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2015年03月23日

卒業おめでとう 2015

河野ゼミ11期のみなさん、卒業おめでとう。
この2年間、君たちをすこしでも知ることができ、また君たちにボクをすこしでも知ってもらうことができ、よかった。できれば、もっとたくさんの、そしてもっと濃密な時間を過ごしたかったけれども、君たちと出会ったちょうどその頃から、ボクにはもうひとり大事な人がこの世界に誕生したので、なかなか思うようにいかなかった。しかし、それもまた、ボクの、そして君たちの人生の一コマだったんだ、と受け止めてください。
大学を卒業すると、君たちは社会の波に否応なく巻き込まれ、大学で学んだことなど、すぐ忘れてしまうかもしれない。ボク自身、まわりの同僚たちにくらべたらはるかに口うるさく、君たちに対して「そんなこと、社会に出たら通用するわけないだろ」というような叱咤を飛ばして、大学生から社会人への移行がうまくいくように、教育してきたつもりです。
しかしね、大学を卒業しても忘れてはならないメッセージというものも、やっぱりあるんだよ。それはね、なんでも効率を追求しなければならないとか、今日すぐ結果につながらないことには意味がないとか考えてしまう誘惑から、ちゃんと距離を保ちなさい、というメッセージ。単純に帰結主義的で近視眼的な思考(志向)は、多様な可能性の芽を摘み、人間を画一化するだけです。もしそのような誘惑ないし圧力に屈してしまうなら、君自身の人生そのものがつまらないものとなるばかりか、君が暮らしている社会も、活力を失ったものとなってしまう。
とりわけ昨今の政治的風潮は、「成長」を最優先し、「成長」につながらない研究や教育をないがしろにしようとしている。しかし、まったくあべこべであって、個々の好奇心から湧き出てくる自由な発想を「成長」と関係なさそうだと切り捨てる政策こそが、むしろ本当の成長を阻害し、ひいては国を滅ぼすことになるのです。このことを、どうか肝に銘じておいてください。そして、社会の歯車の一つとなっても、いや社会の歯車の一つとなった時にこそ、それを思い出してください。

卒業にあたって、今年はジェームズ・マディソンの以下の言葉を贈ることにします。

The advancement and diffusion of knowledge is the only guardian of true liberty.

卒業に、そしてこれからの幸せな人生に、乾杯!

2014年03月26日

卒業おめでとう 2014


河野ゼミ10期生のみなさん、卒業おめでとう。
早稲田にきて、あっという間に時が過ぎていき、とうとう君たち10期生を社会に送り出すことになりました。きのうの追いコンは11期生たちがすばらしいプロデュースをする中、一人一人が心のこもった挨拶をしてくれて、ジーンときました。ヨウジロウの爆弾宣言には、驚いたけどね。

ボクの弾き語りも意外にうまくできてよかった。一曲目は、もうすこし君たち一人一人の目をみて、唄えればよかったのかもしれないけれど、そしたらエリコからもらい泣きしちゃって、唄えなくなっちゃったかも知れないんで、あのくらいでよかったんじゃないかな。

さて、大学の先生というのは、大学生にとっては、バイト先のボスや先輩とかとならんで、はじめて出会う社会人のひとり、という位置づけになるのではないかと思う。ボクは、そのことを肝に命じて、君たちが社会へ出ていくtransitionがスムーズにいけばいいなあ、といつも思っていた。しかし、大学の先生は、ボクも含め、一般の社会人とは異なり、企業や組織の中でもまれた経験もそれほどないし、世間知らずが多い。君たちは、社会にでていったら、ボクよりもはるかに豊富な人生経験をもった魅力ある人たちと、たくさん出会うことになる。それらの人々からさまざまなことを学んで、そして今度は君たちの後からついてくる人たちのロールモデルになれるように、これから成長していってください。

卒業にあたり、どのような言葉をはなむけにしようかと迷いましたが、今年はCaptain John Luke Picard (of USS Enterprise)の台詞から、次を選びました。

What we leave behind is not as important as how we’ve lived.

財産や名声、あるいは業績なんて、いずれ時がたてば、はかなく失われていく。
目標をもつこと、夢をもつことは、それらを達成する間のプロセスを大事にするためのもの。
どうか、すばらしい人生を切り拓いていってください。

河野ゼミ10期生に、乾杯! 

2013年08月11日

Texting Conversation b/w Me and My Daughter over Our New Born

Me: Water broke. We are rushing to hospital.
Me: Born safe (with photo).
My daughter: Daddy, Congratulations. He is so cute.
Me: Thanks.
Me: His name is most likely to be MINATO. We just have to figure out Kanji.
Me: He came out so fast. Sprinter.
My daughter: How did the birth process go?
My daughter: How big is he?
Me: Real fast. Doctor came after fully dilated.
Me: Not sure about the numbers.
Me: But he is really healthy.
Me: Like yourself.
My daughter; That is very exciting!
My daughter: how is XXXX(my wife’s name)
Me: She is in good condition.
My daughter: Keep me posted on updates and send more pictures.
Me: 2914 grams.
My daughter: How many pounds is that?
Me: Sorry I do not know. He is now sucking milk.
My daughter; Are you nervous!?
Me: Oh yeah.
My daughter: You will do great daddy.
Me: Thanks (tears from my eyes…).

(a few days later)
My daughter: I wanna see photos!!
(photos sent)

(several days later)
My daughter; Send more pictures!!!
(more photos sent)

(several days later)
My daughter: Please send more photos.
(more photos sent)

(several days later)
My daughter: Can you send more photos.
(more photos sent)


というわけで、みなさま、20年ぶりに再び父親業に復帰することになりました! 頑張ります!!

2013年03月30日

卒業おめでとう 2013

河野ゼミ9期のみなさん、卒業おめでとう。

君たちが社会人として世に飛び出していくことを、とても嬉しく思います。
君たちの代は、8期の先輩たち、後輩の10期からもうらやましがられるほど、みな仲が良くて団結していたね。だから、ボクとしても、ごそっと、大きな塊のようなものが自分の中から抜け落ちていくかのような、自分の生活から消えていくかのような感じがして、とても寂しいです。これからは、ひとりひとり、それぞれのポジションで、また違う大きな塊を作り、これまでと変わりなく輝いていって下さい。

素晴らしい追いコンの席で、時間がなくてあまりしゃべれませんでしたが、時間があったら、こういうことを言おうと思っていました。ボクは、高校時代、自分が応募したわけではないサマーキャンプにいき、そこで高校留学を突然決意することになった。大学時代、バックパックのひとり旅をしているとき、海外の大学で教えているあるとても素敵な日本語の先生に出会って、そうか別に日本で就職しなくてもいいんだ、ということに気づかされた。イェールに国際関係論の修士号を取りにいったときは、国際公務員にでもなれればいいやと思っていた。ところが、たまたま自分の書いた論文が一流学術誌に掲載されることとなり、研究者としてやっていけるかなと思うようになった。....そして....と続き、まさか50歳を過ぎて、もういちど父親になるとは、思いもよらなかった。

つまり、だね、人生なんて、いくら計画しようと思ったって、その通りには行かない。想定外の出来事がおとずれ、思いもよらぬチャンスに恵まれ、それが人生の方向を決めていくもの、そう考えるべきなんじゃないかね。
しかし、重要なことは、その突然やってくる未知との遭遇のさいに、自分が正しいと思う方向を選べるかどうか、いやどれが正しい選択なのかを感じ取ることができるかどうか、だと思う。そのためには、普段から、さまざまなことに興味をもち、違う人の意見に耳をかたむけ、理性と直感を磨いていくしかない。いつも自分と同じような趣味や考え方の人とだけ付き合ってはいけない。まったく違う背景をもった人との出会いを大事にして、それを自分を見つめ直す鏡にし、いろいろなことに思いをめぐらすことを一瞬たりとも停止させることなく、これからの人生を切り拓いていってください。

河野ゼミ9期の、素晴らしい人生に、乾杯!

2013年02月20日

O君とHさんの結婚式でのスピーチ

河野勝です。よろしくお願いします。
学者というのは、人前で話をする職業なんですが、私は、結婚式でのスピーチだけは、大の苦手でありまして。
というのは、ですね、結婚式のスピーチには、言ってはいけない言葉、「忌み言葉」っていうのがあるわけですね。別れるとか、失敗するとか。しかし、どうも学者というのは、いつでもどこでも自由でいたい、なんかこう「○○をしてはいけない」という制約を押し付けられるのを嫌う習性があるんです。ま、とことん勝手な身分商売でして、そういうわけで、結婚式のスピーチは、正直なところ、苦手なんです。
しかし、今日はスピーチしないわけにはいかない。なぜかというと、さきほどからご紹介にある通り、O君とHさんは、どちらも、私のゼミの出身だからです。この式が始まる前、受付していただくときに、私、新郎側で受付するのか、新婦側で受付するのか、迷ってしまいました。ゼミ生同士のカップルが結婚するというのは、私にとっては、これが初めての経験でありまして、そういう意味では、お二人にはおめでたい先例をつくって頂いて、大変嬉しく思っております。
とはいっても、実は、私は、この二人が一緒になることに、なんの功績も責任もありません。なにしろ、私はこの二人が付き合っているというのを、最後の最後まで、知らされてなかったんです。その報告を受けたとき、私は、ほんと、椅子から転げ落ちそうになるくらい、驚きました。そして、自分だけが知らされてなくて、あとのゼミ生全員がずっと前から知っていたとききまして、ちょっとイラっときました。もう、それ以来ですね、この二人が卒業してから数年が立つわけですが、もうそれ以来ずっと、彼らに会うたびに、「君たち、よくもオレにだまってたよな」と、ウジウジと文句をずーっと言い続けているわけなのであります。
どうやら、このことは、後代のゼミ生たちに伝わったらしく、この二人のせいで、いまでは河野ゼミには「家訓」ならぬ「ゼミ訓」というのができあがってるようです。つまり、ゼミ内恋愛をするときは、うまくタイミングを見計らって、ちゃんと先生に報告しなければならない、というように。
ま、このようにして、お二人には、ほんとおめでたい、「よい先例」をつくっていただいたわけですが、私としては、これが「悪い先例」にならないように、願っているわけであります。いいですか、ここから先は、あの忌み言葉の部分ですよ、よろしいですね。つまりですね、もしお二人が悪い先例になってしまったら、私はどちらの味方をするわけにもいかないわけです。ゼミのOB会も、もの凄く気まずい雰囲気になってしまうんです。困るんです。ですから、どうか、どうか、末永く、お幸せに、よい家庭をつくっていってください。
最後に、ひとつだけ偉そうなことを申し上げます。いまお二人は、まだ26歳、27歳とお若いですが、これからすぐに、人を指導する立場、人の上に立つ立場になります。ですから、これからは常日頃から、自分が社会の中でどのような位置に置かれているのか、社会というと大袈裟かもしれませんが、まわりの人々の中で何を期待されているのか、そういうことを考えながら行動していってほしいと思います。それを心がけることで、自分が自信をもてる部分、人に譲るべき部分というのが見えてくるようになると思います。そのようにして、お二人の関係もうまくいくようになるのではないでしょうか。どうか、そのようにして、これから30代、40代と成長していくなか、くれぐれも幸せな家庭を築いていってください。
本日は、ほんとうに、おめでとうございました。

2013年02月04日

つつしんでご冥福をお祈りします

ボクの大好きだった市川団十郎さんが亡くなった。
悲しいのひとことです。ご冥福をお祈りします。
(以下はもうずっと前のブログの再録です)

市川団十郎

ついこの間、ボクの誕生日だったのだけれど、その時、ある方から、歌舞伎のDVDをプレゼントして頂いた。市川団十郎の「勧進帳」。もちろん団十郎は弁慶。富樫が中村富十郎、義経は尾上菊五郎という配役。

ボクは歌舞伎が大好きで、特に「勧進帳」を東京で演っているときは、必ず見に行くようにしている。しかも、現在活躍している役者の中では、団十郎さんの大ファン。このDVDをプレゼントしてくれた方は、ちゃんとそれを知っていて、選んでくれたのだ。あらためて、感謝、感謝。

さて、この団十郎さん、本当にすごい、と思う。ボクは、団十郎を襲名する前の市川海老蔵の時代も何度も観ていたのだけれど、ま、はっきりいって、その頃はあんまり好きではなかった。独特の声をしていて、それが耳について仕方なかった。ところが、団十郎を襲名した頃から、だんだん変わってきた。それまでは、耳について仕方なかったのに、しだいに、あの声を聞きたい、と思うようになったのだ。その上、いつのまにか、尋常ではないオーラが団十郎さんから出始めた。団十郎さんは、けっして背が高い役者ではない。しかし、見栄をきったり、にらんだりするときのスケールの大きさには、他の追随を許さないものをもっている。で、ボクは、ついに、あの声をきかないと歌舞伎を観た気がしない、団十郎さんが出てないと歌舞伎じゃない、とまで思うようになってきたのだから不思議なものだ。

もちろん、大名跡を継いで、団十郎さんが血のにじむように、精進に励んだことはいうまでもないだろう。日々稽古に稽古を重ねて、歌舞伎役者としての芸を極めていったのにちがいない。しかし、ボクには、どうもそれだけではない、というか、どうも逆ではないかと思えてならない。つまり、団十郎さんが歌舞伎を極めたのではなくて、(うーん、うまくいえないけど)歌舞伎が団十郎さんに近づいていったのではないか、歌舞伎の方が団十郎さんに引き寄せられ、飲み込まれてしまい、歌舞伎なるものが団十郎さんを軸にして新たに再構成されてしまったのではないか、そんな気がするのである。

なぜ、そんなことが起こりうるのか。そんなことがもし起こりうるとすれば、それはもう、芸とか技とかではなくて、魂の仕業でしかないに決まっている。いまの団十郎さんは、その点においては、本当に本当に稀有な役者さんなのではないか、と思う。魂のこもった振舞いは、人を動かし、何百年という伝統にでさえ新たな命を吹き込むことができる。一生のうち、一度でいいから、自分も、そんな仕事をしてみたいものだ。

2013年01月05日

ゼミ新年会(2013年)

