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人間にとって罪(sin)とは何か

先日西欧式ディナーパーティの話をこの日記に書いたが、ボクが人生のある一時期大変お世話になったカナダのご夫妻は、よく難しいトピックを選んで夕食時の会話の題材とするということをしていた。別に正しい答えを出そうとか、相手を論破しようということが目的ではない。難しい問題をどういう風に考えるか、各人おのずと異なる考え方の多様性とでもいうものを、彼らは純粋に知的に楽しんでいる風であった。もちろん英語で行われるのでついていけないときもあったけど、ボクも、できるだけ会話に加わろうと、いつも一生懸命がんばった。
ある日、そのご夫妻のうちに遊びにいったら、その日のお題は「人間にとって最も重い罪は何か」であった。ここでの罪は、英語でいうと、crimeではなく、sinの方ですね。ご夫妻はキリスト教信者ではない。しかし、ボクは、このトピックだとどうしても宗教的な方向へ会話が流れてしまうのではないかな、と思った。そしたら、案の定、嘘をつくこと、他人を軽蔑すること、モノやお金を無駄使いすること、などなど、聖書のどこかに書いてありそうな、ま、はっきりいってありきたりな、項目が次々と挙げられて、「そうだね」、「でもそれはそんなに悪くないんじゃない」というように、議論が展開していった。
彼らの話が一段落したところで、ボクに水が向けられ「マサルは人間にとって何がもっとも悪いsinだと思う?」と聞く。ボクは、そのとき「taken-for-grantedness」ではないか、と答えた。それは面白いねと、ご夫妻は褒めてくれた。実は、ボクは、いまでも、この答えが大そう気に入っている。
take it for grantedは、うまく日本語にできないけど、当たり前と思う、あるいは自明視する、といったような意味である。それを無理やり名詞形にしてしまって、当たり前だと思うこと、あるいは自明視すること、それが人間にとっての最大の罪、というのがボクの考えである。だってそうじゃない、われわれのまわりには、いま自分が享受できていることへの感謝を忘れてしまうようなものがたくさんあるでしょ。健康や才能、与えられた資産や仕事、友人や同僚からの信頼、家族や恋人からの愛・・・などなど。本当は、われわれは、これらのものを自明視することなく、日々守っていく努力をしていかなければならないのですね。
ところが、というか、やっぱり、というか、われわれか弱い人間は、つい、そうした努力を忘れる。そして、これらのものを失うと、自分が不幸になったと思ってしまう。しかしね、実は、これは勘違いなんだね。健康や豊かさ、信頼や愛などという大切なものは、それらを失う不幸を憂うのではなく、それらをいま享受できることを幸福だと思わなくてならない。いつもそんなものが当たり前のようにあると思っては、人生の荒波をなめてることになる、そんな気がするのであります。

さて、最近ボクの教え子の二人が入籍しました。
本当におめでとう。
若いお二人に、心から「お幸せに」という言葉を贈りたい。