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2013年05月03日

民主主義は改憲の根拠たりうるか?

今年の憲法記念日は、21世紀の日本にとっての、ひとつの重要な節目となるかもしれない。このところ、憲法をめぐる議論や論争は著しく活発化している。そのような政治状況であればこそ、われわれは原点に立ち戻り、日本のような民主主義国家にとって、憲法なる文書を起草し、それを政治の中心に据えることにどういう意義があるのかという根源的な問題を考える必要がある。
実は、憲法とは、多数決を意思決定の基本とする民主主義と対立する制度である。民主主義とは、独裁者や専制君主など一握りの権力者が大多数の国民の意思を踏みにじって政治的決定を下すのを排除することを理想とする。これに対して、国民の基本的権利や統治のあり方を定める憲法は、通常、一般の法律とちがい(議会を制する)多数派といえども簡単には変更できない文書として制定される。憲法を起草し、いくつかの重要な政治的決定をあらかじめそれに委ねることには、少数派を多数派の暴挙から守るという意味がある。
憲法が民主主義と逆を向いた制度である以上、憲法を改正する大義として単純に民主主義の理念を掲げることはできない。最近自民党や維新の会などは、現行の96条にある「国会議員の三分の二」という発議要件について、「国民の多数が憲法を変えるべきだと言っているのに、わずか3分の1の議員が反対すれば発議すらできないというのはおかしい」(安倍首相)と批判しているが、この批判は的外れである。多数派に属する人々が自らの意思にしたがって変更できる文書であるならば、国家がそれを憲法として起草する意味はない。そのような文書に、多数派の暴挙を抑えるという、憲法が本来になうべき役割を期待することはできない。そもそも、96条を改正の手順を定めた手続的な(つまり本質的でない)条項だと理解することが誤りである。96条自体、違憲立法審査権や最高法規性を定めた条項などとともに、憲法の意義そのものを表している本質的な条項なのである。
ところで、憲法は、多数派の意思をそのまま反映させないための仕掛け、というだけではなく、もうひとつ別の意味でも反民主主義的な制度である。それは、一度制定された憲法は頻繁に改正されないので、憲法とは現在の多数派のみならず、将来の多数派をも拘束する文書だ、という点においてである。
このことに関して、200年以上も前のアメリカでは、ジェファソンとマディソンとのあいだで(私信のやりとりを通じた)有名な論争があった。ジェファソンは、現在の人々(の決定)が将来の人々を拘束することがあってはならないと考え、(ある算出根拠にもとづいて)憲法は20年ごとに改正されなければならないと主張した。つまり、民主主義の原則を世代を超えて適用し、そこに憲法を改正する正当性を見出そうとしたのである。これに対して、マディソンは、そのような定期的な改正は、憲法を国民のあいだに定着させることを妨げ、不安定な政治状況につけこむ勢力を助長し、ひいては将来の人々にとって不利益をもたらすことになると反論した。
憲法を起草したり改正したりするには、屋台骨となる理念が必要である。「時代に合わなくなった」憲法を変えるのは当たり前ではないかと、いま声高に主張している人々は、憲法の根拠をあくまで民主主義にもとめたジェファソンの立場に一見重ね合わせられる。しかし、ジェファソンの意を正しく汲むならば、憲法改正を定期的に行うことが憲法自体に明記されなければならない。なぜなら、民主主義が続く限り、現在の(改憲を主張している人々を含む)世代だけが特権化され、将来の世代を拘束できる理由はないからである。しかし、もしそのような条項を実際加えるとなると、今度はマディソンが危惧した政治の混乱が現実味を帯びると判断する人もおそらく多くなるのではないだろうか。このようにして、アメリカの二人の偉大な「建国の父」のあいだでのこの論争は、今日でもその重要性を失っていない。われわれも、いま、ひとりひとりの良心と能力の限りを尽くして、憲法改正を正当化する根拠が何なのかを、改めて考えなくてはならないのである。