皆さん、明けましておめでとうございます。
さて、本日、横浜にて、恒例の河野ゼミ新年会が開かれました。
まず、馬車道近くのキャプテン翼スタジアムで、2時間みっちりフットサル。現役生に加えて、4期生OBの木村君、奥村君が来てくれました。
3チームに分かれて、6分刻みでゲームをどんどん回していった。寒かったので、ボクは休むのが嫌で、人数が足りない方のチームに入って、動き回った。でも、やっぱり若い学生たちにはついていけない。タクミ、タクジ、ナオ、トルコ、ミツタケ、いつもながらいい動きをしていた。一方、ユイが絶不調で何本もシュートチャンスを逃していた。あとできいたら、昨日まで函館の実家で飲んだくれて、二日酔いだったのだそうだ。対照的だったのが、カナちゃん。ゴール前左に張って、何度も決定的なパスを味方に送っていた。エリコもチカも、あちらこちらに動き回り、楽しそうにしていた。イナタも、独特の(サッカーというよりはラグビーの)リズムで、頑張っていた。
どことなく、マノが元気なかった(おい、大丈夫か?)。あと、エモも、キーパーの時、結構イージーなボールをゴールされていた(ま、フットサルより、本当のサッカーが本業なんだよね)。
最後は、3年生v.s.4年生のガチンコ勝負。3年生チームに入った木村君の芸術的な後ろ向きヘディングシュートが決まり、これで勝負あったかにみえたが、4年生の根岸君が胸でトラップしたボールを倒れ込みながらそのままヴォレーして同点。いやー、最後まで白熱して凄いいい試合だった。
楽しかったです。
で、その後、これまた恒例の、中華街青葉新館に移動して、食事会でした。
木村君が婚約者を連れてきてくれて、ボクとボクの奥さんに紹介してくれた。
ラクロスをやっていたという体育会系の方で、木村君にはこの人しかいないだろうという感じの人だった。
かと思えば、食事会から参加の、同じく4期生出村君も、同じく婚約者を連れてきて、紹介してくれた。上智のボクの後輩にあたる方で、お互いを大切にしあっているというオーラが伝わってきた。
いやー、嬉しかったねえ。二人とも本当に素敵な女性で、われわれみんなに幸せを分け与えてくれました。うるさいゼミの新年会に来て下さって、本当にありがとうございました、末永くお幸せに。
というわけで、今年も、実にハッピーなスタートが切れました。
幹事のイセタン、本当にありがとう。
ゼミ生諸君、明後日からはまたゼミが再開しますよ。
今年も、ビシビシ、容赦なく、いきますからね。
みなさま、今年もどうぞよろしくお願いします。


2012年12月07日

Dave Brubeck

ボクがジャズを聴くようになったのには、いろいろなきっかけがある。まず、大学に入った時、母方の叔父からオスカー・ピーターソンtの「プリーズリクエスト」というアルバムをもらった。「ロックやフォークソングばっかり聴いてないで、少しは大人の音楽も聴きなさい」というメッセージが込められていたわけだ。たしかに、このアルバムは、短いスタンダード曲ばかりを集めたもので聴きやすく初心者向けであった。しかし、正直いって、これを聴いただけではあまりジャズに傾倒しよう、という気にはならなかった。
それからしばらくして、マンハッタン・トランスファーが日本で公演をして、それをテレビでみて、ボクは凄いショックを受けた。MTは、高校時代に留学していたアメリカで、Boy from New York Cityというヒットを飛ばしていたのを知っていたが、まさか本業がこんなにエンターテーニングなジャズのヴォーカル・グループだとは思わなかった。それ以降、ボクはMTのアルバムを買いあさった。そして、彼らが歌うジャズの名曲に、慣れ親しんでいった。
それでいつしか、ボクはスィングジャーナルという雑誌を買うまでに、ジャズに興味を持つようになった。このジャーナルが、ある時、名盤100選というのを特集していた。その頃はお金がなかったので、それを一枚一枚買い集めるなどということはできなかったが、ヒマを見つけてはその本で、誰が誰の影響をうけてどういう音楽を発展させてきたのか、を勉強した。
その100枚の中の一枚が、デーヴ・ブルーベックqのDave Digs Disneyだった。「ハイ・ホー」とか「いつか王子様が」とか、誰もが知っているディズニーのメロディーを明るくアレンジし、彼の真骨頂である変則リズムもとりいれ、しかもポール・デズモンドのサックスも生かした、素晴らしいアルバムである。その後、彼が大学にジャズを持ち込んで若い人たちにジャズを普及させ、圧倒的な支持を得たということを知った。実際、ボク自身、このアルバムを聴いて、他も聴いてみようと思うようになった。スタンゲッツ、MJQ、マイルド・デーヴィス、セロニアス・モンク、キース・ジャレット...。
しかし、ボクにとって、いちばん最初に聴いた、100選に選ばれたジャズ名盤は、このデーヴ・ブルーベックだったのである。
実は、ボクは、この自分の経験を、友人や学生たちにも伝承しようとしている。
もうずっと前、スタンフォードに留学していた時代にさかのぼるが、現経済産業省から留学していたS・Kさんが、「河野さん、ジャズのCDいっぱいもってますね、どれか聴きやすいオススメはないですか」というので、ボクは迷うことなく、このアルバムを渡した。そしたら、1週間ほどして彼から「落ち込んでいたのに、本当に気持ちが晴れやかになりましたよ」と連絡をうけて、とてもうれしくなったのを覚えている。
最近でも、ゼミ生たちから「先生、ジャズを聴いてみたいと思うんですけど、何から聴けばいいんですか」という質問を受けることがあるが、そうした時はいつでもボクは、このアルバムを推薦することにしている。
一度だけ、ボクは、生身のデーヴ・ブルーベックを見た/聴いたことがあった。イェールに留学していた時、ボクの住んでいた寮のすぐ近くのカレッジに彼が招かれて、演奏を交えたレクチャーをすると聞きつけたので、いってみた。はっきり言って、彼が何をしゃべっているのかは、(当時のボクの英語力では)よくわからなかった。しかし、小気味よいピアノの音は、今でもボクの耳に焼き付いている。

ボクの人生に、素晴らしい音楽を紹介してくれたことに感謝しつつ、心から、ご冥福をお祈りする。

2012年07月05日

一世一代の選曲

The following is the list of songs played at our wedding party on June 30th. Thank you all for coming and taking part in the special occasion!

(Opening)
1. String quartet in D major Op. 76 No.5 I. Allegretto (Haydn)
2. String quartet in D major Op. 76 No.5 III. Menuetto Allegro (Haydn)
3. String quartet in Eb major Op. 76 No.6 I. Allegretto Allegro (Haydn)
4. String quartet in Eb major Op. 76 No.6 III. Menuetto Presto (Haydn)
5. Me and You (Duke Ellington)
6. You Are Nobody ‘til Somebody Loves You (Dean Martin)
7. Nobody Knows You When You’re down And Out (Danny Kalb)
8. Partita No.3 in E major, BWV 1006 Menuet I (Bach)

(Welcome Speech)
9. Your Song (Kate Walsh)

(Serving Champaign)
10. Suites II No.7 HWV 440 in B-flat Major I. Allemande (Bach; played by Keith Jarrett)
11. Suites II No.7 HWV 440 in B-flat Major II. Courante (Bach; played by Keith Jarrett)
12. Suites II No.7 HWV 440 in B-flat Major IV. Gigue (Bach; played by Keith Jarrett)

(Toast)
13. Brandenburg Concerto No.2 (Bach; trumpet played by Wynton Marsalis)

(Background)
14. I’m Yours (Jason Mraz)
15. Cheek to Cheek (Ella Fitzgerald and Louis Armstrong)
16. Lili Marlene (Marlene Dietrich)
17. Them There Eyes (Billie Holiday)
18 Don’t Think Twice, It’s All Right (Bob Dylan from “No Direction Home”)

(Background continued)
19. Just You, Just Me (Nat King Cole)
20. This Can’t Be Love (Rosemary Clooney)
21. I’ve Got a Woman (Ray Charles)
22. When You Wish Upon A Star (Dave Brubeck Quartet)
23. I’m Just A Lucky So And So (Wes Montgomery)

(Game)
24. Jiving Sister Fanny (The Rolling Stones)
25. Haven’t Met You Yet (Michael Buble)
26. You Can’t Hurry Love (The Supremes)
27. This Magic Moment (The Drifters)
28. Don’t Be Cruel (Elvis Presley)

(Background)
29. L-O-V-E (Nat King Cole)
30. Les Trois Cloches (Edith Piaf)
31. Because (The Dave Clark Five)
32. The Circle Game (Joni Mitchell)
33. French Suite #5 in G, BWV 816 Gigue (Bach; played by Glenn Gould)
34. French Suite #5 in G, BWV 816 Allemande (Bach; played by Glenn Gould)
35. Tumbling Dice (The Rolling Stones)
36. Hello, Mary Lou (Ricky Nelson)
37. Natural Woman (Aretha Franklin)
38. It Never Entered My Mind (Miles Davis)

(Farewell)
39. When A Man Loves A Woman (Percy Sledge)
40. Don’t Stop (Fleetwood Mac)
41. Hymne A L Amour (Edith Piaf)
42. Both Sides Now (Joni Mitchell, orchestra version)
43. On The Sunny Side of the Street (Billie Holiday)

2012年03月26日

卒業おめでとう 2012

卒業おめでとう。
2年間、みんなと同じ時代を過ごすことができた巡り合わせに感謝しつつ、立派に社会へと巣立っていったことをうれしく思います。

♪いま、君は、門出に立っている…誇り高き勇者のように…♪。

本当にその通り。だから、昨日の二次会の席では、みんな寂しい、悲しいと言っていたけれども、今日からまた心(と涙腺)を引き締め、ひとりひとり、人生の勇者として振る舞っていきなさい。
二次会の席で誰かが、先生は悲しくないんですかと、ボクに訊いた。悲しいかと訊かれれば、悲しいに違いない。けれども「でも、また下から10期生たちが入ってくるから」と、ボクは答えた。時は常に流れていく。時が流れるから、この世は、美しいのである。君たちも、その流れの中にあるから、ボクの中で、お互いの中でずっと美しく輝く。
いろいろと、意味をつけるとか、解釈を施すとか、そういうことをしてはいけない。この2年間は、まさに、「自分が生きている証拠だけが充満し、その一つ一つがはっきりとわかっている様な時間」だったのではないか、と思う。意味づけられたもの、解釈されたものは、ちっとも美しくない。「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」のである。
これらの言葉を、ボクはいま、最近読み返したある有名な文章から引用しているのだけれども、その作者は、記憶と思い出すことの違いについて、書いている。それをボクなりにいいなおすと、記憶するとは、過去を過去の中に閉じ込めておくことである。それに対して、思い出すこととは、過去をいまとして生きることである。「記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう」と、この作者はいう。そう、思い出が美しくみえる理由を、誤解してはならない。われわれが過去を飾るのではなく、過去が「余計な思いをさせない」からこそ、それは美しいのである。
初めてのゼミに出席した時の緊張した顔、飲み会で「かんぱーい」といってグラスとグラスとを合わせた音、バレーボールをしたとき体育館いっぱいに響いていた笑い声、卒論にオーケーが出たときの安堵のため息。折りにふれ、つれづれなるままに、心を虚しくして、思い出してください。

河野ゼミ8期生のみなさん、卒業おめでとう。みんなの美しい人生に乾杯!

2012年03月16日

吉本隆明さんについての想い出

ボクは、文芸評論とか思想とかの本を読んでいた変わった高校生で、しかし、ボクの高校時代には、そのような変わった高校生をかわいがってくれる変わった先生たちが何人かいた。そのような先生たちは、学校の勉強と関係なく教え子たちを囲んで読書会をしてくれて、ボク(ら)の知らない評論家とか思想家とかの名前を出して、今度読んでみるといいよ、などと薦めてくれた。読書会は、先生たちの家にいって(ときにはアルコールを交えて)行われることもあった。そうした先生たちの家には、決まって吉本隆明全集がおいてあった。勁草書房の、飾り気のない薄茶色のボックスに入った、青色の帯がかかった、あの全集である。ボクの頭の中には、そのようにして、吉本隆明という名前と勁草書房という出版社の名前が刻まれることになった。
大学へと進学することになったとき、親から何が欲しいかと聴かれたので、ボクは、吉本隆明全集と小林秀雄全集(こちらは当時新潮社から新しいのが出たばっかりだった)が欲しい、とねだった。重いのに、親戚筋にあたる本屋さんが、家まで運んできてくれた。ボクは、大学に入るまでのあいだ、それらをつらつら読んだ。印象に残った論文には、鉛筆で線をひき、余白に感想を書き込んだ。この二つの全集は、今でも大事に、ボクの家の書庫にならんである。高校生のときにボクの書いた感想も、もちろんそのまま残っている。
時は、流れて、ボクは研究者としてなんとかひとりだちし、大学で教える身となり、その後『アクセス日本政治論』(日本経済評論社)という教科書の中で、日本政治の見方が戦後どのように発展してきたかという章を執筆することになった。ボクは、どうしてもその中で吉本さんについて触れたいと考えて、丸山真男氏との論争を紹介する形で、吉本さんの「自立の思想」や「大衆の原像」について書いた。ボクの印象としては、「在野」を貫いた吉本さんが、「正規の」というか、大学で教えられる政治学の中でまともに取り上げられることが少ないことが不満だったので、自分ではそのときとても大事な仕事をしたつもりだった。今でもよく覚えているが、平野浩先生と伊藤光利先生から、学会の懇親会の席で、それぞれ、そのことについてお褒めいただいたのが、とてもうれしかった。そうそう、そんな自負もあって、ボクは出版社の方に頼んで、一冊を吉本さんに直接献本してくださるようにと、お願いした。
時は、さらに流れ、縁があって、ボクは、勁草書房から、何冊か本を出させて頂くことになった。ボクにとってみればそれは光栄なことだった。あの吉本さんの全集を出した出版社から、ボクが本を出すことができるようになったんだと、噛みしめるようなうれしさが湧いてきた。
「井の中の蛙は・・・」という、あの鶴見俊輔さんに向けた有名な言葉は、一時だけ編集にかかわった、ある政治学雑誌の編集後記で引用させてもらった。そして、その政治学雑誌とは、ある事情で、訣別せざるを得なくなった。最後まで、身ぎれいに自分を貫いた吉本さんのことが、そのときも、ボクの心の片隅にあった。

