがはっきりとわかっている様な時間」だったのではないか、と思う。意味づけられたもの、解釈されたものは、ちっとも美しくない。「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」のである。
これらの言葉を、ボクはいま、最近読み返したある有名な文章から引用しているのだけれども、その作者は、記憶と思い出すことの違いについて、書いている。それをボクなりにいいなおすと、記憶するとは、過去を過去の中に閉じ込めておくことである。それに対して、思い出すこととは、過去をいまとして生きることである。「記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう」と、この作者はいう。そう、思い出が美しくみえる理由を、誤解してはならない。われわれが過去を飾るのではなく、過去が「余計な思いをさせない」からこそ、それは美しいのである。
初めてのゼミに出席した時の緊張した顔、飲み会で「かんぱーい」といってグラスとグラスとを合わせた音、バレーボールをしたとき体育館いっぱいに響いていた笑い声、卒論にオーケーが出たときの安堵のため息。折りにふれ、つれづれなるままに、心を虚しくして、思い出してください。

河野ゼミ８期生のみなさん、卒業おめでとう。みんなの美しい人生に乾杯！

        
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    <title>岩田規久男『経済学的思考のすすめ』について</title>
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    <published>2012-03-23T14:54:11Z</published>
    <updated>2012-03-23T14:58:48Z</updated>
    
    <summary>知っている人は知っているが、最近ボクは「経済学的思考」がいかにダメか、ということ...</summary>
    <author>
        <name>河野勝</name>
        
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            <category term="コンセプト" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://kohno-seminar.net/blog/">
        知っている人は知っているが、最近ボクは「経済学的思考」がいかにダメか、ということをいろいろなところで主張している。実は、この「経済学的思考」という言葉は、世間ではポジティブに使われており、経済学的思考の「センス」についての本だとか、経済学（的）思考を身につけると「頭がよくなる」などとうたっている本が、よく売れている（らしい）。しかし、このたび、岩田規久男さんの『経済学的思考のすすめ』（筑摩書房）という本を一読して、体系だった学問であるがゆえに、経済学が勘違いしたり、見過ごしている問題があるということは、やっぱり何度強調してもしすぎることはない、と思った。
ちなみに、この岩田さんの本は、辛坊なにがしという素人の書いた経済についてのいい加減な本を批判し、本当の経済学の考え方がどういうものかを、分かりやすく解説するという構図になっている。ボク自身も、政治学や国際関係論をまともに勉強したこともない人たちが、政治評論家とか外交評論家などと自称して、テレビや雑誌などで無根拠な見解を堂々と述べているのを見ると、面白くないと感じることが多い。この意味では、ボク自身、学問を志す身として、岩田さんの心意気には、多いに賛同するところである。
しかし、ボクが納得がいかないと思うのは、岩田さんが傾倒してやまない経済学そのもの、あるいは彼の経済学への過剰な思い入れが生み出している思考の歪み、とでもいうべきものである。まっとうな経済学を真摯に極めようとしている岩田さんが書いているからこそ、ボクには、この本が経済学の限界を見事にいろいろと露呈しているように見える。
第一に、経済学の思考法は演繹であると、岩田さんは繰り返し述べているが、これはミスリーディングである。学問は、方法論的手法や立場によって（他の学問から区別されて）定義されるわけではない。岩田さんは時に「経済学的演繹」という言葉を用い、演繹することがあたかも経済学の専売特許であるかのように書いているが、政治学でも社会学でも、演繹という方法は用いられる。経済学者たちの中には、「経済学帝国主義」により、他の社会科学の分野のことをあまりご存知ない方が多いが、残念ながら、岩田さんもそのひとりなのかもしれない。
第二に、この本では、演繹のみが強調され、帰納の重要性が軽視されている。それでよいかのように誤解しているところが、経済学の大きな限界である。経済学も、帰納なしでは成立しえない。岩田さん自身、リーマンショックという現実に起こった金融危機が新たな知見を導いたことを「経験から学ぶ市場のルール」という項（p.139）で、認めている。仮定から出発し、演繹して命題を導き、命題を検証する。命題がうまく検証されなかったら、仮定に修正を加えて、初めからやり直す。これは、岩田さん自身が思い描いている経済学であるが、この最後の、検証をふまえて仮定を修正するというステップは、帰納そのものである。
第三に、岩田さんは、経済学は「すべて他の条件が同じなら」という思考実験のメリットを強調するが、「すべて他の条件が同じなら」という方法にはデメリットもあると考えられ、その両方をバランスよく捉える必要がある。もしかすると、経済は「すべて他の条件が同じなら」という設定をすることにデメリットが少ない分野であるかもしれないが、他のすべての分野の現象がそうであるとはかぎらない。だとすると、経済学的思考は、案外とその有用性は限られ、経済現象の分析には有用であるが他の分野へと簡単に応用できるものではない（とりたてて「すすめ」るべき思考ではない）可能性もある。
第四に、岩田さんは、経済学を自然科学と同列にならべて論じているが、これは誤りである。自然現象においては、理論モデルによって導かれた予測が、現実に影響を与えることはない。しかし、社会現象では、予測が予測されるべき現実に影響を与えるという回路が開かれている。
最後に、岩田さんは、経済学では、価値の問題に触れるべきでないと考えているが、もしそうであるならば、経済学はやはりダメな学問であるといわざるをえない。すべての価値は、社会的に構築されたものである。「効用最大化」という大前提にせよ、近代以降に生み出された価値観ないし世界観のひとつの現れにすぎず、そのように人間が行動しているかどうかはまったくの仮定の話にすぎない。それゆえ、検証によってこの「仮定」から導かれた「命題」が間違っていたと判明したとき、経済学には（経済学が岩田さんのめざすようなものであればあるほど）、それを変える用意がなければならない。だから、経済学が価値の問題にふれないでよいと安住することは、自己矛盾に陥ることに等しいのである。