2009年03月17日

知っているようで知らないアメリカ建国の話シリーズその⑪~「コンヴェンション」というコンヴェンションの起源~

現代の英語ではconventionというのは、「慣習」とか「慣行」という意味に用いられる。しかし、この言葉には、「会議」とか「集会」という意味もある。いまでは日本の各地にもコンヴェンションセンターなる建物が建てられているが、これらは大掛かりな会議や集会をする場所という意味でそう呼ばれている。いったい、慣習と会議というこの二つの意味は、どこでどうつながっているのだろうか。
周知のように、1787年フィラデルフィアにおいて新しい憲法を制定した会議は、「コンヴェンション」であった。これは、中世以来、スコットランドやイングランドなどで使われていた語法に拠ったものである。コンヴェンションは人が集まるという意味であるが、ポイントは、コンヴェンションとは国王の命によって招集される議会ではない、というところにあった。つまり、それは、「正式・正規ではない」会議や集会を指す言葉だったのである。
マディソンたちは、フィラデルフィアで新しい憲法を制定する行為が合法的でないことをよく承知していた。なぜなら、当時の13州(邦)は緩やかな連合規約というもので結ばれており、その規約の改正はすべての州の合意によらなければできないことになっていたからである。ゆえに、フィラデルフィアコンヴェンションは、まさに古典的な語法通りに、「正式・正規ではない」会議だったのである。
同時に、マディソンたちは、中世から近代へと時代が移行する中で、「正式・正規ではない」コンヴェンションが、ある種の正統性を持ちうるということに気づいていた。そのことを象徴する事件は、何といってもイングランドの名誉革命であった。この革命を起した人々は、当初みずからをconventionとよんでいたが、ウィリアムとメアリーを即位させるとParliamentと称することにしたのである。つまり、名誉革命とは、「正式・正規ではない」コンヴェンションが、「正式・正規である」議会を生んだという意味で、画期的な事件であったのである。
しかし、コンヴェンションがそのようなある種の正統性をもつためには、やや逆説的であるが、(単なる集会や会議という意味ではなく)この言葉に「正式・正規ではない」という意味自体が込められてなければならない。では、それはいつ、どこに由来するのだろうか。イングランドの歴史の上では、清教徒革命の後クロムウェルが一部の議員たち(長老派)を追い出した時に開かれた議会が「強行された議会」あるいは「不完全な議会」として認識され、conventionとして言及されていると記録が残っている。つまり、コンヴェンションという言葉が、欠陥ある議会という意味で使われているのである。しかし、この語法は、そもそもはどうやらスコットランドから来たものであるらしい。スコットランドでは、国王の命なくして開く議会として、conventionなるものが、すでに16世紀半ばには確立していた。そして、清教徒革命の時、スコットランドはイングランド議会と同盟をむすびそれを支持する。そこで、「不完全な議会」という意味でのコンヴェンションという言葉の使い方がイングランドに輸入されていったらしいのである。
冒頭で書いたように、コンヴェンションという言葉には、慣習とか慣行という意味もある。慣習とか慣行とは、文書化されたり明示されているわけでもないのに、どういうわけかそれにしたがってしまうような何か、である。慣習とか慣行という意味でのコンヴェンションも、その力の源泉はまさに「正式・正規ではない」というところにあるのである。
この項J. Franklin Jameson, “The Early Political Uses of the Word Convention,” The American Historical Review, vol. 3, 1898, pp.477-87 に多くを負っている。

2009年03月06日

知っているようで知らないアメリカ建国の話シリーズその⑩~マディソンのマイナーなしかしビッグな政治デビュー~

アメリカの連邦憲法は、実にその多くを1776年に採択されたヴァージニア州(邦)憲法に負っている。アメリカ建国の父であり「憲法の父」とも呼ばれるマディソンが、ヴァージニア出身であることを考えると、このヴァージニア憲法の草案作りにもマディソンは大きな影響を与えたに違いないと思われるかも知れない。しかし、実はそれほどでもない。というのは、その時彼はまだ25歳、いくらなんでも弱輩すぎたのである。確かに憲法会議には参加していたが、マディソンの周りには、ジェファーソン、エドモンド・ペンデルトン、パトリック・ヘンリーといった、錚々たる顔ぶれが揃っていた。中でも、皆の尊敬を集めていたのはジョージ・メイスン。憲法草案は、ほとんどが彼の手によるものであり、マディソンは貢献らしい貢献をしていない。
しかし、憲法と一緒に採択されることになるヴァージニアの人権宣言の草案についての審議の段になって、マディソンは政治的デビューを果たすことになる。それは、マイナーな語句の修正の提案のようにもみえたが、実は人間の歴史にとってとてつもなく大きな意味をもつ貢献であった。彼は、世界ではじめて、信教の自由を人間の権利として認めさせたのである。
この人権宣言の草案も、憲法草案と同じく、メイスンがほとんど起草したものであった。当時、ヴァージニアではアングリカンというキリスト教の宗派が、州の正統な宗教として確立していた。そこで、メイスンの草案では、「すべての人々は、良心が命ずるところに従って宗教的活動をするうえで、完全な寛容を甘受する(all men should enjoy the fullest toleration in the exercise of religion, according to the dictates of conscience)」となっていた。つまり、それは、アングリカン以外の宗教を信じていたとしても、なにも妨害や迫害をうけないことを保障する、という内容だったのである。
しかし、マディソンは、これでは信教の自由は、国家(州)が保障するもの、すなわち特権に過ぎないではないか、と考えた。そうではない、信教の自由は、人間が生来もつ権利でなければならない、そこで、彼は次のような表現を提案するのである。「すべての人々は、等しく、自由に宗教的活動することを権利としてもつ(all men are equally entitled to the free exercise of religion)」。
当時、これほどまでに信教の自由についてリベラルな態度を厳格に確立した州はほかになかった。このマディソンの貢献は、「われわれの市民としての権利が、宗教に関するわれわれの意見に基づくものでないのは、そうした権利が物理学や幾何学に関するわれわれの意見に基づくものでないのと同じである(our civil rights have no dependence on our religious opinions, any more than our opinions in physics or geometry)」という有名なフレーズで知られる、ジェファーソン起草によるヴァージニア信教自由法へと受け継がれていく。そして、それがアメリカの連邦憲法の修正第一条に組み込まれていったのである。
さて、前に「道路標識の謎」というタイトルで書いたことと関連するが、日本の憲法では、「第二十条【信教の自由、国の宗教活動の禁止】信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」というように書かれている。もしマディソンが生きていたら、そしてこの憲法草案を作ったのがアメリカ人たちであると知ったら、何というだろうか、ボクにはとっても興味のあるところである。