謹んでご冥福をお祈りします。

2012年01月05日

2011年はどういう年だったか

みなさま、新年おめでとうございます。

年末や年始に「どんな一年だったか」ということを考える人が多かったと思う。
テレビでもラジオでもそのような放送をしていたし、雑誌でもそのような特集をしていた。
「どんな一年だったか」ときかれて、それを一言で表現することなど、なかなかできない。震災もあったし、ボクの場合は結婚もしたし、いろいろな記憶と感情が混ざり合ってしまって、ううっ、と考えてしまう。
しかし、ちょっと専門的な観点からすると、過ぎ去った去年という一年は、とても特徴ある年だったように思う。それは、エネルギーはあるんだけど、それが組織化されなかった年、とでもいうのだろうか。
たとえば、エジプトなど、中東の民主化。世界史的にみると、これは間違いなく、去年起こった事件の中で、圧倒的に最も重大な事件だった。そして、そこには、莫大なエネルギーが垣間みられた。次から次への国境を超え、そのエネルギーが旧体制を追い込んでいった。リビアのカダフィも殺されたし、シリアのアサドが追われるのも、もう時間の問題だろうと思う。しかし、エネルギーはあるんだけど、それが結晶化していかない。いったいどういう新しい体制ができるのか、どういうリーダーがでてきてどのように仕切るのか。組織化の行方が不透明であり、いまでもそうした状態が続いている。
あるいは、ニューヨークのウォールストリート占拠を皮切りに、世界にまで拡大した反体制、反市場主義の運動。結局、警察などによって占拠は排除されたが、最後まで、だれがリーダーとなり、何を目指しているのかが、わからなかった。ただ、エネルギーだけが充満し、組織化されずに終わった。これは、いま、アメリカの共和党の中にある、ティーパーティ運動についても言える。反体制、反ワシントン、反オバマで、ものすごいエネルギーがたまっているのに、それをまとめる組織としては、何もない。
そして、日本における、震災からの復旧や復興にむけた取り組み。多くの善意があり(もちろん多くの悪意もあるが)、たくさんのボランティアが動き、莫大な予算が投入され、文字通り、国家をあげたエネルギーが、そこにつぎ込まれている。しかし、ここにも、命令系統や意思疎通がはっきりしないという問題、いってみれば組織化の未熟さの問題がある。
われわれは、携帯電話やsocial networkなどによって、人々を動員することが前よりも安価にできることになった。その反面、組織をつくるという能力を失ってしまったのかもしれない。これは、結構卑近な問題である。どのようにして、ゼミをまとめるか。そしてゼミOB会を、みんなが楽しく意義あるものと思ってもらえるようにしていくか。

2011年12月23日

2011年 ゼミOB会

ちょっと前になるが、12月恒例のOB会があった。
場所は、リーガロイヤルホテルのサファイアの間。数日前に担当の戸倉君から、ドレスコードは「セミフォーマル」という指示が入って、現役生たちがちょっと緊張していた。
今年は、卒業以来一度も会ってなかった畑中君、ようやっと資格試験に通ったといううれしい報告をしてくれた奥村君、新しい道を歩み始めた黒木さん、などなど、久しぶりに来る人たちもいた。みんな、変わってなかった。そう、人間なんて、そう簡単に変わるわけない、のである。
卒業生たちは、やあやあと肩を叩いたり、よおよおと胸をついたりしながら、お互いの人生の健闘を讃え合っていた。現役生たちは、そんな彼らを、最初は遠巻きにしていた。気を使い、先輩たちだけで楽しむ時間を与えていたのだ。でも、しばらくたつとだんだんと輪の中に加わって、本当に楽しそうにしていた。先輩たちも、若い後輩たちに声をかけられ、うれしそうだった。今年も、先輩と後輩とがつながって、よかった。
大学の中で、ボクが学生に対してできることは、いろいろある。勉強を教えることもできるし、大人の作法とかを少しは教えることもできるし、たまには恋愛相談にのってあげることもできる。
しかし、卒業生たちに対してできることは、あまりない。彼らはもう立派な社会人だし、意見やアドバイスをうけるべき大人もほかにたくさんいるだろうし。だから、ボクにできることは、こうしたOB会や、あるいは同期の同窓会のような場で、ボクや大学時代のことをダシにしながら、それぞれの人生にアクセントをつけていってもらうことぐらいなのである。
今年、On the Roofは3曲ご披露した。1曲目は「あの素晴らしい愛をもう一度」。これは、ふつうは失恋の歌だと思われているけど、そうではなく、若いときの純真さを取り戻したいという、大人の心の叫びなのではないかと思う。だから、OB会で演奏するのにちょうどいいかな、と。布施君とボクのアコースティック2本と小樽君のベース。2曲目は、アカネのピアノが加わり、ハナちゃんが「恋人はサンタクロース」を歌ってくれた。今年も、サンタ帽子をかぶっての演奏。そして、3曲目は、ボクがどうしてもこれを歌いたいといって練習したコブクロの「エール」を演奏した。ハナちゃんがきれいなハーモニーをつけてくれ、アカネが小気味よいピアノの間奏をつけてくれた。おかげで、実に気持ちよく歌えました。
終わってから、「先生、最近は奥さんの影響で、Jポップを聴くようになったんですか」と、誰かから聞かれた。別にそんなわけでもないけど、でもいつかは、斎藤和義を歌いたいと思っている。
みなさん、よいクリスマス、そしてよい年をお迎えください。

2011年07月27日

盛りだくさんの7月

震災の影響で今年は授業開始が遅れたため、最近になってゼミ関連の活動が目白押し、という感じでした。
まずは、久米先生のところと合同ゼミ。
日経の「経済教室」に掲載されていた二人の政治学者の論考をディスカッションの題材に使って、おおいに盛り上がった。そのあとの懇親会も、初対面にもかかわらず、みな打ち解けていた。これからキャンパスで会っても知らんぷりせず、お互い友達の輪を広げてもらいたいものだ。もちろん、久米ゼミのみなさん、ボクにも声をかけて下さいね。
次は、合宿。場所は河野ゼミ恒例の菅平。
サッカーでは、女子の多い4年生チームが3年生チームに圧倒された。ボクも4年生チームに入ってがんばったが、いかんせん、最近は体力が衰えてたいした力になれなかった。そういえば、ボクが投手だったソフトボールでも打ち込まれて、負けてしまった。しかし、午後のバレーでは、(3年生の中に無謀かつ滑稽な片手オーバーハンドレシーブを試みる人がいて)一矢を報いることができた。
朝のジョギング、3年生の女子たちとのUNO、火を起こすのに1時間もかかったバーベキュー、シングルスで1ゲーム勝たしてもらったテニス、などなど、楽しい想い出がたくさんできました。
そして、夏のOB会も挙行された。
今年も遠くから駆けつけてくれた人、忙しいのに深夜を過ぎて2次会あるいは3次会から参加してくれる人がいた。本当にありがとうね。新メンバーとなったわれらがOn the Roofも、あまり練習時間がなかったのに、ちゃんと3曲演奏できて、よかった。そのうちの1曲は、ボクと妻に捧げられていて(それからみなさんからお祝いもいただいて)感激しました。
納会は、北京大学からの留学生であるパクさんの送別会をかねて行った。試験が近いのに、また最近は出費がかさんでいるだろうに、みんなよく集まってくれました。
早稲田に赴任したとき、(前任校での反省もあって)とにかく10年はがんばろう、がんばって学生たちに愛され尊敬されるようになろう、と心に決めてやってきたが、ここまで本当に素晴らしい学生たちに囲まれるとは思わなかった。来年は、とうとう10期生が入ってくることになる。いつまで体力や知力が続くかわからないけど、もうあと5年、いやできるだけ長く、これからもボクも頑張るので、みなさんよろしくお願いします。

2011年03月24日

卒業おめでとう 2011

卒業おめでとう

河野ゼミ7期生のみなさん。卒業おめでとう。
東北・関東大震災により、卒業式は中止となりましたが、ひとりひとり胸の中で、大学時代の記憶をたどり、自分が達成したことと達成できなかったことを噛みしめてください。
ボクのゼミにおいては、君たちは、この2年をかけて優秀な卒業論文を完成させ提出しました。おそらく、2年前には、誰ひとりとして、そうできると確信していた人は、いなかったのではないでしょうか。
そう、成長とは、自分が成長しているときには気づかないもの、それは、あとからふと気づいて確認するもの、なのです。
君たちは、この2年間に、確実に成長しました。
そのことに、大きな自信を持って下さい。そして、これから社会に出て行っても、さらに才能を伸ばし、立派な仕事を成し遂げていくことができるのだと、信じて下さい。
君たちがゼミに入ってきた頃、ボクは体力に限界を感じ、スポーツを通じてうまく交流することができなくなるのではないか、と心配になっていました。そこで今年度は、新しい試みとして音楽をやってみました。前からあこがれていたバンドを組み、みんなの前やOB会で披露させていただいて、本当にうれしかったです。
君たちは、よくボクに、なんでそんなに若々しくいられるんですか、とききます。
それに対して、ボクはいつも「若い君たちから、若さを吸収させてもらっているからだよ」と答えてきました。それは本当です。しかし、最近、より本質的なことに気づかされました。それはピカソの次の言葉に象徴されています。「若くなるには、時間がかかる」のである、と。
そういえば、どの分野においても、新しいことへの挑戦は、実は、ある程度経験を積んだ人にしかできないし、させてもらえないですね。いままで知らなかった多くのことを知りたいと思うようになるのは、そもそも自分が何を知っているのかをある程度把握するようになったからこそ、ですよね。
人は、自分のたつ境界が見えたときに、はじめてその外に出ることができる。
いま君たちは、成長の軌跡の中で、大学と社会という境界に立っている。
これからは、その境界を突き抜けて、どんどん若返っていきなさい。
仕事も、スポーツも、音楽も、そして勉強も、ずっと続けていきなさい。
いくつになっても、ボクと一緒にサッカーをし、バンドを続けられるよう、いてください。

河野ゼミ7期生に、乾杯! 

2011年03月15日

続 拝啓 枝野官房長官さま 

僭越ですが、あなたの記者会見の仕方と政府の危機管理について、何点か愚見を申し上げます。

1.記者会見は、定期的に行うことが望ましいです。今回のような重大な危機の場合は、1時間ごとに行うことが望ましいと思います。発表することがなくても行うことで、聴いている国民は「この一時間の間には発表するに値することがないんだ」ということがわかり、安心します。記者会見のタイミングを政府の側が勝手に決めるのでは、そのこと自体で情報の操作が行われている、という印象を与えます。

2.あなただけが記者会見を行うべきではありません。あなたと副官房長官が交代で行うべきです。「ずっとがんばってるけど、寝不足で倒れちゃうんじゃないの」という懸念を与えることはよくありません。聴いている国民は、自分の健康管理ができないものに、国家の危機管理ができるとは絶対に思いません。また、危機管理に関する情報開示が特定の個人の依存せず、政府というシステムとして機能していることを見せることも、非常に重要なことだと思います。

3.記者会見は、短く行うべきです。あなたは、ほかにもフォローすべきニュースがあるのですから、10分と限って行うべきです。

4.事実関係を正確にわかりやすく述べるようにし、「相当な」とか「若干の」とか、意味のない形容詞は使うべきではありません。聴いている方に、さまざまな解釈の余地を与えるような会見をするのであれば、情報開示をしていないのとまったく同じことです。

4.自分たちは「一生懸命やっている」とか「最大限努力している」ということは、会見で繰り返しいうべきではありません。そんなことは、国民は、当たり前だと思って聴いています。

5.菅首相が東京電力に対し、「連絡が遅い」と怒ったそうですが、これは、政府の危機管理能力の欠如を公表する以外のなにものでなく、そのことだけでも政府の危機管理として好ましくありません。菅さんは「連絡が遅い」ことが、まるで東京電力の責任だったかのような印象を与えていますが、東京電力に情報開示をさせることができないのは、ほかでもない政府の責任なのです。誤解しないでください。

2011年03月12日

拝啓 枝野官房長官さま

本日(3月12日)の夕刻に、あなたの行った記者会見は、世紀の会見でしたね。
あなたは、この会見を通し、自らの身をもって、というか、もしかしたら自らの政治的キャリアを犠牲にするほどの「バカ」を装って、原子力行政の問題点を告発しようとしたのですよね。いや、すごかったですよ。みんな、わかったと思いますよ、原子力発電施設についての情報開示が、いかに日本で足りないのかを。ほんと、100パーセント、納得したと思いますよ。
だって、そうですよね。
記者会見って、そもそも、なにか意味のある情報を出すために開くものですよね。特にあのときは、国民だれもが、長い間待たされたうえで、注目している会見でしたのものね。ところが、あなたは、「自分はまだ何もはっきりしたことはいえない」といい続けた。かたくなに、一貫して。そう、だから、あなたは、言外に「あんたたち、察してよ、オレ、ホント、まだなにも教えられてないんだから」っていうメッセージを、一生懸命送ろうとしていたのですよね。「保安院、東京電力、ね、しょうがないでしょ、遅くて、こいつら」って、本当は、ぶちまけたかったんですよね。
それにしても、ほんと、あの「爆発的事象」っていう言葉は、よく思いつきましたね。天才的でした。「爆発」じゃなくて「爆発的事象」。荒唐無稽っていうのは、こういうことをいうんですね。あれは、「あんたたち、察してよ、オレ、もっとはっきりいいたいんだけど、いわせてもらえないんだから」っていう、皮肉をこめたメッセージだったんですよね。
チェーンメール批判も、実は「もっとやれやれ」って、あおっていたんですよね。だって、政府がきちんと先回りして正しい情報を出していれば、変な風評が影響力をもつなんてこと、あり得ないわけですもんね。だから「もっと、チェーンメールがでまわり、根も葉もないことがいっぱい語られないうちは、政府には情報出す十分な圧力がかからないんだから」っていう、内部告発の意味があったんですよね。
でも、枝野さん、もしかすると、うん、もしかすると、ですよ、聴いていた人のなかには、あなたの隠れたメッセージを読み損なってしまった人もいたかもしれませんよ。だってあの会見では、「世紀のバカ」を装うあまり、ほんとに、ひとかけらも、被爆してしまうかもしれない人たちへの情愛が感じられなかったですもの。会見の中で、この問題に対しては、人々の「関心が高い」っておっしゃられたけど、国民は高見の見物をしているわけではなく、「心配」し「憂慮」しているんですよ。ここのワーディングは、ちょっと演出としても、行き過ぎじゃなかったですか?
それから、国家が危機に瀕しているときに、あんなに長ったらしく、繰り返しの多いスピーチさせられちゃうと、いかにあなたの意図がすばらしいものだったしても、「これ、いくらなんでも醜い」って、思うクリティカルな人も出てきちゃうかもしれませんよ。限られた時間のなかで、記者からの質問をなるべく封じ込めるために、長めにしゃべったんだと思いますけど、ね、枝野さん、ちょっとあからさまだったんじゃないですか、あれは?

