コーヒーテーブルと写真と日本のプライバシー感覚の話
ボクのうちにはコーヒーテーブルがある。それは、ソファーの前に置いてあって、2段の透明なガラスでできている。ボクの家に招かれたゲストたちは、まずはそこへ案内され、コーヒーやお茶のもてなしをうける。時間帯によっては、ビールやワインということもあるが、我が家ではとりあえずそこが一服する場所、ということになっている。
前に北米に住んでいたとき、どこの家のコーヒーテーブルにも、コーヒーテーブル用の、趣味のよい本や写真集がおいてあった。ホストがコーヒーや紅茶の用意をしたり、あるいはディナーを料理したりするあいだ、ゲストが手持ちぶさたにならないよう、ぱらぱらとめくるために置かれているのである。それゆえ、なかなか手にはいらない有名な小説の初版本とか、面白いジョーク集とか、凝った写真集がおいてあることが多かった。
ボクはこの習慣はとてもよい気配りになると思っているので、うちのコーヒーテーブルにも常時いくつかの本と写真集を置くようにしている。現に今置いてあるのは、ひとつはカナダで買ってきたグレン・グールドの写真集。もうひとつは南アフリカで買ってきたサファリ(ボクが実際に泊まったリザーブ)の写真集。もうひとつは韓国で買ってきた、夭逝した現代芸術家の作品集。そしてもうひとつは卒業生たちがくれた吉永小百合の写真集。このように、ボクはボクなりに、おもしろい組み合わせを考えて、どのような趣味をもった人が来訪しても対応できるようにしているつもりなのである。
ところが、最近気付いたのであるが、ボクの家を訪れる日本人の友人や知人たちは、これらの写真集を手にとって見ることがまずない。(面白いことに、外国人は必ず手にとる。)どうもうちに来る日本人は、コーヒーテーブルにおいてあるそれらのものが、ボク自身がよく手にするパーソナルな品々で、覗いてはいけないものと思ってるらしいのである。そういえば、コーヒーテーブルの上の写真集だけではない。ボクの家にはいろいろなところに、自分や家族や友人の写真が飾ってあるのであるが、彼らはそれらについても、横目でちらちらみるだけで、お世辞のひとつも言わない。ましてや「ここに写っているこれ誰?」などと質問することもないのである。
こうした経験は、日本におけるプライバシー感覚のちぐはぐさを物語っていると思う。ボクにしてみれば、ある人を家に招待したということは、もうその時点で、その人に対して自分のプライベートな空間を見せる覚悟を決めたということを意味する。だから、ボクにいわせると、すでに家まで入り込んできているくせに、コーヒーテーブルの上の写真集を手にとらなかったり、壁にかかっている写真について何もコメントしないのは、むしろおかしい。もちろん、どうしても隠したいベッドルームとか洗濯物とかのある部屋は、ドアを開けてないので、そこではちゃんとプライバシーを守っている。しかし、こちらが共有するつもりでいた空間を共有してくれないのは、どこか手を差し伸べたのに拒絶された感じがして、寂しい感じがするのである。
もしボクがある人の家に招待されていくことになったら(そしてパーソナルな写真がそこに隠さず飾ってあったら)、そのホストはボクとプライベートな空間をある程度共有する心構えでいるのだなと解釈すると思う。そのとき、こちらが何も反応しなかったら、かえって相手に対して失礼にあたってしまう。なぜなら、それは、自分にはあなたとプライベートな空間を共有する心構えがありませんよと宣言しているととられても仕方ないからである。