卒業おめでとう 2012
卒業おめでとう。
2年間、みんなと同じ時代を過ごすことができた巡り合わせに感謝しつつ、立派に社会へと巣立っていったことをうれしく思います。
♪いま、君は、門出に立っている…誇り高き勇者のように…♪。
本当にその通り。だから、昨日の二次会の席では、みんな寂しい、悲しいと言っていたけれども、今日からまた心(と涙腺)を引き締め、ひとりひとり、人生の勇者として振る舞っていきなさい。
二次会の席で誰かが、先生は悲しくないんですかと、ボクに訊いた。悲しいかと訊かれれば、悲しいに違いない。けれども「でも、また下から10期生たちが入ってくるから」と、ボクは答えた。時は常に流れていく。時が流れるから、この世は、美しいのである。君たちも、その流れの中にあるから、ボクの中で、お互いの中でずっと美しく輝く。
いろいろと、意味をつけるとか、解釈を施すとか、そういうことをしてはいけない。この2年間は、まさに、「自分が生きている証拠だけが充満し、その一つ一つがはっきりとわかっている様な時間」だったのではないか、と思う。意味づけられたもの、解釈されたものは、ちっとも美しくない。「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」のである。
これらの言葉を、ボクはいま、最近読み返したある有名な文章から引用しているのだけれども、その作者は、記憶と思い出すことの違いについて、書いている。それをボクなりにいいなおすと、記憶するとは、過去を過去の中に閉じ込めておくことである。それに対して、思い出すこととは、過去をいまとして生きることである。「記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう」と、この作者はいう。そう、思い出が美しくみえる理由を、誤解してはならない。われわれが過去を飾るのではなく、過去が「余計な思いをさせない」からこそ、それは美しいのである。
初めてのゼミに出席した時の緊張した顔、飲み会で「かんぱーい」といってグラスとグラスとを合わせた音、バレーボールをしたとき体育館いっぱいに響いていた笑い声、卒論にオーケーが出たときの安堵のため息。折りにふれ、つれづれなるままに、心を虚しくして、思い出してください。
河野ゼミ8期生のみなさん、卒業おめでとう。みんなの美しい人生に乾杯!