2011年03月08日

トロント訪問

国際交流基金トロント日本文化センターのご厚意で、カナダのトロントを訪れた。ボクは、センターとトロント大学で講演させて頂いたのであるが、大学側との折衝、会場の手配、チラシ作りやネットを通してのPR、ホテルの予約など、本当に何から何まで、ここのスタッフのお世話になった。おかげさまで、最近の研究成果の一端を報告し、さまざまな方からコメントをいただくという有意義な機会に恵まれた。ありがとうございました。
このうち、トロント大学での講演の方は、由緒あるMunk School of Global Affairsのアジア研究所が共催してくれた。当日会場に着くと、サンドウィッチやコーヒーが用意されている。カレンダーを見る限り、ここのSchoolや研究所では、つねにたくさんの研究会が催されている。そんな中、ボクの発表にも30人ほどが聴きにきてくれた。
司会をして下さったのは、政治学部のJoe Wong教授。実は、この方、偶然なのだが、今トロント大学で勉強しているボクの娘の政治学の授業を担当している先生であった。娘の手前、こちらとしては、ぶざまな発表はできない。というわけで、結構、プレッシャーに見舞われた。しかも、当日発表したのは、日本語でも英語でも初めて発表する内容で、終わってからもフロアーから矢継ぎ早に厳しい質問が飛んできた。結局、おいしそうなサンドウィッチを楽しむ余裕など、まったくなかった。
日本文化センターでの講演も、これまたありがたいことに、100人ほどが入るホールがほぼ満席となる盛況だった。聴衆の顔ぶれは、大学関係者のほか、日本から来ている若い学生や院生、日本に関心を持つ地元企業・団体の代表たち、そしてこちらに移り住んだ日系人の方々など。このセンターの活動は、貴重な人的ネットワーク作りに貢献しているばかりか、最近北米において低下している「日本」のプレゼンスを下支えするという、実に重要な役割を果たしているのである(そう、国際交流基金の英語名は、ずばりJapan Foundationである)。建物の中には、日本関係の本や雑誌、映画DVDや音楽CDがおいてある図書館もあり、一般に開放されている。ボクも講演の前に覗いてみたが、そこではボランティアの人たちが生き生きと、いろいろな仕事をこなしていた。いわゆる「事業仕分け」などによって予算が削られる中、ジャパンファンやジャパンウォッチャーを増やそうとしているセンターの地道で誠実な努力には、ひとりの国民として、頭が下がるばかりであった。
さて、こちらの方の講演の後では、ウォータールー大学から来てくれたDavid Welch教授が、ボクの(公でする)講演を初めて聴いた娘に、なにやら話しかけていた。そして、彼はボクにいわく、「あなたにとって、もっともクリティカルな聴衆の一人は、あなたの講演に合格点を与えていましたよ」、と。ふー。
トロントでは、前から知り合いのトロント大学の先生と旧交を温めたり、娘の新しい友人たちと食事することもできた。ちなみに、泊まったホテルのすぐそばのMercurioというイタリアン・レストランおよびカフェが気に入り、朝、昼、晩と、何度も利用しました。Bloor Streetにある、Kenzoというラーメン屋さんでは、日本でも十分通用するぐらいおいしいトンコツラーメンが食べられました。また、イチローがトロントに来ると必ず行くというHiroという日本料理店にも連れて行って頂き、素晴らしい創作料理を楽しみました。そして、日本人経営ではないようですが、New Generationというすし店のサーモンの握りは、本当においしいと思いました。以上、2011年春の、ささやかな旅行記でした。

2011年02月18日

Dear Ms. Lara Logan:


I hope that you are making a steady recovery at home in Washington.
I know that your family is right besides you at every moment.
I trust that you have all the care you need to cope with the hardship.
But, let me say that there are millions of people in this world, like myself, whose thoughts have been with you ever since learning the horrific news.
We all wish you peace.
We all wish your dream get lifted again.
And, we all wish you the strength to let love flow and go on.
Ms. Logan, you have been a worrier at the forefront of war against journalism.
Your cause and your courage, I admire deeply.
You have for so long tried to carry the world upon your shoulders.
You have never played it cool, since you know much better than a fool.
But, for now, please rest, and let the living room fire warm up your soul.
Be assured that we won’t forget what you have already accomplished to make this world better known to us.
In Iraq. In Afghanistan. And, in Egypt.
Be assured that we won’t forget what you have already accomplished as a role model for aspiring female youngsters.
Being a swimsuit model. Being a professional journalist. And, being a mother.
And, be assured that we won’t forget how bravely you will overcome this difficult time in your life.
Ms. Logan, I do not know you, and you do not know me.
But, let me say once again that there are millions of people in this world whose thoughts have been with you for all this time.
We all wish you peace.
We all wish your dream get lifted again.
And, we all wish you the strength to let love flow and go on.

2010年07月04日

An Accomplishment

Senior School Prefect (2010)
Junior School Prefect (2005)
Athletic Council (2005, 2006, 2007, 2008, 2009, 2010)

First Responder (2008, 2009, 2010); Honour Roll (2005, 2006, 2007, 2008, 2009, 2010); Breaking Boundaries Leadership Conference (Co-Founder/Co-Chair 2008, 2009); CAIS Student Leadership Conference (2008); Yearbook Designer (2007, 2008); Recognition of Service Pin (2007, 2008, 2009, 2010)

Varsity Soccer Team (2005, 2006, 2007, 2008 as Captain, 2009 as Captain, 2010 as Captain); Volleyball Team (2006, 2007, 2008 as Captain, 2009 as Captain, 2010 as Captain); Basketball Team (2006, 2007); Triathlon Team (2005, 2006); Soccer Athletic Pin (2006, 2007, 2008, 2009, 2010); Volleyball Athletic Pin (2006, 2007, 2008, 2009, 2010); Basketball Athletic Pin (2006); Volleyball Provincial Silver Medalists (2007); Volleyball Provincial Bronze Medalists (2008): Golden Boot Single ‘A’ Provincials (2009); LMISSGVA Volleyball Team All Star (2008); Highroad Academy Tournament Team All Star (2008); Guilford Park Team All-Star (2009); Varsity Soccer Most Valuable Player (2007, 2009); Single ‘A’ Soccer Commissioner’s Most Valuable Player (2007); Volleyball Most Improved Player (2007)

John and Rosemary MacDougall Athletic Scholarship (2007); Grade 8 Athletic Scholarship (2006); Mirikitani Citizenship Award (2007); Most Outstanding Female Athlete (2005); Note Taker (2007, 2008, 2009, 2010); Social Studies Merit Award (2007); Drama Merit Award (2007); Yearbook Merit Award (2008); Japanese Merit Award (2008); French Merit Award (2008); Citizenship Award (2007, 2008, 2009)

Bell Walk for Kids (2006, 2007, 2009); Union Gospel Mission Volunteer (2006); Student Leadership Retreat (2006, 2007)


(For those of you who have watched us grow over the last 17 years, it is my great pleasure to report that my daughter has graduated from high school recently. We thank you for your support, friendship, and love over these years that have made it all possible. Elly, nothing in the world makes me more proud than being your father. Congratulations!)

2010年06月29日

ある乾杯

Toast to the Parents:

My mother recently posted this on our fridge – “Job Description for a Parent”.

Job Description: Long term, permanent work in a challenging environment, including weekend, evening, and occasional 24 hour shifts.
Responsibilities: The rest of your life – must be willing to be hated, until someone needs five dollars. Must be willing to be indispensable one minute, and an embarrassment the next. Must screen phone calls, maintain calendars, and coordinate homework and extracurricular schedules. Responsibilities also include janitorial duties.
Possibility for advancement and promotion: None. You must remain in the same position for years, without complaint.
Benefits: No health or dental insurance, no pension, no tuition reimbursement, no paid holidays and no stock options offered.

After the reading this job description, it perplexes me why anyone in their right mind would apply for such a position.

And, as you stand at the seventeen year milestone of your career as a parent, we, your children, have a message for you; though it may not seem apparent the majority of the time, we are in awe of your organizational skills, your culinary abilities, your patience, your wisdom, and your unconditional love.

So, on behalf of everyone in this graduating class, we are eternally grateful you took the job.

Lets raise a glass to toast the parents.

(This toast was made by Renee Reimer on May 29th, at Pavilion Ball Room, Sheraton Wall Centre, Vancouver, Canada; for a full version of the job description, see http://outsiderlooking.livejournal.com)

2010年04月01日

卒業おめでとう 2010

河野ゼミ6期生のみなさん、卒業おめでとう。
君たちがゼミに入ってきた頃、ボクはちょうどサバティカルをスタートし、この2年間、ボクの学生との接点はほとんど君たちに限られていました。そんななか、君たちに会いに、月曜日に大学に向かうことが楽しくて、ボクの生活に大事なリズムを作ってくれました。飲み会、合宿、旅行など、とても多くの想い出もできました。君たちのおかげで、この2年間、ボクの人生が豊かなものになりました。本当にありがとう。
このブログを読む時は、君たちはすでに新しい生活をはじめているでしょう。追いコンの時にいったように、あまり過去を振り返ってはいけません。過去を振り返り、大学時代はよかった、ゼミは楽しかった、などと考えるのは、今を十分に生きていないからです。これから、君たちは、大学までとは違う魅力ある人々に出会い、この世界に生まれる多くの人が想像もできないような恵まれた環境で仕事をする機会を得て、自分が生きていることの素晴らしさを感じ、幸福を追求できるのです。広く自分の心を開いて、いろいろなことを受け止め、大きく育っていってください。
先日、トーマス・ジェファソンのゆかりの地、Monticelloを訪れた時、ガイドの人が面白いことを語っていました。ジェファソンが大統領になった頃、センサス、日本でいうところの国勢調査が行われました。ジェファソンのところにも係りの人がやってきて、職業は、と尋ねました。すると、彼は「大統領」でも「政治家」でもなく、farmer、つまり農民と答えたのだそうです。もちろん、彼は独立宣言の起草をはじめ、多くの自分が成し遂げてきた業績を誇りに思っていました。しかし、彼は、できることなら、美しいMonticelloに引きこもって、農作業にいそしみたかったのだ、と伝えられています。
大きな富を得ても、さまざまな業績を積み重ねても、人のうらやむようなパートナーと結婚することができても、自分なるものが揺らぐことはないのです。いや、揺るがない自分があるからこそ、人は人生に成功するのです。

卒業にあたって、今年はジェファソンの以下の言葉を贈ることにします。

In matters of style, swim with the current; in matters of principle, stand like a rock. (Thomas Jefferson)

卒業に、そしてこれからの幸せな人生に、乾杯!

2010年01月24日

2010年1月マイケルとの夕食

娘の親友アダの父マイケルからメールが来て、たまたま日本に来ることになったので、夕食を一緒にできないかというお誘いを受けた。彼が日本を訪れるのは、3度目。東京あたりの路線マップにはもう慣れたもので、渋谷のハチ公前で待ち合わせて、再会した。何を食べたいかと訊くと、「鰻」というので、勝手知っている店ののれんをくぐった。
ボクは、アダを生後9ヶ月ぐらいの頃から知っている。だから、マイケルとの付き合いも17年近くということになる。どちらも、今年高校を卒業し大学へと独り立ちをしていく子供を抱えている身である。しみじみ、これまでのこと、これからのことをいろいろ話した。
まず、自分の娘も相手の娘も本当にうまく育ったと、お互いに「健闘」を讃え合った。そして、娘たちの間に切っても切れない友情が堅く結ばれていることを、うれしく思うと、感謝し合った。二人はそれぞれ違う大学へ進学する。ともに18年ずっと育ったバンクーバーを離れることになる。でも、きっと二人はこれからも変わらぬ親友であり続けるだろうし、その安心感が二人の人生にとってはかけがいのないものだ、と思う。ということで、よかった、よかったと、酒も食も進んだ。
その後、子供を育てあげた親なら誰もがくぐり抜けることになる熟年人生の変化について、語り合うことになった。奥さんは、アダを独り立ちさせることを受け入れるのが難しいのではないか、と訊くと、やはりそうらしい。「なかなか手綱を離したがらない、離さなきゃいけないとはわかっているんだけどね」、と。
マイケルは、ニューヨーク出身である。奥様もどちらかというと都会派。「どうするの、今の家は引き払うの」と訊くと、いずれそうなるかもしれないが、夏のバンクーバーは過ごしやすいので、両方で暮らすことを考えている、という。アダにとっては、バンクーバーが故郷であるし彼女がいつでも帰ってこれるところがあった方がよい、ともいう。
いうまでもないが、人は子供をもってはじめて親になる。だから、人は、親としてなにをどのようにすればよいのかを、実は子供を育てながら実地に学んで行く以外にない。同じことは、子供が育ったあとの付き合い方についてもいえる。大人として育った我が子とどのようにして接するか、これも、大人になった子供と実際にコンタクトを取り続けながら、実地に学んでいく以外にない。そして、もうひとつ。人は、子供を育て終わったあと、自分の人生をどのように再設計するかも、人生を実際に歩みながら考えていく以外にないのである。
その夕食を通して、ボクとマイケルは、そうしたあたりまえのことを自分たちなりに受け止めて、それぞれ自分に納得させようとしていたにすぎないといえる。
最後に、今年の前半のお互いのスケジュールを確認し合った。卒業式や卒業ディナーなどで会いましょう、と。そして、よかったらいつか娘とニューヨークに遊びにきてくれと誘われたので、ボクもいつでもまた日本に来てくれと返して、別れた。そのようにして、我々は、子供を育て終わった後の人生の中にお互いがちゃんと入っているんだよ、ということをメッセージとして伝え合ったのであった。

2009年08月29日

人は死に、夢は生き続ける

エドワード(テディ)ケネディーが亡くなった。
いつも夢を追い、語っていた。夢は、どこに由来し、どのようにして受け継がれてきたのか。

Declaration of Independence:We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal, that they are endowed by their Creator with certain unalienable Rights, that among these are Life, Liberty and the pursuit of Happiness.

