知っているようで知らないアメリカ建国の話シリーズその②~ワシントンDCはいつアメリカの首都になったか~
1790年6月のある夜のこと。場所は当時のアメリカの首都ニューヨーク。そこで、ひとつのディナーが開かれた。それが、アメリカの歴史を決めた妥協を生んだとさえいわれている。
ホストはトーマス・ジェファーソン。当時彼は大使として派遣されていたパリから戻ったばかりで、ワシントン大統領のもとで国務長官を務めていた。背が高く、社交上手。フランスから、当時としては貴重品であったワインをたくさん持ち帰っていて、その晩も数本のワインを用意してディナーの成功を演出しようとしていた。
招かれたゲストは二人。一人は、ジェームズ・マディソン。ジェファーソンより年下だが生涯の親友となる若き政治家。当時からして誰もがその才能を認める下院議員であった。そして、もう一人はアレキサンダー・ハミルトン。そう、後にアーロン・バーとの決闘で死んでしまう悲運の政治家。当時は財務長官で、ワシントン大統領からの信任がもっとも厚かった政権の重鎮であった。マディソンとハミルトンは、この頃、政治的に真っ向から対立していた。ディナーは、二人の間をとりもとうとして開かれた宴席であった。
「うん? マディソンとハミルトン? 対立? マディソンとハミルトンって、仲良かったんじゃないの? 一緒にThe Federalist Papers(日本語では『ザ・フェデラリスト』として知られる)を書いたんじゃなかったっけ?」
その通り。確かにマディソンは、1787年に開かれた憲法制定会議の段階では、ハミルトンと協力関係にあった。連邦国家など要らないというアンチフェデラリスト派を説得して各州で連邦憲法を批准させようと、一緒に努力した仲であった。
しかし、いざ連邦ができ、ワシントン政権が誕生すると、ハミルトンとの対立は深まっていった。それは、連邦を強化するために、ハミルトンがあまりに急進的な中央集権化を推し進めようとしたからである。そのひとつとして、独立戦争で各州が背負っていた借金を、連邦政府に背負わせようという提案があった。マディソンやジェファーソンの出身であるヴァージニアなど南部の州では、すでに債務をほとんど返済していたところが多かった。もし、この提案が通ると、政府は増税をして、その肩代わりした債務を返済しようとするかもしれない。つまり、それは、頑張って借金を返した州がさぼっていて借金を返してない州の面倒をみるようなもので、不公平な提案であった。加えて、マディソンは強調した、そもそも憲法には、連邦政府がそんなことできる権限を有しているなど、どこにも書いてない、と。
ディナーの席で、この対立が解消された。そこで成立した妥協は、マディソンが下院でハミルトンの提案を妨害することを止める代わりに、(ニューヨーク出身の)ハミルトンは、南部よりのポトマック川の河畔に合衆国の首都を置くことに同意する、というものであった。ワシントンDC建設が計画され、それが実施されて、首都が移されることになったのである。
もちろん、妥協はあくまで妥協、一時的なものに過ぎない。ハミルトンとマディソンがその後同じ道を歩むことはけっしてなかった。そして、実は、この二人が書いたあの歴史的名著『フェデラリスト』さえ、一時の妥協の産物、あるいは偶然の産物であった、ともいえるのである。その話は、また次回。