2008年09月23日

知っているようで知らないアメリカ建国の話シリーズその⑨~スコットランド系マディソン~

ジェームズ・マディソンをボクが敬愛してやまないのは、彼がアメリカの憲法に「三権分立」と「抑制と均衡」の概念を取り入れたからである。いうまでもなく、これらの概念は、今日世界に普及している立憲主義思想の根幹をなしている。そういうと、そのような考え方の先駆けはロックだったとか、いやモンテスキューだっていたじゃないか、などという反論がきこえてきそうである。しかし、ボクに言わせればマディソンの偉大さは、彼らの比ではない。なにしろ、マディソンは、ひとつの成文憲法の中に、理論上の抽象的な概念に過ぎなかった「三権分立」と「抑制と均衡」を実際に組み入れちゃった人なのである。有言実行の男なのである。単に書物だけしか残していないロックやモンテスキューとは、格が違う。
さらに言えば、マディソンの知的背景には、ロックやモンテスキューとは明らかに異なる伝統が流れている。それは、スコットランドの血である。まだ若い頃、マディソンはプリンストン大学を卒業した後、一年間居残って勉強した。ヨーロッパの啓蒙思想についてのマディソンの博識は、そこでの読書経験がもとになっているのだが、マディソンの先生は、John Witherspoonというスコットランド人の先生であった。そこで彼が盛んに読んだのが、アダムスミスであり、ヒュームであった。スミスもヒュームもスコットランド系。また、Witherspoon先生の先生も、またFrancis Hutchesonというスコットランド人であった。ちなみに、マディソンの盟友ジェファーソンの大学時代の先生もまた、William Smallというスコットランド人であった。
当時のスコットランド系の政治思想の特徴は何かといわれると、ボクのような素人にはウケウリしか提供できないが、中でも重要なのは「世俗性」と「抵抗の思想」だったのではないかと思われる。
たとえば、ロックにとっての人間の平等は、あくまで「神の前」の平等でしかなかった。しかし、そもそもそのような神学的な立場と個人の権利の絶対性とが本当に両立するものなのか、怪しい。さらに、「権力を分立させなければならない」という発想は、「全能者」を認めてしまう立場と、論理的に矛盾している。後者のような立場からすれば、理想の政治は、権力を分割したり抑制しあったりすることではなく、いかに全能者が行うような状況に現実を近づけていくか、ということに求められるはずである。しかし、マディソンたちの前提は、そんなことは無理に決まっているではないか、というものであった。18世紀末に誕生したアメリカ憲法のひとつの重大な貢献は、宗教との決別だったのであり、もちろん、それは当時としては画期的だった。
もうひとつ、マディソンがスコットランド系思想に魅かれた理由は、スコットランドの政治的立場そのものにも由来する。周知のように、スコットランドは1707年に、イングランドと合併させられた。合併に反対する立場の人々も多かったが、軍事力および経済力に勝るイングランドに抵抗することは不可能であることは明白であった。しかし、抵抗の思想は、それから脈々とスコットランドの人々の考え方に受け継がれていく。当時としては、スコットランドも、13の植民地も、イングランドにとっては「辺境」だったことにおいて共通であった。それゆえ、辺境であるアメリカが反乱を起したとき、彼らの精神的支柱にはスコットランド人たちの思想があったのである。(この項、Ian Mclean “Before and after Publius,” in Samuel Kernell ed James Madison, Stanford UP, 2003から多くを学んだ)