        
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    <title>偶然と運命とのあいだ</title>
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    <published>2012-03-22T10:44:10Z</published>
    <updated>2012-03-22T10:44:35Z</updated>
    
    <summary>この前、お気に入りのModern Familyというコメディをみていたら、母親が...</summary>
    <author>
        <name>河野勝</name>
        
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            <category term="コンセプト" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://kohno-seminar.net/blog/">
        この前、お気に入りのModern Familyというコメディをみていたら、母親が子供たちにFacebookで「友達申請」をしているにもかかわらず、子供たちの方が自分たちのプライバシー（誰といつどこへいったというようなこと）がわかってしまうのが嫌なので、なんとかはぐらかそうとするシーンがおもしろおかしく描かれていた。SNS時代においては、どのような人と人との関係性も、「友達」であるか否か、クリックひとつで定義される。実の親子すら、「友達」として定義しなおすことが可能となる。
もちろん、本当の人と人との関係は、そのようにデジタル化されているわけではなく、無関係の「０」から関係のある「１」のあいだをアナログ的につねに揺れ動いている。うまく行っていたと思っていた恋人関係や友人関係が、ちょっとしたきっかけでうまくいかなくなったとき、われわれはそれを0.5とか0.75といった「踊り場」にいったん置いて、様子を見ようとする。そのような踊り場におかれた状態は、場合によっては、長期化することもある。いや、というか、生身の人としてのわれわれの人間関係は、すべて、つねに、どこかしらの踊り場に置かれている、と考える方が正しいのである。
この広い世界において、人と人とが出会うのは、基本的には、偶然である。冷徹に理性だけに基づいて考えれば、このことは、他人同士だけでなく、親子とか兄弟姉妹についても同じくあてはまる。自分の子供も、無数の精子の中のひとつがたまたま卵子と結合して出来た存在であることにかわりはない。その意味では、親子であることの根拠も、究極的には、万にひとつ、億にひとつの偶然によって支配されている、というほかない。
しかし、その一方で、われわれは、偶然を「運命」や「縁」として理解しようとする。そのように理解しようとするのは、理性とともに、感性が人間に備わっているからである。偶然でしかない親と子との関係は、無償の愛が注がれることによって、絆で結ばれたものとなる。偶然でしかない夫婦や友人の関係も、相互のいとしみや思いやりの情、敬愛の念をもってして、かけがえのない間柄となる。偶然でしかない出会いを、偶然としてのみ理解する限りにおいては、意味ある「人生」も「個性」も成立しない。さまざまな偶然を運命として読み返すことによってはじめて、その人の人生がどういうものであるのか、つまり、そもそもその人がどういう人であるのかを、語ることができるようになるのである。
SNSで母親からの「友達申請」をはぐらかそうとしていた子供たちは、親に対する愛情が薄いというのではけっしてない。彼らは、本当の親子関係とはどういうものかを、直感的にちゃんと理解していたのであり、むしろそうだからこそ、申請をはぐらかそうとしたのだ、と考えるべきである。そして、このシーンがコメディとして成立すること自体、偶然と運命とのあいだにある大きなギャップをうめることが意味ある人生を送ることなのだということを、（SNS時代においても）われわれが直感的に理解している証しなのである。

