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レイチェル・メドウの戦争論をめぐる雑感

レイチェル・メドウは、アメリカではいわずとしれたリベラル派の論客で、いまではMSNBCで自分の名のついた番組をもつほどに、その実力が認められている。その彼女が新しく書いたDriftという本について、この前Meet the Pressで、本人が登壇して、紹介しているのを見た。ボクはこの本を読んでいないので、その内容がどのくらい事実関係として正確な記述となっているかは判断できないが、番組中に彼女が口頭で述べた中心テーマは、とても興味を引くものであった。
そのテーマとは、いつからかアメリカは戦争をすることに慣れてしまったのではないか、ということである。その一つの原因は、最近アメリカの戦争が、ごく一部の軍人たち(総人口の約10パーセントほど)だけが関わることによって遂行されているからだ、という。逆にいうと、国自体は最近ずっと(時には、同時に複数の)戦争を遂行しているのにもかかわらず、大多数のアメリカ人は、戦争を自分自身の問題として考えなくなっている、というのである。
この見解を聞いて、いろいろなことを考えされた。第一は、いまアメリカで起こっている現象は、歴史的というに値するかという問題。一般の国民をはじめて全面的に国家の戦争へと巻き込んだのは、ナポレオンだったといわれる。それ以前、戦争とは戦うことを職業とする人たちだけの間で行われるものであった。メドウの観察が正しいとすると、アメリカは、戦争の形態が近代以前のそれへと逆戻りする兆候を示している、ということになるのだろうか。
第二は、民主主義と戦争の関係という(政治学上の)大問題。民主主義という政治体制が平和志向的であるかもしれないのは、(かつてカントがいったように)民主主義においては一般の人々が、国家として戦争するかどうか、すなわち自分が戦争にいくかどうか、を決める権利をもっているから、と考えられる。しかし、現代のアメリカのように、つねに戦争にたずさわる人とまったく戦争にたずさわならい人とのあいだに明確な役割分担が確立してしまうとすれば、この民主主義的平和論はその重要な根拠を失うことになるのではないか。
第三は、つねに戦争にたずさわる人とまったく戦争にたずさわらない人とが分断されることの、規範的含意について。直感的には(おそらくメドウもそうであるが)われわれは、このような分断は「よくない」ものと捉えるのではなかろうか。自分の命をかけて国を守っている人がいる傍ら、そのような人の努力が支える安全保障にただ乗りするだけの人がいるという現実は、あまり座り心地のよいものではない。しかし、もしそうだとすると、なぜ、今の世の中には、たとえばジュネーブ条約のような、国家間の戦争においても「文民の保護」が尊重されなければならない、などという真っ向から対立するかのような規範が存在するのか。戦争において軍人は殺してよいが文民は殺してはならないという規範は、命をかけて戦っている人よりもただ乗りしている人の方が人間の価値として重い、という含意をもつことにはならないのか。