2008年07月26日

知っているようで知らないアメリカ建国の話シリーズその⑧~「政府」という方言?~

1792年、フランス革命が飛び火してヨーロッパ全土に戦争が拡大したとき、ワシントン大統領は「中立宣言」を出した。この行為が条約の批准には上院の同意を必要とするというアメリカ連邦憲法の規定に違反して行われたのではないかどうかで、大論争になった。フランスとはすでに条約があり、中立宣言はその条約を事実上無効にする効果をもつ。そこで、マディソン(およびジェファーソン)は、自らの政治的立場がフランス革命に同情的であったこともあり、ワシントンの行為は憲法違反であると主張した。しかし、彼らの主張は、親英派で連邦派であるハミルトンらによって、退けられた。
当時マディソンとハミルトンとのあいだで激しく交わされた論争は、アメリカの歴史家や憲法学者のあいだでは『The Pacificus-Helvidius Debates』として重要視されているが、日本ではあまり知られていない。ボクの知る限り、この論争の邦訳は出ていないし、これについての研究もほとんどみたことがない。
しかし、とくにマディソン(Helvidusは彼のペンネーム)がこの論争の中で展開している議論は、非常に面白い。そう、それは、憲法を原理的に考える上で非常に面白いし、今日でも非常にためになるのである。
マディソンの議論のひとつは、そもそも「政府(government)」とは何か、という論点であった。マディソンは、「・・・言葉の使い方が、しばしば考え方そのものにしだいに影響を及ぼし、不適切な使い方によって、本来なら見逃すはずもない誤謬を覆い隠すにいたることが見受けられる」と述べ、「とくに、私は、執行府(Executive)の権限のみを指して『government』という言葉を用いる彼[ハミルトン]の用語法」に注意を促したいという(pp.90-91)。
マディソンによれば、ハミルトンは本来であれば「大統領」といえば済むところをわざと「government」という言葉で表現し、中立宣言が大統領すなわち執行府によって出されたのではなく、それよりも大きな「government」なるものによって出されたかの幻想をかもし出している、と批判している。しかし、そもそもgovernmentとは何であろうか。マディソンは、「アメリカにおいて、『政府』といった場合、それは政府全体を意味するのであって、単に執行府のみを指したり、執行府を優先的に意味したりするわけではない」(p.91)と断じる。たしかに、君主制のもとでは権限のすべての部分が、ひとつの、すなわち単数形の、「政府(government)」へと収斂していくであろう。しかし、立法府もあり、司法府もあるアメリカにおいて、執行府をgovernment(しかも単数形)と表すのはおかしい、というわけである。そして、マディソンは、ハミルトンがそのように巧みに言葉を選んで使っていることを、「新しい方言」である、と強烈に皮肉っているのである。
日本では、三権のひとつを「行政府」と呼ぶ。つねづね言っていることであるが、この呼称は、「立法府」や「司法府」とパラレルでないばかりか、それだけが(「行」を略して)「政府」であるがごときの印象を与えるので、きわめて不適切である。ボクは、これは「執行府」か、あるいはかつて明治の初期に使われていた「行法府」に改めているべきだと考えている。(三権のひとつにすぎない)内閣の官房長官でしかない町村さんが「政府といたしましては、・・・・」と発言するのを聴き、われわれがなんとも不思議に感じないとすれば、それはマディソンがいうところの「本来なら見逃すはずもない誤謬」にわれわれの方が覆い隠されてしまっているからにほかならない。
注:引用はすべてAlexander Hamilton and Jamese Madison (edited and with an Introduction by Morton J. Frisch), The Pacificus-Helvidius Debates of 1793-1794, Liberty Fund 2007 より

2008年07月10日

知っているようで知らないアメリカ建国の話シリーズその⑦~ハミルトンの伝説~

アレキサンダー・ハミルトンは、ワシントン大統領から信頼の厚かった初代財務長官であり、若くして権力と名声をほしいままにした男であった。しかし、その晩年は、惨めなものであった。ジェファーソンおよびマディソンとの政争に破れ、同じ連邦党の中でもアダムズとは犬猿の仲であり、義憤にかられて何度も決闘を仕掛けたり仕掛けられたりし、最後はアーロン・バーとの決闘で死ぬことになる。
ただし、連邦合衆国がいまのようにひとつの国家として発展する礎を築いたことにおいて、彼の功績は、いまでも高く評価されている。有名な話だが、アメリカで比較的頻繁に使われる10ドル札の肖像は、ハミルトンである。ハミルトンのほか、大統領になったことのない人物で、お札に使われているのは100ドル札のフランクリンしかいない。ハミルトンを10ドル札に起用したのは、クーリッジ大統領であった。クーリッジは共和党出身の大統領であり、共和党は産業界により近いとされている。ハミルトンは、アメリカのビジネスリーダーたちにとっては、最大の貢献者、永遠のヒーローなのである。ちなみに、これも有名な話しだが、ハミルトンの政敵であったジェファーソンは、というと、彼の肖像が使われているのは2ドル札である。しかし、日本の2千円札と同じで、アメリカで2ドル札というのは日常ほとんど使われない。ジェファーソンがこのように軽視されていることを不満に思って、ジェファーソンを多く流通している5セントコインのアイコンにしたのは、民主党出身の大統領フランクリン・ルーズベルトだったそうである。
ところで、ハミルトンの究極の命とりになったのは、女性問題、いまでいう不倫であった。当時、ハミルトンは、公的資金の流用疑惑も噂されており、議会のメンバーたちが彼を訪れて調査をすることになったが、彼は資金流用については否定するものの、不倫を認めてしまうこととなる。これが引き金となり、ハミルトンに対する信用は失墜する。さまざまな噂が流れ、そのたびにハミルトンは詳細な反論を書き、それゆえ結果として不倫の一部始終が世間に知られることになるのである。
議会の調査メンバーの中には、後に大統領となるジェームズ・モンローが含まれていた。ハミルトンの私生活についてさまざまな噂が流れるようになったのは、どうやらモンローが守秘義務を怠り、調査報告のためのメモを「友人」ジェファーソンに渡したからである、といわれている。そこで、モンローとハミルトンは、あわや決闘するかもしれない、という険悪な関係になった。
ハミルトンの死後、ハミルトンの妻エリザは、しばしばホワイトハウスの夕食会に招かれた。夫アレキサンダーの偉大さゆえにか、ファーストレディは必ずエリザに自分の椅子を譲って座らせようとしたらしい。おそらくは、エリザ自身も、夫と同様、魅力的で、また気丈な人物だったにちがいない。
ある時、すでに大統領を引退していたモンローが、エリザ・ハミルトン宅を訪れた。過去のことを水に流したいというモンローに対して、エリザは歓待するどころか、元大統領を椅子に座らせることもなく、その申し出を断ったという。エリザにとっては、モンローはあくまで、自分の夫を失墜させた張本人であった。モンローは静かに頭をさげ、その場を立ち去ったそうである。