Martin Luther King:I have a dream that one day this nation will rise up and live out the true meaning of its creed: "We hold these truths to be self-evident: that all men are created equal."

John F. Kennedy:The problems of the world cannot possibly be solved by skeptics or cynics whose horizons are limited by the obvious realities. We need men who can dream of things that never were.

しかし、兄ジャックも、キング牧師も暗殺されてしまう。そして、もうひとりの大切な兄ボビーも。
声を震わせて弔辞を読んだテッドは、その最後をボビーが好んで引用した言葉で締めくくった。

Some men see things as they are and say, 'Why'? I dream of things that never were and say, 'Why not'?

なお、これはアイルランド人の演劇家George Bernard Shawからとったもので、それはまた1963年に長兄ジャックがアイルランド議会での演説でも引用した言葉でもあった。

一人残されたテッドは、それでも夢を追い続ける。

1980年、カーターに敗れ民主党大統領候補になれなかった時の演説の最後の一節。
For me, a few hours ago, this campaign came to an end. For all those whose cares have been our concern, the work goes on, the cause endures, the hope still lives, and the dream shall never die.

そして、2008年民主党の大統領候補がオバマに決まったときの演説。病をおして駆けつけて、11月の選挙でオバマが大統領になることを確信し、28年前とちがって、前向きに、次のように締めくくった。
And this November the torch will be passed again to a new generation of Americans, so with Barack Obama and for you and for me, our country will be committed to his cause. The work begins anew. The hope rises again. And the dream lives on.

彼の熱のこもった名演説はもう聴くことができないが、彼の夢はわれわれの心の中に生き続けている。
ご冥福をお祈りします。

2009年05月23日

テレビ出演の大騒ぎ

知っている人は知っているが、この前あるテレビ番組に出させていただいた。有名なゲストを相手にするインタヴューのお手伝い、といった役回りであった。ボクは実は、前にNHKの国際放送(英語)で、テレビ・ラジオあわせて結構頻繁に出ていた時期があるのだが、その時はまあ国内にはそれほど視聴者がいないからいいかな、ということで引き受けた。しかし、今回は、生放送で2時間、政治に関心のある多くの人たちがみるような番組である。出演が決定した時点から、緊張しっぱなしであった。
そこで、自分なりに下準備をした。まず、その番組は毎日やっている番組なので、前の週に一度下見にいき、スタジオの隅の方で2時間ずっと番組の進行を見学させてもらった。いったいどのぐらいの人数のスタッフがまわりにいて、コマーシャルの時はどうするのか、とか、自分の前に置かれる机は資料を置けるぐらい大きいか、とか、スタジオの温度はスーツを着ていっても暑くないか、とか、をチェックした。おかげで、前もってスタッフの方々の名前と顔も覚えることができたし、当日、サプライズ要素は少なくてすんだ。
それから、自分が出演している場面を想像していたら、その場でメモを取ることが必要だと思えたので、新しいノートバッドを買いにでかけた。ボクは、どういうわけか、それは黄色いノートパッドでなければいけないという気がしていた。アメリカの大学の生協などにはよく売っている、あの黄色いノートパッドである。なぜそうなのかといわれるとまったく理由もないのだけれども、こういうのは自分勝手に想像しているイメージだから、しょうがない。黄色いノートパッドは、日本ではあまり見たことがないが、週末に同志社で行われていた学会で、たまたま浅野正彦先生がそのまさにボクの思い描いていたノートバッドをもっていたので、「それ、日本だとどこに売っているんですか」と聞いてみた。そしたら、「オフィスディーポになら売ってます」ということだった。それで、ボクは、近くのオフィスディーポまで歩いていって、こだわりの黄色いノートパッドをちゃんと手にいれることができた。
当日は、スタジオに入る前に、床屋でさっぱりと髪を整え、髭もそってもらおうと、前から決めていた。それで予約を取るために「文化理髪」に電話した。ところが、なんと、その日は第3火曜日でお休み、ということが判明した。これには、参った。こういう小さな歯車のズレみたいなところから、自分に自信を無くして、失敗の連鎖につながるんじゃないか、という嫌な予感が走った。それで、この嫌な雰囲気は吹き飛ばさなきゃ、と思い、ジョギングに出かけた。5キロを結構速いペースで走り、汗をビッショリとかいた。床屋さんの熱々タオルで癒される代わりに、自分で精神的にも肉体的にもスッキリとさせておきたかったのである。
さて、残った時間では、自分なりにどういうしゃべり方をすればいいのかを、いろいろ思い悩んだ。それで、You-tubeで、お気に入りのキャスターのしゃべっているところをいろいろ聴いてみた。George Stephanopoulos、Tom Brokaw、古いところではDavid Brinkleyなど。ボクは前から保守派の論客のGeorge Willの自信ありげなしゃべり方がかっこいいなと思っていたので、彼のクリップもじっくり見たが、自分にはこういうしゃべり方は絶対できないと思い、諦めた。結局、いちばん参考になったのは、大好きな(前にブログでも紹介したことのある)Peter Jenningsであった。彼の、無駄をとことんそり落としていくセリフのつくり方、雰囲気の出し方が、いちばんいいのではないか、と思った。もちろん、当日、自分がそれをうまくできたかどうかは別であるが、それを意識していたことだけは、本当です。

2009年04月08日

「脅し」と「警告」、そしてシェリングの誤訳について

最近、北朝鮮のミサイル発射にともなって、北朝鮮の意図と日本の対応について、さまざまな人がメディアで論評していた。ボクもいつか、このことについて何か考えをまとめたいと思い、そのヒントとなるかもしれないと、自分が監訳したシェリングの『紛争の戦略』を読み返していた。そうしたら、ですね、恥ずかしい話ですが、肝心な部分を誤訳していることに気づいてしまいました。読者のみなさん、そしてシェリング先生、ホントに申し訳ありませんでした。出版社には早速連絡をとりまして、次の再版(があればの話ですが)のときに、もう一度全部チェックしてこうした誤訳を極力なおして行くようにしたいと思います。
で、今回のその肝心な部分とはどこか、というと第5章の註5、シェリングが「脅し」と「警告」を区別しているところである。一般的な用語ではこの二つを合わせて脅しといっているが、シェリングは違うといっている。(正しい訳)≪一般的な用語では、「脅し」とは、ある人が敵対する者に対して、従わないと損害を与える行動をとることを示唆したり、想起させたりすることをさすこともある。しかし、その人がそうした行動をとるインセンティヴをもつことが、明白でなければならない≫。ここで重要なのは最後の一節で、そうした行動をとるインセンティヴがその人にあるかどうかによって、本当の脅しかどうかが決まる、とシェリングは考えている。≪たとえば、家へ侵入してきた者に対して警察を呼ぶと「脅す」ことが、これに当てはまる。一方、その者に対して撃つぞというのは、これに当たらない≫。なぜなら、一般の人が銃を撃って人を殺すインセンティヴを持っているとは思えないからである。ゆえにシェリングはいう、≪こうした後者のケースについては、違う言葉を用いる方がよいかもしれない――私は「脅し」でなく「警告」という言葉を用いることを提案する≫。
さて、北朝鮮のミサイル発射に対して、日本は日本の領域に落ちてきたら「撃ち落とすぞ」という姿勢をとった(①)。それに対して、北朝鮮は「撃ち落としたら戦争行為とみなし、日本に対し宣戦布告する」という姿勢をとった(②)。幸いなことに、そのような展開にはならなかったが、①と②がそれぞれシェリングのいう意味での本当の「脅し」となっていたかどうかを考えることは興味深いし、日本の安全保障にとって重要なことのように思える。なので、いまの時点でのボクの見解をまとめておきたい。
順番に考えていこう。まず①については、侵入者に対して撃つぞといっているのであるから、これは一見シェリングの中にでてくる「警告」の例そのもののようにも思えるが、今回の日本の対応は、ただ撃つぞと言っただけでなく詳細な行動を伴うものであった。すなわち、イージス艦やPAC3を配備し、しかもその配備の状況を大々的にメディアを通して公開することによって、本当に来たら撃ち落とすつもりなんだぞ、ということを(誰よりも北朝鮮に)分らせようとしたのであった。しかし、ここで重要なのは、日本が撃ち落とすという≪行動をとるインセンティヴをもつことが、明白≫かどうか、である。もし、いまかりに②が正しいとして、そのような行動が北朝鮮と戦争状態を導くことが予測されるならば、日本があるいは日本国民がそうした行動をとるインセンティヴをもっているかどうかは、それほど明白ではないのではないか、とボクは思う。すくなくとも北朝鮮には、日本がそのようなインセンティヴをもっていることがうまく伝わっていないような気がする。なぜかというと、今回日本は、日本に入ってきたら撃ち落とすという①の対応についてはきわめて詳細に行動で示したが、②の展開になったらどうするかということについてはメディアをとおして何も国民に知らせなかった(そしてそのことを北朝鮮がちゃんと知っていた)からである。
ということは、すべては②の信憑性にかかってくる。つまり、①が起こったとして北朝鮮に手番がまわったとき、それを戦争行為とみなし日本に宣戦布告するというのが「脅し」であったのか、それとも「警告」だったのか、である。ここについては、ボクのような素人には、どちらかといえる十分な情報があたえられていないので、なんともいえない。テレビでは防衛省のある元幹部が北朝鮮の対応は「単なる脅し」にすぎないと一蹴していた。これはシェリングのいう「警告」という意味で「脅し」という言葉を使っていたのであるが、小心者のボクなどはそこまで単純ではないのではないかと思う。繰り返すが、ここでも重要なのは、北朝鮮が何を言っているかではなくて、そうした行動をとるインセンティヴをもっているかどうか、という判断である。ひとつだけいえるのは、今回のミサイル発射事件は、発射後に撃ちあがってもいない衛星がちゃんと軌道に乗っているだとか、日本の新聞も打ち上げ成功を報じているだとか、すぐにウソだと(おそらく自国民にも)わかるウソをわざとついていることも含めて、北朝鮮のインセンティヴがどこにあるのかを伝えるさまざまな貴重な情報を、われわれに提供したのではないかということである。

2009年03月30日

卒業おめでとう 2009

河野ゼミ5期生のみなさん、卒業おめでとう。
この2年間、君たちと一緒に過ごせたことで、ボクは自分の人生をとても楽しく豊かにすることができました。そのことに感謝します。
卒業式の日、君たちがゼミ室に入って最後の時間を過ごしたと聞いて、ジーンときました。本当に、いろいろな想い出が残りましたね。ボクは君たちのことを永遠に忘れない。君たちもボクのことを永遠に忘れないでください。
追いコンの時、「先生お言葉を」と言われて、うまくいえませんでした。
君たちに伝えたいことは、短い言葉で伝えられることではありません。しかし、ボクはこの2年間、いろいろな場面で自分の生きざまを正直にみせることで、君たちにそれを伝えたいと思ってきました。うまくいったかどうかわからないけど、そのうちのすこしでも伝わっていたら、時々それを思い出してください。
最後のカラオケでボクが唄った歌は、ルイ・アームストロングのWhat A Wonderful Worldでした。その中に、こういう一節があります。

赤ちゃんが泣いている
ボクは、彼らが成長するのを見守るだけ
彼らは、これからたくさんのことを学んでいく
きっと、ボクが知り得る何十倍、何百倍のことを

君たちも、ボクより何十倍、何百倍のことをこれから学び、社会に貢献していくでしょう。そして、君たちの子供たちが、君たちよりもさらに多くのことを成し遂げていく。そしてまたその子供たちが・・・・。だから、この世界は素晴らしいのです。
これから社会へでると、君たちもすぐ、自分のあとに続いてくる若い世代のひとたちに、何かを伝えなければならない立場になります。そのとき君たちは、いまボクが感じているように、自分がいかに未成熟で未完全であるかを思い知らされることでしょう。
でも、それでいいのです。そのときに、落ち込んだり自信をなくしたりしないで、上の一節を思い出してください。後から来る人たちが、先人を追い越していくことができるからこそ、この世界が素晴らしいのだ、ということを。
もう一度、卒業おめでとう。これからもっともっと輝いてください。


河野ゼミ5期生に、乾杯! 

