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岩田規久男『経済学的思考のすすめ』について

知っている人は知っているが、最近ボクは「経済学的思考」がいかにダメか、ということをいろいろなところで主張している。実は、この「経済学的思考」という言葉は、世間ではポジティブに使われており、経済学的思考の「センス」についての本だとか、経済学(的)思考を身につけると「頭がよくなる」などとうたっている本が、よく売れている(らしい)。しかし、このたび、岩田規久男さんの『経済学的思考のすすめ』(筑摩書房)という本を一読して、体系だった学問であるがゆえに、経済学が勘違いしたり、見過ごしている問題があるということは、やっぱり何度強調してもしすぎることはない、と思った。
ちなみに、この岩田さんの本は、辛坊なにがしという素人の書いた経済についてのいい加減な本を批判し、本当の経済学の考え方がどういうものかを、分かりやすく解説するという構図になっている。ボク自身も、政治学や国際関係論をまともに勉強したこともない人たちが、政治評論家とか外交評論家などと自称して、テレビや雑誌などで無根拠な見解を堂々と述べているのを見ると、面白くないと感じることが多い。この意味では、ボク自身、学問を志す身として、岩田さんの心意気には、多いに賛同するところである。
しかし、ボクが納得がいかないと思うのは、岩田さんが傾倒してやまない経済学そのもの、あるいは彼の経済学への過剰な思い入れが生み出している思考の歪み、とでもいうべきものである。まっとうな経済学を真摯に極めようとしている岩田さんが書いているからこそ、ボクには、この本が経済学の限界を見事にいろいろと露呈しているように見える。
第一に、経済学の思考法は演繹であると、岩田さんは繰り返し述べているが、これはミスリーディングである。学問は、方法論的手法や立場によって(他の学問から区別されて)定義されるわけではない。岩田さんは時に「経済学的演繹」という言葉を用い、演繹することがあたかも経済学の専売特許であるかのように書いているが、政治学でも社会学でも、演繹という方法は用いられる。経済学者たちの中には、「経済学帝国主義」により、他の社会科学の分野のことをあまりご存知ない方が多いが、残念ながら、岩田さんもそのひとりなのかもしれない。
第二に、この本では、演繹のみが強調され、帰納の重要性が軽視されている。それでよいかのように誤解しているところが、経済学の大きな限界である。経済学も、帰納なしでは成立しえない。岩田さん自身、リーマンショックという現実に起こった金融危機が新たな知見を導いたことを「経験から学ぶ市場のルール」という項(p.139)で、認めている。仮定から出発し、演繹して命題を導き、命題を検証する。命題がうまく検証されなかったら、仮定に修正を加えて、初めからやり直す。これは、岩田さん自身が思い描いている経済学であるが、この最後の、検証をふまえて仮定を修正するというステップは、帰納そのものである。
第三に、岩田さんは、経済学は「すべて他の条件が同じなら」という思考実験のメリットを強調するが、「すべて他の条件が同じなら」という方法にはデメリットもあると考えられ、その両方をバランスよく捉える必要がある。もしかすると、経済は「すべて他の条件が同じなら」という設定をすることにデメリットが少ない分野であるかもしれないが、他のすべての分野の現象がそうであるとはかぎらない。だとすると、経済学的思考は、案外とその有用性は限られ、経済現象の分析には有用であるが他の分野へと簡単に応用できるものではない(とりたてて「すすめ」るべき思考ではない)可能性もある。
第四に、岩田さんは、経済学を自然科学と同列にならべて論じているが、これは誤りである。自然現象においては、理論モデルによって導かれた予測が、現実に影響を与えることはない。しかし、社会現象では、予測が予測されるべき現実に影響を与えるという回路が開かれている。
最後に、岩田さんは、経済学では、価値の問題に触れるべきでないと考えているが、もしそうであるならば、経済学はやはりダメな学問であるといわざるをえない。すべての価値は、社会的に構築されたものである。「効用最大化」という大前提にせよ、近代以降に生み出された価値観ないし世界観のひとつの現れにすぎず、そのように人間が行動しているかどうかはまったくの仮定の話にすぎない。それゆえ、検証によってこの「仮定」から導かれた「命題」が間違っていたと判明したとき、経済学には(経済学が岩田さんのめざすようなものであればあるほど)、それを変える用意がなければならない。だから、経済学が価値の問題にふれないでよいと安住することは、自己矛盾に陥ることに等しいのである。