2008年06月21日

知っているようで知らないアメリカ建国の話シリーズその⑥~国務長官から大統領へ?~

ジェームズ・モンローは、第5代のアメリカ大統領である。日本では「モンロー宣言」という外交上の孤立主義を確立したことで有名だが、アメリカでは独立戦争を描いた「デラウェア川を越えるワシントン」という絵の中でアメリカの旗を持っている男、といったほうがピンとくる人がより多いかもしれない。
モンローが大統領になったのは、共和党の絶頂期であった。彼の前には、ジェファーソンとマディソンという二人の偉大な建国の父がそれぞれ2期8年ずつ大統領をつとめていた。モンロー自身も2期8年つとめ、そのあとジョン・クィンシー・アダムズへと引き継いでいる。
この間の政権交代を見ていると、ある共通点が浮かび上がる。それは、前国務長官が次の大統領になっている、というパターンである。すなわち、マディソンはジェファーソン政権下の国務長官であり、モンローはマディソンの下での国務長官であった。そして、J・Q・アダムズもまた、モンロー政権で国務長官をつとめていた。
日本には禅譲という言葉があるが、こうしてみるとこの頃のアメリカでは、政権交代がスムーズにいっていたように見える。大統領は自分の後任にもっともふさわしいと思う人を国務長官に据えて、内外にアピールしたかったのかもしれない。
しかし、このモンローという男、実は、大統領になる前に、マディソンと何度も政治的に対立している。まずは、1788年のこと。(マディソンらが作った)連邦憲法を採択することに反対し、ヴァージニア州において反フェデラリストとして論陣を張った。そして1789年の第1回連邦議会選挙では、マディソンに対抗してヴァージニアから立候補している。そして、マディソンが次期大統領候補としての地位を固めつつあった1808年にも、彼はもう一度彼の対抗馬として名乗りを上げている。モンローは若い時からジェファーソンの寵愛を受けていた。そのジェファーソンが次期大統領にマディソンを推したことで、モンローはかなり落ち込んだらしい。しかし、結局マディソンもモンローの才能を再び高く評価するようになり、1811年彼を国務長官に任命して、自分の後継者とみなすようになるのである。
もっとも、ときに政治的主張がずれることはあっても、マディソンとモンローの二人の間には、ジェファーソンを介して、けっして崩れることのない尊敬と信頼関係があったようである。実際、この3人の間のコラボレーションは、多くの見事な成果を生んだとも考えられる。たとえば、マディソンが第1回連邦議会において、権利章典を含む憲法の修正を主張するようになったのは、ヴァージニアでの論争の中で、モンローが彼にそれを約束させるまで追い詰めたからだといわれている。このときジェファーソンはフランスにいたわけだが、ここでは彼の主張をモンローが代弁しそれをマディソンが受け入れたという構図になっているのである。
モンローがいなかったら、マディソンとジェファーソンの政治生命が早く絶たれていたかもしれない、というエピソードもある。
それは、ジョン・アダムズ(連邦党)政権のもとでの「外人・治安法」成立に対抗して、ジェファーソンとマディソンが秘密裏にそれぞれヴァージニア決議とケンタッキー決議を起草した後のことであった。ある夜、ジェファーソンは、第2弾のヴァージニア決議の相談のためマディソン宅を訪れようとする。しかし、たまたまその場に居合わせたモンローが、ジェファーソンを引き止めて言う。「今の時期、政権側の副大統領(ジェファーソン)とヴァージニア州の下院代表(マディソン)が会談したということが知られたら、ましてやそれが決議と関係している会談だったなどということが知られたら、大変なことになるのではないですか」と。モンローの気転のおかげで、これらの決議の著者の正体が明らかになるのは、ずっと後のこととなったのである。