        
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    <title>吉本隆明さんについての想い出</title>
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    <published>2012-03-16T14:10:54Z</published>
    <updated>2012-03-16T14:12:08Z</updated>
    
    <summary>ボクは、文芸評論とか思想とかの本を読んでいた変わった高校生で、しかし、ボクの高校...</summary>
    <author>
        <name>河野勝</name>
        
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://kohno-seminar.net/blog/">
        ボクは、文芸評論とか思想とかの本を読んでいた変わった高校生で、しかし、ボクの高校時代には、そのような変わった高校生をかわいがってくれる変わった先生たちが何人かいた。そのような先生たちは、学校の勉強と関係なく教え子たちを囲んで読書会をしてくれて、ボク（ら）の知らない評論家とか思想家とかの名前を出して、今度読んでみるといいよ、などと薦めてくれた。読書会は、先生たちの家にいって（ときにはアルコールを交えて）行われることもあった。そうした先生たちの家には、決まって吉本隆明全集がおいてあった。勁草書房の、飾り気のない薄茶色のボックスに入った、青色の帯がかかった、あの全集である。ボクの頭の中には、そのようにして、吉本隆明という名前と勁草書房という出版社の名前が刻まれることになった。
大学へと進学することになったとき、親から何が欲しいかと聴かれたので、ボクは、吉本隆明全集と小林秀雄全集（こちらは当時新潮社から新しいのが出たばっかりだった）が欲しい、とねだった。重いのに、親戚筋にあたる本屋さんが、家まで運んできてくれた。ボクは、大学に入るまでのあいだ、それらをつらつら読んだ。印象に残った論文には、鉛筆で線をひき、余白に感想を書き込んだ。この二つの全集は、今でも大事に、ボクの家の書庫にならんである。高校生のときにボクの書いた感想も、もちろんそのまま残っている。
時は、流れて、ボクは研究者としてなんとかひとりだちし、大学で教える身となり、その後『アクセス日本政治論』（日本経済評論社）という教科書の中で、日本政治の見方が戦後どのように発展してきたかという章を執筆することになった。ボクは、どうしてもその中で吉本さんについて触れたいと考えて、丸山真男氏との論争を紹介する形で、吉本さんの「自立の思想」や「大衆の原像」について書いた。ボクの印象としては、「在野」を貫いた吉本さんが、「正規の」というか、大学で教えられる政治学の中でまともに取り上げられることが少ないことが不満だったので、自分ではそのときとても大事な仕事をしたつもりだった。今でもよく覚えているが、平野浩先生と伊藤光利先生から、学会の懇親会の席で、それぞれ、そのことについてお褒めいただいたのが、とてもうれしかった。そうそう、そんな自負もあって、ボクは出版社の方に頼んで、一冊を吉本さんに直接献本してくださるようにと、お願いした。
時は、さらに流れ、縁があって、ボクは、勁草書房から、何冊か本を出させて頂くことになった。ボクにとってみればそれは光栄なことだった。あの吉本さんの全集を出した出版社から、ボクが本を出すことができるようになったんだと、噛みしめるようなうれしさが湧いてきた。
「井の中の蛙は・・・」という、あの鶴見俊輔さんに向けた有名な言葉は、一時だけ編集にかかわった、ある政治学雑誌の編集後記で引用させてもらった。そして、その政治学雑誌とは、ある事情で、訣別せざるを得なくなった。最後まで、身ぎれいに自分を貫いた吉本さんのことが、そのときも、ボクの心の片隅にあった。

謹んでご冥福をお祈りします。

        
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    <title>セントラルグリル</title>
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    <published>2012-03-11T16:53:59Z</published>
    <updated>2012-03-11T16:58:56Z</updated>
    
    <summary>最近こんなエントリーばかりで悲しくなるが、またひとつ、ボクのお気に入りの場所が消...</summary>
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        <name>河野勝</name>
        
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            <category term="グルメ" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://kohno-seminar.net/blog/">
        最近こんなエントリーばかりで悲しくなるが、またひとつ、ボクのお気に入りの場所が消えてしまうのだそうです。想い出のブログ（2008年３月11日付け）をここに再録します。