2009年03月02日

メッセージにはメッセージを

ちょっと前になるが、ゼミ生たちがボクの誕生日を祝ってくれて、寄せ書き入りのサッカーボールをプレゼントしてくれた。ところが、マジックがだんだん薄くなって読めなくなってきたので、ここにメッセージを書き写しておこうと思う。ボールは、今度のゼミ合宿で、使おうね。
まずは、シンプルな方から。
西山君「お誕生日おめでとうございます。先生みたいな年のとり方をしていきたいです」。
←うん、シンプルだが心がこもっていてうれしい。
次は、俣野君。「先生のような年のとり方ができるといいなあと勝手に思っております」。
←西山君とほぼ同じなのに、「勝手に」ってところが見事に俣野語録になっている。
それが幹事長の吉田君になるとこうだ。
「若さとダンディズムが共鳴する河野先生が素敵です!かっこよく年をとる秘訣を教えてください」。
(←うっ・・・)
さて、誕生日だから、どうしてもボクの年齢とそれから体力のことが話題になる。
畑中君「僕も素敵な40代目指して頑張ります」。
細井君「僕も先生に負けない体づくりをしたいと思います」。
←そうそう、心も体もいまから鍛えないと、40代になってからでは遅いのである。
風間君「いつまでも走り続ける先生を尊敬です」。
←ところがだね、最近あんまり走ってなくて、お腹はブヨブヨになる、人間は丸くなる・・・。気をつけます、ハイ。
鎌田さん「お誕生日、おめでとうございます。来年辺り、先生に体力で負ける気がします」。
←あのさ、キミに体力で負けた覚えは、今年もないんだけど・・・
日野さん「私も先生みたいにサッカーできるようになりたいです」。
←ボクがサッカーできるというのは誤解です。
藤居さん「ゼミ生の誰よりも若い先生、OB会でお会いしてもきっとお変わりないことと思います」。
←そりゃ、いつまでも変わらずにいたいけど、むずかしいかも・・・
綿岡君「90歳になっても一緒にサッカーをしましょう」
←そりゃ、無理かも・・・
そうそう、学生の中には、こういう機会を利用して、中年オヤジをからかうタチの悪いのもいる。これらを本気にして、人生を誤ることがあってはいけないのだ。
佐藤さん「パスタとポークジンジャーおいしかったです。キッチンにたっている先生が1番かっこよかったです。胸キュン(ハートマーク)。心臓発作(ハートマーク)」。
←なーにが胸キュンだ、なーにが心臓発作だ、なーーーにがハートマークだ、だまされない、だまされない。
板村さん「先生に惚れて入ったこのゼミ、本当にすてきなゼミでした。いつまでもかっこいい先生でいてください」。
←うーん、君に惚れられても、年齢差だけじゃなくて、身長差が問題になるんだけれども・・・
森田君「こんにちは、先生大好き(ハートマーク)」(←うっ・・・キモい・・・)
匿名希望「どんどん顔がエロくなってきましたネ」。←失礼な。これって、ボクがキミにいった言葉でしょうが、ねえ、上河君。
最後に、卒業していく人の中には、感謝の言葉を書いてくれた人もいた。
白瀧さん「大変お世話になりました」。出口君「先生いままでありがとうございました」。
←いえいえ、至らぬところも多々ありました。こちらこそ楽しいゼミにしてくれて、みなさんありがとうございました。

2009年01月13日

2008年から2009年へ

年末から年始にかけて、実にいろいろな行事がボクの周りに起こって、ブログの更新が遅れてしまいました。いますこし風邪気味ですが、来週にはまた大きなシンポジウム(←みなさま是非おいでください)を控えており、徐々にペースを上げてまいります。
みなさま、本年もどうかよろしくお願いします。
というわけで、いくつか近況報告を。
まずは、年末の定例ゼミOB会。今年も多くの人たちが集まってくれました。また一段と縦のつながりが太くなったようでよかった。OBたちの多くは、さかんにボクが「丸くなった」(←「肥えた」という意味ではなく、「優しくなった」という意味)と評していた。そうかなあ、そんなことはないのに、と思うが、ま、こういうものは自分ではなかなか客観的には判断できないので、そういうところもあるかもしれない。面白かったのは、現役たちがOBにあんまりボクにそう言わないでくれ、と懇願していたこと。反応してまた厳しいボクに戻られてはかなわん、と恐れているらしい。
もうひとつ、ゼミ関連では忘年会も催された。2次会はカラオケへ行って、学生たちのものすごいエネルギーを見せ付けられてしまった。ボクも、「いとしのエリー」などを歌わせてもらって、ご機嫌だった。
年が明けて、元日は恒例により、天皇杯サッカーを見に行った。延長の末、ガンバが播戸のシュートで勝った素晴らしい試合だった。娘には遠藤の動きを追うようにといっておいた。そしたら、パスの出し方や、スペースの埋め方など、すごく参考になったといっていた。
娘の来日を記念したエリーズ杯は、昨年同様、横浜のフットサルコートで開催された。2時間たっぷり汗を流した後は、拙宅で新年会。どういうわけか、今年は自分で料理してもてなしたいという気分だったので、チキン入りサラダ、パスタ、ナスと豚肉の中華風炒めものの3品をつくった。男子学生に対しては「男でも料理ができるのが当たり前なんだよ」、そして女子学生には「料理もできない男に引っかかったらだめだよ」というメッセージを送りつつ。
テニスも、2回した。日本でしかしないのに、娘のテニスの上達ぶりは驚異的であった。いつのまにか、フツーにダブルスができるようになった。そして、親子対決のとき、不覚にも、ボクはサービスエースを2本もとられてしまった。ボクの周りのテニス関係者は、来年は絶対にボクを追い抜いていると、口を揃えて言っていた。うーん、そうかもな、と自分も納得。
それから、早稲田女子サッカー部の練習場を訪ねる機会に恵まれた。藤居さんのはからいで、ただ見るだけでなく参加しても大丈夫といわれていたので、着替えを持って行き、全国2位という輝かしい実績を誇る選手たちに混じって娘が練習させてもらった。最初のクロスからのシュート練習では緊張気味だったが、4対4のミニゲームを始めたら、緊張もとれていい動きをしだした。そして、なんと途中からは、人数が足りないということで、ボクもミニゲームに参加させてもらった。本当に楽しかったし、トップレベルの方々と一緒にできて、光栄でした。
おかげさまで、娘が帰った後も、快晴が続いた横浜では、心穏やかなつかの間の休日を過ごすことができました。ありがとうございました。

2008年07月21日

2008年夏ゼミOB会

先日、ゼミのOB会が催された。現役生と卒業生合わせて50人が参加した。小さなレストランのような(バーのような)会場は自由に歩けないぐらいひしめき合い、熱気で埋め尽くされてしまった。
50人とカンタンに言うけど、これはすごい人数である。知り合いの名前を挙げてみろといわれて、すぐ50人もの名前が思い浮かぶ人は、政治家とか会社の社長さんとかは別にして、ボクぐらいの年齢の大人の男性ではそうはいないと思う。本当に、大学の先生になってよかった。みんな、本当に素晴らしい子たちで、このような若い人たちと交流することができて、ボクは幸せものである。
さて、事前に現役生たちには警告しておいたのであるが、先輩たちは相変わらずものすごくパワフルであった。1期生の木下君と酒井君は、いつものように、ボクに対して下ネタ攻撃を機関銃のように浴びせた。はじめのうちボクは反論していたのだが、彼らのパワーに圧倒されて、最後は黙ってしまった。その一部始終を、6期生の垣坂君と今井君があっけにとられて見ていた。いい刺激になったことと思う(←別にまねする必要はないからね、いっておくけど)。
2期生の中では、藤井君と卒業以来はじめて再会することができた。11時を回ってもちゃんと駆けつけてくれたことがとっても嬉しかった。3期生では五味君が1次会の終わりに、また4期生の杉山さんも2次会から出たところに駆けつけてくれた。みんな、疲れている中、顔を見せてくれて、感謝、感謝。
中には、人生の転機を迎えている人もいた。1期生の大村さんからは結婚したとの報告を受け、会が始まる前に夫を連れてきて紹介してくれた。おめでとう。それから、何人かの卒業生は転職していたし、また転職を計画中である人もいた。それぞれ、いろいろと考えた末での決心であろうかと思うが、ちょっと心配だったのは、そういう中に女性の卒業生が目立ったことであった。女性の働きやすい環境が日本社会の中でもはやく確立してほしいものである。いつか、君たちの経験を、現役のゼミ生たちにぜひ紹介してください。
今回は、幹事を務めた6期生の境さんが、素晴らしい準備と円滑な運営をしてくれた。綿岡君など現役4年生たちが、先輩たちとの調整や連絡で大きく尽力してくれたらしい。いちばん下の6期生も、パワフルな先輩たちになんとか絡もうと、みんなけなげに頑張っていた。現役幹事長の古條君も、まあ彼なりによく努力していた(←ただ乾杯のときの「すべり」はどうしようもなった)。
逆に、先輩たちも、後輩たちと絡むことができて嬉しそうであった。1期生の仁木君は、早稲田のスポーツ話で5期生の藤居さんと「盛り上がっていた」(←そう自分で表現していた)。4期生の細谷君と木村君は、6期生の女の子に囲まれて話していて、心底楽しそうだった(←去年はまったく相手にされなかったのに、よかったね)。それから、5期生の佐藤さん、鎌田さん、日野さん、森田君などは、目立たないところでいろいろ気を使ってくれていた。ありがとうございました。
OB会も、回を重ねるごとに、同期の人だけでなく、縦同士でもつながりが出てきた気がして、とても嬉しい。実際、2期生の片山君と5期生の畑中君のように、これからは役所のなかでカウンターパートになる可能性もある人もいるし、また3期生の吹出さんと5期生の俣野君のように同じ会社で先輩後輩の関係になる人もいるわけである。将来も、ここで築かれた人間関係を核にしていってほしいと思う。
OB会に来れなかった卒業生のみなさん、今回は残念だったが、また年末もやるので、是非そのときには元気な顔を見せてください。

2008年06月29日

ゼミ対抗フットサル大会

すこし前になるが、ゼミ対抗フットサル大会なるものが開催された。
場所は所沢。所沢ということころは都心から遠いと思っていたが、案外近いのである。高田馬場から指定席付の特急にのると30分もかからない。ボクは朝、横浜方面から向かったので、2時間ぐらい前に出たら、早く着きすぎて、駅のスタバでヒマをもてあましてしまった。
そのスタバからみていると、どうやら早稲田生らしい一群が次々と到着。われわれゼミのメンバーもだいたいそろったので、現地へ向かった。
われわれの面子は、飯田、今井、橘田、西山、古條、綿岡、それにボク。板村と日野が応援に駆けつけてくれた。3つのグループにわけ、それぞれ8試合まずやって、上位2チームが決勝トーナメントに進むという方式だった。
さて、最初の出番を待っていると、久米ゼミチームがボクのところへきて「先生、人数がまだそろわないので、出てください」という。その日は、日差しが強く暑かったので、あんまり最初から飛ばすと体力がなくなるのではないか、と心配だったが、本番の前のウォーミングアップのつもりで出た。試合には負けたが、久米先生に恩を売ることができた(←久米さん、忘れないように!)。
で、本当の最初の試合は、森ゼミチーム。ここには(後で名前が判明した)「ヒトミちゃん」という、女性ストライカーがいた。女性の得点は2点。われわれは、試合の最初の方でこのヒトミちゃんにゴールを決められ、リズムを崩した。次の試合は勝ったものの、それ以降も、この初戦敗戦のショックが尾を引き、結局予選突破は早々とあきらめなければならなくなった。
試合の合間の休憩時間には、いろいろ面白い光景を見た。ナチ(板村)は、体育会部所属からか、やはりこういう場では顔が広い。橘田という男は、知っているいないにかかわらず、次々からへと声をかけて、友人を増やしていくという稀有な才能を持っていることがわかった。古條は、われわれとよりも、知り合いの女の子と一緒にいることを好んでいて、西山や綿岡から、「ホント、チャライよな、あいつ」という顰蹙を買っていた。その古條の友人の「リエちゃん」という女の子とボクが仲良くしゃべっていると、彼はヤキモチを焼いていた。しかし、このときは、ボクが自分をさておき、ゼミ生でない学生としゃべっていることに、ヤキモチをやいているのだ、と解説していた。ま、それが本心かどうかはわからない・・・。
フットサル大会を主宰した吉野ゼミの幹事の学生は、背が高く、とても感じがよい好青年だった。ボクが参加したことを、感謝していた。ボクは自分がフットサルをしたいだけだったのだが、あとから聞いたら、ボクがいることで、たとえばその場で酒盛りが始まるというようなことがなく、場が締まっていたということだった。そんなことならお安い御用で、毎年参加したいと思う。
最終試合の相手は、田中愛治ゼミだった。ボクらはピッチで円陣を組んで、この一試合に持っている力を全部出し切ろうと誓って、のぞんだ。0-0のまま、半分が過ぎ、飯田と交代して、ボクに出番がまわってきた。ボクは右の前の方に張っていたら、そこに西山からの好パスが来た。それを振りぬいて、ゴール左隅に決勝点を決めた。
おかげさまで、とてもよい思いをさせてもらった一日となった。
チームメートのみなさん、関係者のみなさん、どうもありがとうございました。

2008年03月25日

卒業おめでとう 2008

河野ゼミ4期生のみなさん、卒業おめでとう。
3月25日の卒業式の式典には参列できませんが、代わりにこの日記で君たちへ贈る言葉を書き残します。

この2年の間、君たちと接し、すこしずつ一人ひとりを知ることができたことを、光栄に思います。ゼミで過ごした時間が、君たちにとって、人生の中で貴重な経験として、これからも大切に記憶されていくことを心から願っています。
また、ボクも、君たちと一緒に過ごせたことで、自分の人生を豊かにすることができました。本当にありがとうございました。
この2年を振り返り、なにより思い知らされるのは、君たち一人ひとりの個性の強さです。何ごとにも物怖じせずに積極的な人、飲み会で抜群の能力を発揮する人、ピュアな心を持った人、暖かい心配りのできる人、意外性に満ちた人、研究者としての才能に恵まれた人、後輩の面倒見がいい人・・・などなど。個性に満ち溢れていることは、素晴らしい。なぜなら、人が輝いている時とは、その人の個性がいかんなく発揮されている時にほかならないからです。これから社会に出て行ったあとも、自分の個性を大事にしながら、存分に活躍してください。
今年卒業していく君たちも、去年の3期生に負けず劣らず、みな素晴らしい卒業論文を完成させました。これは、本当に、誇りに思ってください。おそらく、君たちは、自分の可能性を一歩、そしてまた一歩と先へ伸ばしながら、ひとつのプロジェクトを完成させていくことの快感を覚えたのではないでしょうか。これからは君たちの人生そのものを、そのようなプロジェクトだと思い、同じところに留まるのではなく、つねに前を見据えていってください。
新しい一歩を踏み出すときに、あまり後ろを振り返ってはいけません。しかし、いつでも心と身体を休めるために、ゼミへ遊びに来てください。そして、君たちの輝きを後輩にみせてあげてください。

卒業にあたって、今年は以下の言葉を贈ることにしました。

社会へ飛び立つ君よ、英雄たれ
To strive, to seek, to find, and not to yield.
(Alfred Lord Tennyson, Ulysses より)

河野ゼミ4期生に、乾杯! 