2008年05月24日

知っているようで知らないアメリカ建国の話シリーズその⑤~マディソンの土地投機が成功していたら?~

アップステート・ニューヨークというと、ニューヨーク市から北、広大で見事な景観で知られる地方である。ヴァージニア出身のマディソンは、すくなくとも3度、この地方へ大きな旅行をしている。1度目は、まだ独立戦争が勃発する前の、1774年のこと。College of New York(現在のプリンストン大学)を卒業した後、故郷ヴァージニアに戻ったものの、知的刺激の少なさにカルチャーショックを受け、自らの将来を考えるための旅といった感じで、3ヶ月ほどの放浪に出ている。そして、3度目は、1791年のこと。ジェファーソンの発案で、彼と一緒に長い休暇旅行をしたとき。すでに政治家としての地位を固めた二人は、ヴァーモントやコネチカットまで足を伸ばし、二人の間の友情を一段と深めた重要な旅であったと伝えられている。
しかし、今日の話は、2度目の旅の話。それは1784年のことであり、このときの同行者はフランス人権宣言の起草者として後に有名になるラファイエット。ニューヨークからアルバーニ、そしてモーホークリバーヴレイの荒野へと進んでいった。当時この地方は、開拓のフロンティアとして大きな可能性を秘め、投機的投資が進んでいた。マディソンも、買えるだけの土地を買い、大もうけしようとたくらんだようである。
投機?あの堅物真面目男のマディソンが?なぜ?
ここは議論の分かれるところであるようだが、一部の歴史家たちの(マディソンへ好意的な)解釈によると、マディソンは自分が奴隷を使うプランテーションの経営者であることに罪悪感を覚えていたそうである。実際、1780年代のはじめには、マディソン家は118人の奴隷を抱えていた。そして彼は父親からモンテペリエ(現在彼を記念した建物が残っている)に560エーカーの土地を譲ってもらったところであった。しかし、若きマディソンはその頃はまだそこで一生を送るつもりなど毛頭なく、なんとか奴隷とは関係のない人生の送り方を模索していた。そして、その動機がニューヨークへの投機的投資へとつながっていった、というわけである。
とはいうものの、当時のマディソンは駆け出しであり、大きな儲けを生むだけの資金を持ち合わせていない。それで、彼はフランスにいたジェファーソンに手紙を書き、この投資に加わらないか、と持ちかけている。ジェファーソンの信用があれば、パリでたくさん金を調達できると考えたらしい。しかしジェファーソンは、自分にはそれほど信用があるわけではないと答え、計画はうまくいかなかった。しばらくたって、マディソンは、自分の持ち合わせで買った土地を売って利益を得ることになるのであるが、それは彼を一生奴隷との生活から解放するほどの儲けにはいたらなかった・・・。
マディソンがここで投機に成功し莫大な利益を得ていたら、果たして彼が政治家としての道を続けていたかどうかは、もちろん定かではない。フィラデルフィア会議も、連邦憲法も、共和党も、どうなっていたものか、まったくわからないのである。
ちなみに、ジェファーソンはこの話に加わらなかったが、マディソンの投資計画の相棒は、これまた若きジェームズ・モンローであった。マディソンとモンローとの関係は、非常に面白いが、これはまた次回ということで。

2008年05月20日

知っているようで知らないアメリカ建国の話シリーズその④~アメリカ大統領は何と呼ばれるか?~

アメリカ大統領に呼びかける時、何と呼びかけるか知っていますか?
ふつうに、ミスター○○と、実名で呼んだのでは、失礼に当たるのです。
正解は、「ミスター・プレジデント(Mr. President)」。
この呼称は合衆国建国のときに採用されたものであり、それ以来今日まで使われている。
まあ考えてみれば当たり前のことだが、ひとつの新しい国家が誕生するということは、大変なことなのである。憲法制定や首都建設だけでなく、議事進行のルールとか、さまざまな儀式的慣行とか、何から何まで新しく作らなければならない。
たとえば、1789年4月23日のこと。ワシントンが上院に入り、そこで大統領就任の宣誓を行うことが計画されていた。しかし、ワシントンが入場してきたとき、はたして上院議員たちは座ったままでいいのか、それとも尊敬の意味をこめて椅子から立ち上がるべきなのか。イギリスでは、君主を迎えるのに貴族議員たちは席をたつが、すると同じような行動はせっかくできたアメリカの共和制を君主制のようにしてしまうのではないか。そういえば、ワシントンの前に、事務員を議場に入場させてもいいものなのだろうか。それとも、彼らは入り口のドアのところで待たせておくべきなのか。こんな細かなことまで、ひとつひとつ決めていかなければならなかったのである。
さて、「ミスター・プレジデント」という呼称を考案したのは、ジェームズ・マディソンだった。ところが、この呼称に落ち着くまでには、実は長い議論があったことが知られている。
議論の火付け役は、副大統領のジョン・アダムズだったようである。
アメリカの副大統領というのは、憲法上は上院の議長すなわち「プレジデント」である。そこで、アダムズははたと考えてしまった、「上院で議長としての役割を果たしているときに、ワシントン大統領がその議場に入ってきたら、自分の立場はどうなっちゃうんだろう?」と。
それで、(大統領)ワシントンをなんと呼ぶか、という議論が、上院をあげて大真面目に行われることになった。たとえば「His Excellency」はどうだろうという提案がなされるが、それはすぐに却下される。すでに、州の知事たちが、そう呼ばれていたからである。
ニューイングランド出身で気位の高いアダムズは、アメリカの大統領にも、威厳のある、貴族を思い出させるような呼称が適当と思っていた。そこで、彼は「His Highness」とか「His Most Benign Highness」などの名称を考案した。ちなみに、これを聞いた人民派のトーマス・ジェファーソンは、ただただ呆れかえっていたらしい。ちまたでも、太ったアダムズを馬鹿にするように、「Your Rotundity」などと、陰口がたたかれようになった。
ワシントン自身はどうだったかというと、彼も最初は、長ったらしい「His High Mightiness, the President of the United States and Protector of Their Liberties」という、あたかも貴族のような呼称を気に入っていたようである。ところが、ちまたの評判がいまひとつ芳しくなく、そのような呼称が君主制を想起させるという批判を耳にして、考えを変えるのである。それで、マディソンが考案した、なんともシンプルな「ミスター・プレジデント」がよい、と決心したのである。