ボクはレトロな食堂が大好きである。
レトロな食堂では、「ミックスフライ定食」とか「ハヤシライス」などを食べたい。
そう、レトロな食堂には、ミックスフライとハヤシライスがなければならない。
これがレトロな食堂を定義する上での、ボクの大前提である。
で、ミックスフライがあるということは、牡蠣フライもあるし、海老フライもあるし、鯵のフライもあるし･･･ということでなければならない（←これは単純な演繹的推論である）。ま、要するにフライ系はすべてカバーしている、ということでなければならない（これをレンマ＝補助命題としておく）。
それから、ハヤシライスがあるということは、カレーライスも作っているということでなければならない（←これは演繹というよりは、アナロジー＝類推だな）。
いずれにせよ、ということは、当然（上の「全フライカバー」命題と併せると）、レトロな食堂にはカツカレーもある、という結論が論理的に導けることになる。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　････ＱＥＤ（←？？）
･･･というわけで、ずっと前から一度入ってみたかった横浜の「セントラルグリル」に行ってきました。
場所は、本町通りと日本大通りの角。「ええっ、こんなところに？」という大きな交差点に、堂々と、このレトロな食堂はある。
入ってみると、フライ系だけではなく、サバ味噌煮定食とか金目煮付け定食とかもメニューに載っている。ゆで卵と納豆は、単品で注文できるらしい。うーん、これにはちょっと迷った。どうしようかな、フライ系高カロリー路線をやめて、こうした小物を従えての煮魚系に大胆に路線変更するかなとあたふたしましたが、ここは初志貫徹と思い返し、ヒレカツカレーを食べることに。そしたら、キャベツがチョコッと付いて、味噌汁まで付いてきました。そう、だから、正確には、ボクが食べたのは、ヒレカツカレー定食なのでした。美味しかった･･･。
ボクにいわせると、世の中には「レトロ風の食堂」はたくさんあるが、本当に「レトロな食堂」はそれらからきちんと区別されなければならない。本当にレトロな食堂というのは、食器や調度品の古さだけで決まるのではない。そこで働いている人たちも「レトロ」に徹してなければならない。だから、若いシェフやウェイトレスだけがやっているレトロな食堂というのは、ボクの定義上ない。レトロな食堂で働く人たちは、カッポウ着を身につけているとか三角巾のようなものを頭にかぶっているとか、あるいはかけているメガネが昭和の時代に流行したスタイルであるとか、どこかしら存在からしてレトロ性をかもし出している人々でなければならない。
もうひとつ、レトロな食堂というのは、（このセントラルグリルがそうであるように）「こんなところに」というような意外な場所になければならない。そして、それはそこにずーっとそのままの形で存在していたのでなければならない。オシャレな六本木や西麻布などに、レトロ風を売りにして新たに改装した店というのは、本当にレトロな店だとはいえない。
レトロな店は、年輪を感じさせる。それは、いろいろな人や事件に出会い、さまざまな経験をつんできた人間がそうであるのとまったく同じ理由で、とっても魅力的である。
        
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    <title>最近気になっているそっくりさん（のしりとりもどき）</title>
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    <published>2012-02-21T13:49:03Z</published>
    <updated>2012-02-21T13:49:35Z</updated>
    
    <summary> 次元大介（ルパン三世の相棒）　—　田中孝彦（早稲田大学教授） 貞廣彰（早稲田大...</summary>
    <author>
        <name>河野勝</name>
        
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次元大介（ルパン三世の相棒）　—　田中孝彦（早稲田大学教授）

貞廣彰（早稲田大学教授）　—　上岡龍太郎（元漫才師）

オール阪神（漫才師）—　枝野幸男（経済産業大臣）

野田佳彦（首相）　—　魁皇（元大関）

朝青龍（元横綱）　—　ゼミ2期生佐藤君

ゼミ７期生吉村君　—　田中大貴（フジテレビアナウンサー）

ゼミ１期生木村君（フジテレビ政治記者）—　平成ノブシコブシ吉村崇（お笑いタレント）

６代目春風亭柳朝（落語家）　—　中田宏（前横浜市長）

寺田学（首相補佐官）　—　スワレス（リヴァプールFC）

ルーニー（マンチェスターU）　—　ニュート・ギングリッヂ（アメリカの政治家）

アサド（シリア大統領）　—　カダシアンズ（Star Trekに出てくる悪者）

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    <title>兎と亀の政治学的会話：橋下さんの正念場について</title>
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    <published>2012-02-14T14:58:58Z</published>
    <updated>2012-02-14T22:58:38Z</updated>
    