2007年06月22日

Erratum

このブログを読んでくださっている方々の中には、親切にも、ボクが書いたことの間違いをいろいろ指摘してくださる人がいらっしゃる。今日は、いくつかそういう項目がたまったので、erratumを書こうと思う。
まず、ある方から、ニューヨークにあるwhole foods marketについての説明が間違っているのではないか、とご指摘を受けました(4月4日付け「マーケット」)。その方によると、あれはコロンバス・サークルにあるのであって、(ボクが書いたように)リンカーン・センターの地下にあるわけではない、とおっしゃる。で、たしかにホームページで確認すると、コロンバス・サークル店ということになっている。こういうところに気付くこの人、さっすがだなあ・・・。ただ、ま、リンカーン・センターにも近いと思うんですけどね。おそらく、車で行くときには、コロンバス・サークルを目指して行くということになるので、混乱させてはいけないわけですね。申し訳ありませんでした。ただ、徒歩だったら、セントラル・パークを散歩した帰りに立ち寄るのに絶好の場所であることは間違いありません。みなさんも、どうぞ利用してください。
第二に、別の方からは、6月13日付けの日記(「Ipodの微妙」)のアイポッドの表記は、小文字のipodでなければならない、とご指摘を受けました。へー、そうなんですか。ボクは、まったく知りませんでした。こういうところに気付くこの人も、すっごいなあ・・・。こういうのは商標とかいろいろ問題がありそうなので、大変不注意であったことを反省しております。この場をお借りして、陳謝いたします。失礼致しました。
第三に、2006年11月3日付けのブログ(「ある日の出来事」)の中で出てくる院生さんのお名前は、表記の「足立さん」なくでは、正確には「安達さん」でした。これも、大変失礼な誤りで、しかも長い間訂正せず、申し訳ありませんでした。
第四に、これは間違いといえるかどうか、結構微妙なのですが、2006年5月12日に書いた日記(「銀座ライオンとギネスの話」)の中で、このビアホールの圧倒的な多くの客がサラリーマンとOLであるという一節に異論を唱えた方がおられました。その方は「サラリーマンは、あんなところでは飲まない」と言い張られる。「あんなところ」というのは、「あんな高級なところ」という意味なのです。「河野さん、ダッメだなあ。これだからダイガクキョウジュは浮世離れしてて困っちゃうんだよ。蝶ネクタイつけたボーイさんがいるところで、ふつうのサラリーマンが飲むわけないでしょ。ジャーマンポテトなんておつまみがでてくるところで、ふつうのサラリーマンが飲むわけないでしょ。われわれは、ね、ふつう立ち飲みですよ、立ち飲み。で、出てくるのは、ホッピー。そういう世界なんだから・・・」うーん、これにはコメントしようがないです。この方は、もともとの嗜好からして、B級やC級グルメのような気もする。ただ、大学教授が「浮世離れしてる」ってくだりには、おおかた同意いたしますです、ハイ・・・
さて、ということで、これからも間違った内容や表現を使わないように気をつけますので、どうか末永くお付き合いください。

2007年05月24日

輝いている君へ

暑い日だったね。
第1試合は、緊迫した試合だった。
先に1点とられたものの、終了直前、ジェンのシュートで追いついた。
負ければ、その時点でトーナメントから敗退だったのに、PK戦で勝った。
君もちゃんと決めた。
ここで、君たちWolvesは、一気に流れをつかんだ。
いや、この試合を制した後は、君のためにお膳だてられたような、そんな一日だったね。
第2試合は、2-0。
混戦からの、君のシュートが、試合を決定づけた。
昼休み。
ここで、なんとも思いがけない幸運が待っていたね。
となりで練習していたナショナルチームのメンバーの何人かが、コーチのスティーヴを知っていて、訪ねてきてくれた。これは、本当にラッキーだった。
で、アンドリアが言葉を交わしてくれたんだってね。
しかも、アンドリアは、ちゃんと君の顔と名前を覚えていてくれたんだね。
それは、感動したよね。
「どう?勝ち進んでいる?あれ、君たちの何人かには、見覚えがあるぞ。エリーズ・コーノ、元気?怪我はもうすっかりいいの?」
背番号5が背番号5に話しかけたんだね。
これで、発奮しないわけがないよね。
第3試合は、3-1。
ホーリーが決めたのも、君からのパスからだったね。
スティーヴが、君とジェンを後半ひっこめて温存したら、チームはうまくまとまらなかった。でも、その判断は正しかったんだよ。だって、優勝をかけたもう一試合があったんだから。
で、いよいよその第4試合。
ここでも君は落ち着いて、でも力強くプレイしたね。
1-1で後半へ。
最後は誰がコーナーを蹴ったんだっけ?
スティーヴは、君をゴール前に貼り付けたかったんだよ。
で、君はちゃんとそれに応えた。
頭できれいに決めた。
生まれて初めてのヘディングシュート。
そして勝利を決めたヘディングシュート。
みんなから祝福をうける君。
君は本当に輝いていたよ。

トーナメント優勝、本当におめでとう。

――遠くから見守る父より

2007年05月20日

回復基調

実は、最近元気がなかった。
体調もよくなかったし、ストレスが大きくたまっていた。
いろいろ理由があったのであるが、それはさておき、どのようにしてそこから立ち直ったのかをちょっと書いてみよう、と思う。
まず、行きの電車の中で、Ipodをよく聴くようにした。
普段なら、論文を読むなど、勉強の時間にあてるところであるが、とにかくリラックスすることに専念した。最近のお気に入りは、なんといってもJoni Mitchell。とくに、名盤の誉れ高いLadies of the Canyonを、毎朝欠かさず聴くようにした。Morning MorgantownからFor Freeへ。そしてWoodstockから最後のCircle Gameへ。どれも、本当に素晴らしい内容の詩であり、音楽である。
次に、ボクの「お抱えの」(?)相談相手であるMさんから、いろいろアドバイスを貰うことにした。ボクは、普段あんまり電話で長話しをしないのだが、この前などは、なんと2時間半も話しこんでしまった。
それにしても、Mさんから頂くアドバイスは、いつも目の覚めるような鋭い直感と分析に支えられていて、心を落ち着かせてくれる。(Mさん、いつもありがとうございます!)
それから、ボクの「お抱えの」(?)マスースSさん。最近なかなか時間が合わずに予約を取れないでいたのだが、この前ようやく長めの予約を入れることができて、心身を癒してもらった。Sさんには天性の治癒の力がそなわっている、と思う。すくなくとも、ボクに対しては、本当によく効く。(Sさん、いつもありがとうございます!)
それから、学会をサボった。
誘われた研究会にも行かなかった。
どちらも、ちょっと罪悪感に駆られたが、自分の健康と精神衛生のためにはしょうがない、と割り切った。
そして、最後に、もうひとつ、ボクの回復基調を支えたもの・・・
それは、夢を見たことであった。
ボクは、自分でみる夢を覚えている方ではない。
しかし、先日、とっても印象深い夢を見て、朝起きても覚えていた。
それは、自分が、自分の家に火をつけている夢であった。ところが、なかなか火がまわらず、家がいつまでたっても焼けない。一生懸命、火を起して、古い書物とか手紙とかアルバムとか家具とかを焼こうとしているのに、いっこうに火の勢いが増すことがない・・・というような、そんな夢であった。
この夢が何を暗示しているのかは、ボクにはさっぱりわからなかった。
フロイトだったら、きっとウンチクを傾けた分析をしたに違いない。
しかし、いずれにしても、どういうわけか、この夢を見て起きたあと、とてもすっきりした気分になることができた。いや、何かを悟った気分といった方が、正確であろうか。
不思議な話であるが、本当の話である。

2007年03月17日

卒業おめでとう 2007

河野ゼミ3期生のみなさん、卒業おめでとう。
来る3月25日の卒業式の式典には、参列できないので、代わりにこの日記で君たちへ贈る言葉を書き残します。

3期生のみなさん、2年間ボクの厳しい指導に耐えて、よく頑張りました。君たちは、それぞれ立派な卒業論文を提出しました。まったくお世辞ではなく、君たちの卒論はどれも、なみなみならぬ「努力」の刻まれた素晴らしい卒論として仕上がったと思う。実をいうと、ボクは、ここまで全員そろって頑張れるとは思っていなかった。でもひとりも落ちこぼれることなく、みんなで一緒にこれて、本当によかった。自分の書いた卒論を誇りに思ってください。この経験は、今後の人生で揺るぎない自信となりますよ。いや、おそらくもうすでに君たちは、そのことを予感できているのではないでしょうか。
また、この2年間、君たちは、合宿や飲み会やスポーツを通じて、互いをさらけ出しあい、感性を磨きあい、おもいやりや気遣いを学んだのではないかと思います。時に気持ちのすれ違うことがあっても、そうした場面をどううまく乗り切るかということも、すこしずつではあるが、習得できたと思う。君たちは、もうどこに出してもけっして恥ずかしくない人間として成長した。そのことに自信をもち、あとは、ボクなんかが教えることのできないことを、ひとつずつ吸収していって、さらにさらに大きくなっていってください。
そうそう、忘れてはいけない。ボクも、君たちに囲まれて過ごした2年間、本当にとても楽しい思いをさせてもらいました。君たちからは、いつも若いエネルギーを吸収させてもらった。君たちと接していると、好奇心が刺激され、歳をとってもいろいろなことに心をときめかせることを忘れてはならないのだと教えられた。ボクの人生を豊かにしてくれて、本当にありがとう。
君たちの中には、ボクが早稲田に赴任した最初の年に一年生として授業を受けた人もいますね。そういう人とは、すでに人生の4年間を付き合ったことになるわけだね。しかし、まだまだこれから・・・。これはほんの「始まり」にすぎない。みなさん、どうかこれからも末永く、よろしくお願いします。

卒業にあたって、今年は以下の言葉を贈ることにしました。

いつでも夢をもちなさい。
いつでも純粋に、真剣に、堂々と生きなさい。
いつでも不思議に思い、考え、解決しようとしなさい。
たとえ心を奪われることがあっても、魂を渡すことのないようにしなさい。

河野ゼミ3期生に、乾杯! 

卒業おめでとう 2007

河野ゼミ3期生のみなさん、卒業おめでとう。
来る3月25日の卒業式の式典には、参列できないので、代わりにこの日記で君たちへ贈る言葉を書き残します。

3期生のみなさん、2年間ボクの厳しい指導に耐えて、よく頑張りました。君たちは、それぞれ立派な卒業論文を提出しました。まったくお世辞ではなく、君たちの卒論はどれも、なみなみならぬ「努力」の刻まれた素晴らしい卒論として仕上がったと思う。実をいうと、ボクは、ここまで全員そろって頑張れるとは思っていなかった。でもひとりも落ちこぼれることなく、みんなで一緒にこれて、本当によかった。自分の書いた卒論を誇りに思ってください。この経験は、今後の人生で揺るぎない自信となりますよ。いや、おそらくもうすでに君たちは、そのことを予感できているのではないでしょうか。
また、この2年間、君たちは、合宿や飲み会やスポーツを通じて、互いをさらけ出しあい、感性を磨きあい、おもいやりや気遣いを学んだのではないかと思います。時に気持ちのすれ違うことがあっても、そうした場面をどううまく乗り切るかということも、すこしずつではあるが、習得できたと思う。君たちは、もうどこに出してもけっして恥ずかしくない人間として成長した。そのことに自信をもち、あとは、ボクなんかが教えることのできないことを、ひとつずつ吸収していって、さらにさらに大きくなっていってください。
そうそう、忘れてはいけない。ボクも、君たちに囲まれて過ごした2年間、本当にとても楽しい思いをさせてもらいました。君たちからは、いつも若いエネルギーを吸収させてもらった。君たちと接していると、好奇心が刺激され、歳をとってもいろいろなことに心をときめかせることを忘れてはならないのだと教えられた。ボクの人生を豊かにしてくれて、本当にありがとう。
君たちの中には、ボクが早稲田に赴任した最初の年に一年生として授業を受けた人もいますね。そういう人とは、すでに人生の4年間を付き合ったことになるわけだね。しかし、まだまだこれから・・・。これはほんの「始まり」にすぎない。みなさん、どうかこれからも末永く、よろしくお願いします。

卒業にあたって、今年は以下の言葉を贈ることにしました。

いつでも夢をもちなさい。
いつでも純粋に、真剣に、堂々と生きなさい。
いつでも不思議に思い、考え、解決しようとしなさい。
たとえ心を奪われることがあっても、魂を渡すことのないようにしなさい。

河野ゼミ3期生に、乾杯! 

2007年01月29日

今年はどんな年に?

みなさん、ご無沙汰しましたが、お元気でしょうか。
あっという間に、クリスマスから正月が過ぎていきましたね。
今日は久しぶりに日記をつけるので、最近の出来事をいくつか。
12月x日。大学近くにあるマッサージ屋さんに行きました。たまたまその日担当してくれた方が本当に素晴らしい方だったので、それ以来ハマリ中。それにしても、ボクの肉体はどんどん衰えているような・・・。
12月x日。朝早くおきて、久しぶりにいつもの倍の10キロジョギングしたら、そのあと見事に風邪を引いた。しかしどうしても早く治さなきゃならない理由があったので、気合で2日で治した。「病は気から」というのは本当です。人間、やろうと思ったら、何でもできるもんだ。
元日。天皇杯サッカーを見に行きました。浦和レッズの将来がちょっと心配になるような、そんな一戦でした。今年もスタンドでのレッズファンの応援には感動した。あれはひとつの芸術だね。
1月x日。初詣。
1月x日。お墓参り。
1月x日。ゼミ生たちとサッカーをしました。天気よく、人工芝のグラウンドも最高だった。よい想い出になりました。ありがとうございました。
1月x日。女子バスケの試合を見に行きました。応援している富士通がシャンソンに勝ち、そのあと見事、二連覇達成!おめでとうございます。
1月x日。実家で、UNO大会をやりました。知ってますか、大黒バージョンのUNO。「2枚引け・カード」や「4枚引け・カード」に対して「オウンゴール・カード」で逆襲できることになっていて、チョー面白い。やっぱり、正月はカードゲームで遊ぶもんだ、と思った。
1月x日。ある用事で京成立石というところに行きました。行く前に「面白いところですよ」と聞いていたが、噂通り、下町感あふれるところでした。ぶらりと入った蕎麦屋のカツ丼が美味かった。
1月x日。ゼミ生たちが納会のときに、ボクのために大きなバースデーケーキを用意してくれた。それから素晴らしいプレゼントも頂いた。愛情をいっぱい感じました。ありがとう。
1月x日。歌舞伎座に中村吉右衛門さんの「俊寛」を見に行きました。歌舞伎は一期一会、これは思い切って見にいってよかった。最後の場面で、流刑されている島に一人取り残されて、仏様のように祈る姿が目に焼きつきました。
1月x日。いつもながらのテニス、と思いきや、その日は4人と人数が少なくて、1セットのダブルスゲームをすることに。これが「死闘」となった。ブレーク、またブレークの連続で、ゲームカウント6対6でタイブレークにもつれこみました。そのタイブレーク、一時5対2まで取られちゃって「マズイ」と思ったのですが、それから集中して5対5まで盛り返しました。しかし、ここでボクがミスしてしまって、結局7対5で負けました。でも充実した2時間でした。

