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知っているようで知らないアメリカ建国の話シリーズその③~もしジェファーソンがフランス大使でなかったら?~

1785年から5年間、ジェファーソンは13州を代表する大使としてフランスに滞在した。
もしこの期間にジェファーソンが国内に残っていたら、アメリカはどうなっていただろうかと想像するのは、結構(というか、非常に)知的に楽しい。
周知の通り、フランスにいたことで、ジェファーソンはフィラデルフィアで開かれていた憲法制定会議に出席できなかった。会議で主導的な役割を果たしたのは無二の親友マディソンであったが、そのマディソンはジェファーソンに会議の様子を知らせる手紙を送っている。しかし、このマディソンという男、堅物の超真面目人間である。会議は非公開でその議事を外に漏らしてはならないという取り決めがあったので、マディソンはそれを忠実に守り、大事な親友に対する手紙にもそれほど詳しい内容を書くわけにはいかなかった。パリのジェファーソンは、ずっといらだっていたに違いない。実際、会議を非公開にするなどけしからんと、ジョン・アダムズへの手紙に不満をぶちまけている。
会議が終了し憲法草案が公開されたとき、ジェファーソンがそれに対して「権利章典が含まれていない」と批判的だったことはよく知られている。このあたり、はたしてジェファーソンが国内にいて会議に参加していたらどうなっていただろうかと、われわれの想像を掻き立てる。権利章典を憲法本文に含めると連邦派がまとまらなくなるというのが、現場にいたマディソンの判断であった。しかし、ジェファーソンは、マディソンよりもはるかに理想主義的な熱血漢であった。もしジェファーソンがいたら、会議自体が空中分解していたのではないかと考えるのも、あながち不自然ではない。
さて、マディソンは、会議終了後、連邦派の急先鋒ハミルトン(及びジョン・ジェイ)と一緒に、「パブリウス」という匿名で、ニューヨークの新聞に連邦国家のメリットをアピールする連載を行うことになった。1789年までに各州で新しい憲法が採択される必要があり、連邦派の主張を広くキャンペーンする必要があったからである。連載は会議が終わった直後の1787年10月から翌3月ぐらいまで続き、これが後にThe Federalist Papersとしてまとめられるわけである。
興味深いことに、マディソンはジェファーソンに対して自分がこの共著者であることをなかなか打ち明けていない。憲法会議が終わって一年ほどたった1788年の8月10日付けの手紙の中ではじめて、「そうそう、言うのを忘れていたけど、今度そちらに『ザ・フェデラリスト』という書物が届くと思う」という感じで、とぼけて打ち明けるのである。連載を執筆していた10月から3月までに、マディソンはジェファーソンに何度も手紙を送っており、その中には連邦憲法の行く末についていろいろなことが書かれているが、この共著については一切ふれられていない。どうみても、マディソンは「隠していた」のである。ジェファーソンが国内にいたら、マディソンはハミルトンとの共著に踏み切っていなかったかもしれない。
ちなみに、ハミルトンにとっても、マディソンは共著者としての第一候補ではなかった。彼はガウヴァナー・モリスという、より強力なナショナリストとの共著を考えていたのである。しかし、モリスが断り、マディソンが加わることになったのである。このモリスという男、ジェファーソンの後をうけてフランス大使となる人物である。なんとも奇遇というのか、歴史にはいろいろな偶然がある。