2008年05月16日

知っているようで知らないアメリカ建国の話シリーズその③~もしジェファーソンがフランス大使でなかったら?~

1785年から5年間、ジェファーソンは13州を代表する大使としてフランスに滞在した。
もしこの期間にジェファーソンが国内に残っていたら、アメリカはどうなっていただろうかと想像するのは、結構(というか、非常に)知的に楽しい。
周知の通り、フランスにいたことで、ジェファーソンはフィラデルフィアで開かれていた憲法制定会議に出席できなかった。会議で主導的な役割を果たしたのは無二の親友マディソンであったが、そのマディソンはジェファーソンに会議の様子を知らせる手紙を送っている。しかし、このマディソンという男、堅物の超真面目人間である。会議は非公開でその議事を外に漏らしてはならないという取り決めがあったので、マディソンはそれを忠実に守り、大事な親友に対する手紙にもそれほど詳しい内容を書くわけにはいかなかった。パリのジェファーソンは、ずっといらだっていたに違いない。実際、会議を非公開にするなどけしからんと、ジョン・アダムズへの手紙に不満をぶちまけている。
会議が終了し憲法草案が公開されたとき、ジェファーソンがそれに対して「権利章典が含まれていない」と批判的だったことはよく知られている。このあたり、はたしてジェファーソンが国内にいて会議に参加していたらどうなっていただろうかと、われわれの想像を掻き立てる。権利章典を憲法本文に含めると連邦派がまとまらなくなるというのが、現場にいたマディソンの判断であった。しかし、ジェファーソンは、マディソンよりもはるかに理想主義的な熱血漢であった。もしジェファーソンがいたら、会議自体が空中分解していたのではないかと考えるのも、あながち不自然ではない。
さて、マディソンは、会議終了後、連邦派の急先鋒ハミルトン(及びジョン・ジェイ)と一緒に、「パブリウス」という匿名で、ニューヨークの新聞に連邦国家のメリットをアピールする連載を行うことになった。1789年までに各州で新しい憲法が採択される必要があり、連邦派の主張を広くキャンペーンする必要があったからである。連載は会議が終わった直後の1787年10月から翌3月ぐらいまで続き、これが後にThe Federalist Papersとしてまとめられるわけである。
興味深いことに、マディソンはジェファーソンに対して自分がこの共著者であることをなかなか打ち明けていない。憲法会議が終わって一年ほどたった1788年の8月10日付けの手紙の中ではじめて、「そうそう、言うのを忘れていたけど、今度そちらに『ザ・フェデラリスト』という書物が届くと思う」という感じで、とぼけて打ち明けるのである。連載を執筆していた10月から3月までに、マディソンはジェファーソンに何度も手紙を送っており、その中には連邦憲法の行く末についていろいろなことが書かれているが、この共著については一切ふれられていない。どうみても、マディソンは「隠していた」のである。ジェファーソンが国内にいたら、マディソンはハミルトンとの共著に踏み切っていなかったかもしれない。
ちなみに、ハミルトンにとっても、マディソンは共著者としての第一候補ではなかった。彼はガウヴァナー・モリスという、より強力なナショナリストとの共著を考えていたのである。しかし、モリスが断り、マディソンが加わることになったのである。このモリスという男、ジェファーソンの後をうけてフランス大使となる人物である。なんとも奇遇というのか、歴史にはいろいろな偶然がある。