みなさま、本年もよろしくお願いいたします。

2006年12月10日

愛することと愛されること

昨日ゼミのOB会があった。
一年に一度、年末恒例の行事である。
遠くから、忙しい1期生、2期生たちも参加してくれた。
いつの間にこんなに大所帯になったのだろうというくらいの人数であった。
ボクのゼミを通して、これだけ多くの人々が繋がっているのだという事実に、感動した。
すこしはボクも世の中の役にたっているのだと思えて、嬉しかった。
みんな、いい子たちである。
みんな、ひとりずつ、本当に可愛い。
みんな、ひとりずつ、自分なりに真剣に人生を歩んでいる。
人間だからそれぞれ悩みや嫉みや恨みを持っているに違いない。
まだ若いからそれぞれ自分の将来に不安を抱えていないわけがない。
しかし、みんな一生懸命、それらと格闘している。
その姿が、それぞれ輝いている。
知っている人は知っているが、ボクは最初から大学の教師になろうと思っていたわけではなかった。
大学の教師になったのは、ま、はっきりいって、偶然みたいなものであった。
しかし、いま、大学の教師になって、本当に、本当によかったと思う。
こんなにいい子たちにいつも囲まれて、これ以上を望んだら、バチあたりである。
損得のない人と人との付き合いは、社会に出てしまった後では、なかなか経験できるものではない。
大学のゼミとは、そういう付き合いが可能なのだということを実感できる、貴重な場である。
そういう付き合いがあることを知って社会にでて人生をおくる人と、知らないまま一生を終える人とでは、人生の豊かさに格段の違いがある。
一期生の一人がいっていたように、そうした付き合いこそ、人生において「いつも戻って来れる心の原点」にほかならないからである。
これからもずっと、ボクのゼミとそのOB会が、そうした原点を提供できればいいと思う。
もう14年も前に娘が生まれた時、遅まきながらボクが学んだことは、人を愛するということは、その人に対して無償の愛をささげることなのだ、ということであった。
無償の愛とは、いうまでもなく、損得勘定などが入り込む余地のない愛のことである。
人間だから、いつか見返りがあるのではないか、これだけの愛を注いだらきっと相手も愛を返してくれるのではないか、などと期待してしまうこともある。
ま、そういうこともあるかもしれない。
しかし、面白いことに、いや本当に面白いことに、無償の愛をささげると、無償の愛がちゃんと返ってくるのである。
人を愛するということがどういうことなのかを、ボクは娘に、娘の笑顔と仕草に、教えられたのである。
人を愛するということは、素晴らしい。
なぜなら、人を愛するということが、人から愛されること、だからである。

ゼミ生のみなさん、ゼミのOBのみなさん、また来年元気に顔を合わせましょう。

2006年10月01日

リユニオン

ゼミの一期生と二期生がうちに集まった。
みな忙しいので、全員というわけではなかったが、10名ほどで楽しい時間を過ごした。
彼らは、卒業してからずっとうちに遊びに来たいといっていたので、ようやくそれが実現できてよかった。前の日から、大きな鍋でカレーを煮込んでおいて、それをメインにした。あとは、野菜サラダとパスタサラダを作った。みんな、おいしい、おいしい、といって食べてくれた。まあみんな、本当によく食べること・・・。冷蔵庫はすっかり空になった。
彼らから、いろいろなことを言われた。
「先生、相変わらず、若いですね」←これは嬉しい。
「でも、ちょっと白髪増えましたね」←じゃかあしい。
「結構オシャレなところに住んでますね」←さんきゅー。
「インテリアとか、ご自分で選んだんですか」←失礼な、オレにセンスがないとでもいうのか。
正直言うと、卒業したら学生たちはボクのことなんか忘れてしまうのではないか、と思っていた。だから、彼らがボクをいまでも慕ってくれるのはとてもうれしい。でも、卒業したら、やはりどうしてもかつてのようには、緊密に連絡を取り合うことができなくなってしまう。もしかしたら、いつかボクのことを忘れてしまう人も出て来るだろうと、やっぱり思う。
でも、それでいいのである。
ルイ・アームストロングが歌うように、ボクは彼らが成長するのを見守ることしかできない。彼らはこれからたくさんのこと、ボクがいま知っている何十倍、何百倍のことを学んでいくのである。
ボクは、たしかに、彼らの若かったある一時期に、多少彼らの人生に影響を与えたかもしれない。しかし、ボクが彼らの人生にこれからずっと影響を与えられるような存在であるわけがない。
重要なのは、彼らがもうすこし年を取ったときに、今度は立場をかえて、彼ら自身が次の若い世代に自分の経験や理想を語っていく責務を負うということである。そのとき彼らも、きっといまのボクと同じ心境に達すると思う。そうして、時代が変わっても、素晴らしい世界が続いていくのである。
いや、だからって別に、ボクのことを忘れろなんていってるんじゃないですよ。
いや、というか、もし君たちが偉くなって、日経新聞の裏面の交遊録にボクの名前を出してくれたら、それはきっと嬉しいと思うよ。それから、君たちが成功して会社つくって、ボクにその「社外取締役」に就任して下さいなんていうリクエストをもってきたら、きっと大歓迎するだろうねえ。とくにボクの定年の頃にそういう話を持ってきてくれるとありがたいんだけどなあ。
あ、そうそう、もちろん、おいしいワインとチーズをもって、先生今夜いっぱいやりましょうよ、とブラリと訪れてくれるのも、とっても嬉しいかも・・・。
みなさん、また会いましょうね。

2006年03月27日

卒業おめでとう

本当は、この日記は、卒業式の前に更新しておきたかったのだけれども、ちょっと忙しくて遅くなってしまった。ごめんなさい。それにしても、土曜日の追いコンは、素晴らしかったね。幹事長の雲井君、ホンモノみたいな応援団を務めた木村君、校歌を歌っていてもノリノリでひざで調子をとっていた望月さんをはじめ、企画演出した3期生のみなさん、本当にご苦労さまでした。
そして、あらためて、2期生のみなさん、卒業おめでとう。ボクとしても、ゼミ生を社会に送り出すということには大きな感慨があり、ああよかった、これで少し肩の荷が下ろせるというのが率直な感想です。大学のセンセイというのは、研究者であるとともに、もちろん教育者でもあるわけだが、われわれは心理学の専門家でもないし、教職免許をもっているわけでもないし、実は教育者としてはまったくの素人なんだね。だから、自分の教育方針がうまくいっているのかどうかについては、まったくもって自信がない。ボクのゼミでの指導は、ほかの先生たちよりも人に対する基本的な礼儀とか作法とかにまで及んでいて、もしかすると君たちは苦労したと思う。うるさいことを言うオヤジだな、と思っていたとも思う。でも、君たちは、この2年間、その厳しい指導によく耐えてくれたね。みんな、本当にどこへ出しても恥ずかしくない社会人として成長したのではないか、と思う。
追いコンの場で言ったことだけど、記録に残しておくために、ここに書いておくね。第一に、いつでも個性を大切にね。君たちはいままだ紺色のスーツが似合わないが、それはとっても素敵なことなんだよ。大人になることは、画一的なものの考え方をすることでもなければ、人と同じような生き方をすることでもない。自分の考え方や生き方を確立することが、大人になることなんだからね。いつか、自分に似合うスーツを自分でみつけることができるといいね。
第二に、あまり過去を振り返ってはいけない。ゼミの時代はよかったなどと感傷的に思うことは、今の自分、今の生活を大切にしていないという証拠だからね。ゼミに遊びに来てくれるのはいつでも歓迎するけど、帰ってくるというのではなく、自分の新しい生活をわれわれに紹介してくれたり、われわれを知らない世界へ導いてくれたり、そういう前向きな気持ちでゼミを訪れてね。
第三に、絶対に、ボクより先に死んではダメだよ。この世の流れには、順番というものがある。一期生の木下君たちが卒業して、君たちが卒業して、今度は雲井君たちが卒業して、そして・・・というように、動いていく。その摂理に逆らうようなことがあってはならない。それに、君たちには、そろって、ボクの葬式で校歌を歌ってもらわなければならないんだからね。
最後に、とても素晴らしいプレゼントをたくさんもらってありがとう。サイン入り色紙、ボールペン、ちょいわるオヤジのバスローブ、村上春樹のクックブック、吉永小百合写真集。みんな大切にします。

2006年03月12日

人間にとって罪(sin)とは何か

先日西欧式ディナーパーティの話をこの日記に書いたが、ボクが人生のある一時期大変お世話になったカナダのご夫妻は、よく難しいトピックを選んで夕食時の会話の題材とするということをしていた。別に正しい答えを出そうとか、相手を論破しようということが目的ではない。難しい問題をどういう風に考えるか、各人おのずと異なる考え方の多様性とでもいうものを、彼らは純粋に知的に楽しんでいる風であった。もちろん英語で行われるのでついていけないときもあったけど、ボクも、できるだけ会話に加わろうと、いつも一生懸命がんばった。
ある日、そのご夫妻のうちに遊びにいったら、その日のお題は「人間にとって最も重い罪は何か」であった。ここでの罪は、英語でいうと、crimeではなく、sinの方ですね。ご夫妻はキリスト教信者ではない。しかし、ボクは、このトピックだとどうしても宗教的な方向へ会話が流れてしまうのではないかな、と思った。そしたら、案の定、嘘をつくこと、他人を軽蔑すること、モノやお金を無駄使いすること、などなど、聖書のどこかに書いてありそうな、ま、はっきりいってありきたりな、項目が次々と挙げられて、「そうだね」、「でもそれはそんなに悪くないんじゃない」というように、議論が展開していった。
彼らの話が一段落したところで、ボクに水が向けられ「マサルは人間にとって何がもっとも悪いsinだと思う?」と聞く。ボクは、そのとき「taken-for-grantedness」ではないか、と答えた。それは面白いねと、ご夫妻は褒めてくれた。実は、ボクは、いまでも、この答えが大そう気に入っている。
take it for grantedは、うまく日本語にできないけど、当たり前と思う、あるいは自明視する、といったような意味である。それを無理やり名詞形にしてしまって、当たり前だと思うこと、あるいは自明視すること、それが人間にとっての最大の罪、というのがボクの考えである。だってそうじゃない、われわれのまわりには、いま自分が享受できていることへの感謝を忘れてしまうようなものがたくさんあるでしょ。健康や才能、与えられた資産や仕事、友人や同僚からの信頼、家族や恋人からの愛・・・などなど。本当は、われわれは、これらのものを自明視することなく、日々守っていく努力をしていかなければならないのですね。
ところが、というか、やっぱり、というか、われわれか弱い人間は、つい、そうした努力を忘れる。そして、これらのものを失うと、自分が不幸になったと思ってしまう。しかしね、実は、これは勘違いなんだね。健康や豊かさ、信頼や愛などという大切なものは、それらを失う不幸を憂うのではなく、それらをいま享受できることを幸福だと思わなくてならない。いつもそんなものが当たり前のようにあると思っては、人生の荒波をなめてることになる、そんな気がするのであります。

さて、最近ボクの教え子の二人が入籍しました。
本当におめでとう。
若いお二人に、心から「お幸せに」という言葉を贈りたい。

2006年02月01日

日記開始宣言!

学生たちにそそのかされて、日記を書くことにした。一応これでも文章を書くことをナリワイにしている人々の端くれにいるので、定期的に書くのは訓練にもなるし、日々浮かんでくるアイディアの記録をとっておくのもあとでなにかの役に立つかなとも思うし・・・ま、いつまで続くか、わかんないけどね。

最初なので、今日は日記のタイトルについて。ボクは、週刊誌もテレビもほとんど見ないので、こういう流行語に弱いのだが「ちょいわるオヤジ」というこの言葉は、ゼミの学年末納会(つまり飲み会←大学関係者でない読者を想定した注)の時に、学生たちに教えてもらった。ネガティヴな表現なのかと思ったら、褒め言葉なんだってね。学生たちは、そういってボクを褒めてくれたわけだ。ただの「オヤジ」だったら嫌だけど、その前に「ちょいわる」がつくといいらしい。

で、なんでボクが「ちょいわる」なの?いろいろ聴いたけど、こういうのはイメージとかセンスとかの問題だから、決まった答えがあるわけではもちろんない。ただボクの場合は、授業をふつうの服装でする、どうもそれがひとつの要因らしい。「ジーンズと革ジャンで教壇に上がる先生なんて、うちの学部、そういないッスよ。」そうかなあ。そんなことはない。経済の清水(和巳)さんとか栗山さんとか、結構普段着をオシャレに着こなす先生たちは多いと思うよ。

ほかの人はともかく、ボクの場合、スーツにネクタイという格好で授業をしないのは、ま、スーツやネクタイを買うお金がないという現実の問題もあるけど、ボクなりに教育効果を狙っている、というところもある。村上春樹の初期の短編(「象の消滅」『パン屋再襲撃』所収)に「僕の個人的な意見はネクタイをはずさないと出てこないんです」という名セリフがあるのだが、格好というのはコミュニケーションの場を規定してしまうから、気を使わなければならない、とボクは思っている。だって、こちらがいかにも大学教授という格好で上から押し付けるような物言いで授業したら、学生たちはぼんやり聞いているだけになるでしょ。学生たちのオリジナルな思考を育みたい、すこしでも「一緒に考えようよ」ってメッセージを伝えたいなら、自分と学生が同じステージにいることを演出しなくっちゃね。それにね、毎回同じようなスーツとネクタイだったら、学生たちはそれだけで飽きちゃうよ。「先生今日はどんな服着てくるかな」ということをちらりとでも思わせたら、その時点ではこちらの勝ち、だって「ツカミ」に成功しているわけだからね(←ちょっと大げさ)。

さて、ちょいわるオヤジ。学生たちに、芸能人では誰がそれに当たるのか、と聴いたら、いろいろ名前をあげてくれたが、ボクのしらない人ばっかりだった。「矢沢永吉ってのはどう」とこちらから聞くと、「あれは、チョイちがいます。あれはチョイワルではなく、セクシーですから。」そうか、上には上があるんだ・・・ちなみに、ちょいわるオヤジの女性版は「アデージョ(艶女)」です。飯島先生、知ってました?