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知っているようで知らないアメリカ建国の話シリーズその⑥~国務長官から大統領へ?~

ジェームズ・モンローは、第5代のアメリカ大統領である。日本では「モンロー宣言」という外交上の孤立主義を確立したことで有名だが、アメリカでは独立戦争を描いた「デラウェア川を越えるワシントン」という絵の中でアメリカの旗を持っている男、といったほうがピンとくる人がより多いかもしれない。
モンローが大統領になったのは、共和党の絶頂期であった。彼の前には、ジェファーソンとマディソンという二人の偉大な建国の父がそれぞれ2期8年ずつ大統領をつとめていた。モンロー自身も2期8年つとめ、そのあとジョン・クィンシー・アダムズへと引き継いでいる。
この間の政権交代を見ていると、ある共通点が浮かび上がる。それは、前国務長官が次の大統領になっている、というパターンである。すなわち、マディソンはジェファーソン政権下の国務長官であり、モンローはマディソンの下での国務長官であった。そして、J・Q・アダムズもまた、モンロー政権で国務長官をつとめていた。
日本には禅譲という言葉があるが、こうしてみるとこの頃のアメリカでは、政権交代がスムーズにいっていたように見える。大統領は自分の後任にもっともふさわしいと思う人を国務長官に据えて、内外にアピールしたかったのかもしれない。
しかし、このモンローという男、実は、大統領になる前に、マディソンと何度も政治的に対立している。まずは、1788年のこと。(マディソンらが作った)連邦憲法を採択することに反対し、ヴァージニア州において反フェデラリストとして論陣を張った。そして1789年の第1回連邦議会選挙では、マディソンに対抗してヴァージニアから立候補している。そして、マディソンが次期大統領候補としての地位を固めつつあった1808年にも、彼はもう一度彼の対抗馬として名乗りを上げている。モンローは若い時からジェファーソンの寵愛を受けていた。そのジェファーソンが次期大統領にマディソンを推したことで、モンローはかなり落ち込んだらしい。しかし、結局マディソンもモンローの才能を再び高く評価するようになり、1811年彼を国務長官に任命して、自分の後継者とみなすようになるのである。
もっとも、ときに政治的主張がずれることはあっても、マディソンとモンローの二人の間には、ジェファーソンを介して、けっして崩れることのない尊敬と信頼関係があったようである。実際、この3人の間のコラボレーションは、多くの見事な成果を生んだとも考えられる。たとえば、マディソンが第1回連邦議会において、権利章典を含む憲法の修正を主張するようになったのは、ヴァージニアでの論争の中で、モンローが彼にそれを約束させるまで追い詰めたからだといわれている。このときジェファーソンはフランスにいたわけだが、ここでは彼の主張をモンローが代弁しそれをマディソンが受け入れたという構図になっているのである。
モンローがいなかったら、マディソンとジェファーソンの政治生命が早く絶たれていたかもしれない、というエピソードもある。
それは、ジョン・アダムズ(連邦党)政権のもとでの「外人・治安法」成立に対抗して、ジェファーソンとマディソンが秘密裏にそれぞれヴァージニア決議とケンタッキー決議を起草した後のことであった。ある夜、ジェファーソンは、第2弾のヴァージニア決議の相談のためマディソン宅を訪れようとする。しかし、たまたまその場に居合わせたモンローが、ジェファーソンを引き止めて言う。「今の時期、政権側の副大統領(ジェファーソン)とヴァージニア州の下院代表(マディソン)が会談したということが知られたら、ましてやそれが決議と関係している会談だったなどということが知られたら、大変なことになるのではないですか」と。モンローの気転のおかげで、これらの決議の著者の正体が明らかになるのは、ずっと後のこととなったのである。