2008年05月14日

知っているようで知らないアメリカ建国の話シリーズその②~ワシントンDCはいつアメリカの首都になったか~

1790年6月のある夜のこと。場所は当時のアメリカの首都ニューヨーク。そこで、ひとつのディナーが開かれた。それが、アメリカの歴史を決めた妥協を生んだとさえいわれている。
ホストはトーマス・ジェファーソン。当時彼は大使として派遣されていたパリから戻ったばかりで、ワシントン大統領のもとで国務長官を務めていた。背が高く、社交上手。フランスから、当時としては貴重品であったワインをたくさん持ち帰っていて、その晩も数本のワインを用意してディナーの成功を演出しようとしていた。
招かれたゲストは二人。一人は、ジェームズ・マディソン。ジェファーソンより年下だが生涯の親友となる若き政治家。当時からして誰もがその才能を認める下院議員であった。そして、もう一人はアレキサンダー・ハミルトン。そう、後にアーロン・バーとの決闘で死んでしまう悲運の政治家。当時は財務長官で、ワシントン大統領からの信任がもっとも厚かった政権の重鎮であった。マディソンとハミルトンは、この頃、政治的に真っ向から対立していた。ディナーは、二人の間をとりもとうとして開かれた宴席であった。
「うん? マディソンとハミルトン? 対立? マディソンとハミルトンって、仲良かったんじゃないの? 一緒にThe Federalist Papers(日本語では『ザ・フェデラリスト』として知られる)を書いたんじゃなかったっけ?」
その通り。確かにマディソンは、1787年に開かれた憲法制定会議の段階では、ハミルトンと協力関係にあった。連邦国家など要らないというアンチフェデラリスト派を説得して各州で連邦憲法を批准させようと、一緒に努力した仲であった。
しかし、いざ連邦ができ、ワシントン政権が誕生すると、ハミルトンとの対立は深まっていった。それは、連邦を強化するために、ハミルトンがあまりに急進的な中央集権化を推し進めようとしたからである。そのひとつとして、独立戦争で各州が背負っていた借金を、連邦政府に背負わせようという提案があった。マディソンやジェファーソンの出身であるヴァージニアなど南部の州では、すでに債務をほとんど返済していたところが多かった。もし、この提案が通ると、政府は増税をして、その肩代わりした債務を返済しようとするかもしれない。つまり、それは、頑張って借金を返した州がさぼっていて借金を返してない州の面倒をみるようなもので、不公平な提案であった。加えて、マディソンは強調した、そもそも憲法には、連邦政府がそんなことできる権限を有しているなど、どこにも書いてない、と。
ディナーの席で、この対立が解消された。そこで成立した妥協は、マディソンが下院でハミルトンの提案を妨害することを止める代わりに、(ニューヨーク出身の)ハミルトンは、南部よりのポトマック川の河畔に合衆国の首都を置くことに同意する、というものであった。ワシントンDC建設が計画され、それが実施されて、首都が移されることになったのである。
もちろん、妥協はあくまで妥協、一時的なものに過ぎない。ハミルトンとマディソンがその後同じ道を歩むことはけっしてなかった。そして、実は、この二人が書いたあの歴史的名著『フェデラリスト』さえ、一時の妥協の産物、あるいは偶然の産物であった、ともいえるのである。その話は、また次回。

2008年05月12日

知っているようで知らないアメリカ建国の話シリーズその①~ワシントンはいつ大統領になったか~

クイズです。アメリカの初代大統領は、誰だったでしょうか?
カンタン、カンタン、答えは、日本の中学生でも知っていますね。
そう、ジョージ・ワシントン。アメリカ史上、もっとも偉大で尊敬されている人物。いまでは、州や首都にその名前が使われている。
桜の木を切っちゃったという、あの有名な逸話は、どうも疑わしいらしいけど・・・。
では、続けてクイズ。
アメリカが独立したのは、何年だったでしょう?
この答えも、高校で世界史を勉強した人なら、知っていますね。
そう、1776年。イギリスとの独立戦争に勝ち、ワシントンと並ぶ建国の父トマス・ジェファーソンが起草した独立宣言を、13の旧植民地が一致して採択した。それが7月4日だったので、アメリカではこの日を独立記念日として、毎年それを盛大に祝うパーティや催しものが開かれる。
では、最後にもう一問。
ワシントンが、アメリカの初代大統領になったのは、何年でしょう?
「うん? 1776年ではないの?」
ちがいます。よーく、考えてください。
1776年に独立したのは、ヴァージニアとか、ペンシルヴァニアとか、ニューヨークとか、13の旧植民地だったのでしたね。それらは、それぞれstateとして呼ばれていた。現代風に考えると、13の国家がそれぞれ独立したようなものである。つまり、この時点では、アメリカ合衆国という、いまの形体のアメリカはまだ存在しなかった。実は、独立のための戦争は、1776年後も、まだ5年ぐらい続く。そして、13の新たに独立した州は、そのあとも「連合規約」というものによって、ゆるやかに結ばれているに過ぎなかったのです。
だから、ワシントンがアメリカの初代大統領になるのは、もっとずっと後のこと。
それは、正確には1789年。その年の4月30日、ワシントンは、ニューヨークで就任宣誓式を行ったとされている。
「うん? 1789年?その年、アメリカではいったい何が起こっていたんだっけ?その年が重要だなんて、世界史で習わなかったぞ。いやまてよ、1789年というと、フランス革命が起こった年だぞ・・・。これって、何か関係あるわけ?・・・」
もちろんあるわけ。
おおありなわけ。
でも、それはおいおい、ゆっくりと語っていきましょう。

アメリカの建国の歴史は、とてつもなく興味深いエピソードに充ちみちている。
それらのいくつかを、この場を借りてシリーズで紹介していくことにしたい(←なんかこのブログとしての性格を大きく逸脱しているなあ)。もしかしたら、アメリカ史の専門家のみなさんからは「そんなこと全~部知っているって」というブーイングが来そうであるが、でもいまボクにとってそれが興味あることなのだから許してください。

さて、最後も、クイズで終わりましょう。
初代大統領となるための就任宣誓式は、なぜニューヨークで行われたのか?
「うん? アメリカの首都は、ワシントンDCじゃなかったっけ?」
ふふふ、答えは次回までのお楽しみ、ということで・・・