    <summary>兎：維新の会の政治塾が、すごい人気だね。 亀：君も応募したのか？ 兎：まさか（笑...</summary>
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        <name>河野勝</name>
        
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        兎：維新の会の政治塾が、すごい人気だね。
亀：君も応募したのか？
兎：まさか（笑）。しかし、知事の座をかなぐりすてて市長選に勝ち、塾を立ち上げ、それで今度は船中八策を発表する。なんか、勢いがあるね。
亀：うーん、どうかな。むかし誰かが、革命とは革命的であり続けることであると定義していたが、「勢いがある」というよりは「走り出して止まんなくなっちゃった」という感じだな。
兎：止まんなくなっちゃうって、喧嘩っ早い人に多い行動だよね。
亀：そう。よくいわれるように、あの人は喧嘩の仕方をよく知っている。その意味では、卓越した政治家なんだよ。政治というのは、勝ち負けを決める世界だからね。
兎：でも、橋下さん自身は、よく既存の政党とか政治家とかを敵にして、自分がアウトサイダーであることを強調するよね。
亀：いやいや、彼こそ、古典的な意味での政治家だよ。で、そこんところは、民主党に多い、なんとか政経塾出身の政治家たちとまったく逆なんだな。彼らは、政治じゃなくて、政策を語りましょうと、よくいうよね。政治は泥臭くて悪いもの、政策はスマートで意味のあるもの、という線引きをして。しかしね、今の民主党のていたらくは、政策の行き詰まりじゃなくて、政治の行き詰まりが原因なんだよ。いかにいい政策を構想したところで、それを実行する政治の力が備わってなければ、ただの紙切れに終わっちゃうんだから。
兎：橋下さんが人気あるのは、彼のヴィジョンとかアイディアじゃなくて、いっちゃえば、腕っぷしの強さってことかい？
亀：間違いないね。だって、今度の八策なんて、憲法を改正しなきゃできない首相公選制とか入っていて、政策パッケージとしては点のつけようがない代物だよ。ただ、自分は「こんなに大胆な提案ができるんだ」という政治的メッセージを送っている。
兎：でも、それはそれで、意味のあることだよね。実行力がある政治家には、やはり多くの支持者がついていくんじゃないかな。
亀：さあ、そこだな、微妙なのは。たしかに、腕っぷしの強さにあこがれる人は多いと思うが、そういうのを嫌だという人も、世の中には多いよ。
兎：なるほど。結構そういう反応って、生理的っていうか、本能的だから、どうしようもないね。
亀：それにね、このところ、彼が正念場にたっているなあと思えることが目立っている。たとえばね、この政治塾だが、たしかに表面上は、彼の人気はすごいな、と思わせる面もあるけども、考えようによっては、「そんなに素人ばっかりで政党って立ち上げられるのか」という不安を多くの有権者の意識の片隅にかき立てていると思う。
兎：そういえば、一般の人からの公募を呼びかけなければならないってことは、裏返せば、まわりに優秀な人材がそれほど集まっていないってことを暴露しちゃっているようなもんだね。
亀：それにあの首相公選制ね、あれもちょっと危ういと思う。
兎：首相公選制は、「ひとりのリーダーを選ぶ」制度だね。
亀：その通り。ところが、議院内閣制というのは、基本的には「政党を選ぶ」という制度なんだよ。
兎：そんな中、彼は、国民は政党じゃなく首相という一人の個人を選ぶ方がいいに決まっている、と主張しているわけだ。
亀：しかしね、その主張には、もしかしたら橋下さんが気づいていない、いくつかのメッセージが埋め込まれてしまっている。たとえば、「オレは、いまの政党なんか信用するもんか」というメッセージ。ま、これはいいかもしれない。それに同調する人も多いだろうからね。しかし、その一歩先、ほんの一歩先には「オレは、結局、組織というものが信用できないんだ」というメッセージも垣間見えちゃってる気がするんだな。
兎：そういえば、彼、弁護士出身だったね。弁護士って、基本的には、自分ひとりだけで意思決定ができる職業だね。
亀：こうした印象は、いまのところは、多くの人にとってはまだ脳裏の無意識の中にあって顕在化しているわけではない。ただ、彼の行動をこれからさらに観察していく中で、それらがしだいに具体的に意味をもつようになってくることは、十分考えられると思うよ。

        
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