偶然と運命とのあいだ
この前、お気に入りのModern Familyというコメディをみていたら、母親が子供たちにFacebookで「友達申請」をしているにもかかわらず、子供たちの方が自分たちのプライバシー(誰といつどこへいったというようなこと)がわかってしまうのが嫌なので、なんとかはぐらかそうとするシーンがおもしろおかしく描かれていた。SNS時代においては、どのような人と人との関係性も、「友達」であるか否か、クリックひとつで定義される。実の親子すら、「友達」として定義しなおすことが可能となる。
もちろん、本当の人と人との関係は、そのようにデジタル化されているわけではなく、無関係の「0」から関係のある「1」のあいだをアナログ的につねに揺れ動いている。うまく行っていたと思っていた恋人関係や友人関係が、ちょっとしたきっかけでうまくいかなくなったとき、われわれはそれを0.5とか0.75といった「踊り場」にいったん置いて、様子を見ようとする。そのような踊り場におかれた状態は、場合によっては、長期化することもある。いや、というか、生身の人としてのわれわれの人間関係は、すべて、つねに、どこかしらの踊り場に置かれている、と考える方が正しいのである。
この広い世界において、人と人とが出会うのは、基本的には、偶然である。冷徹に理性だけに基づいて考えれば、このことは、他人同士だけでなく、親子とか兄弟姉妹についても同じくあてはまる。自分の子供も、無数の精子の中のひとつがたまたま卵子と結合して出来た存在であることにかわりはない。その意味では、親子であることの根拠も、究極的には、万にひとつ、億にひとつの偶然によって支配されている、というほかない。
しかし、その一方で、われわれは、偶然を「運命」や「縁」として理解しようとする。そのように理解しようとするのは、理性とともに、感性が人間に備わっているからである。偶然でしかない親と子との関係は、無償の愛が注がれることによって、絆で結ばれたものとなる。偶然でしかない夫婦や友人の関係も、相互のいとしみや思いやりの情、敬愛の念をもってして、かけがえのない間柄となる。偶然でしかない出会いを、偶然としてのみ理解する限りにおいては、意味ある「人生」も「個性」も成立しない。さまざまな偶然を運命として読み返すことによってはじめて、その人の人生がどういうものであるのか、つまり、そもそもその人がどういう人であるのかを、語ることができるようになるのである。
SNSで母親からの「友達申請」をはぐらかそうとしていた子供たちは、親に対する愛情が薄いというのではけっしてない。彼らは、本当の親子関係とはどういうものかを、直感的にちゃんと理解していたのであり、むしろそうだからこそ、申請をはぐらかそうとしたのだ、と考えるべきである。そして、このシーンがコメディとして成立すること自体、偶然と運命とのあいだにある大きなギャップをうめることが意味ある人生を送ることなのだということを、(SNS時代においても)われわれが直感的に理解している証しなのである。