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本能と直感について

先日、ある人と話していたら、われわれ人間が普段の生活においていかに本能や直感に頼って生きているか、しかしそれにもかかわらず、いかにそうした能力を過小評価しているか、ということで意見が一致した。いうまでもなく、近代以降、人間社会においては、「理性」なるものが重んじられるようになった。また、喜怒哀楽といった「感情」も、人間にとってそれなりに大事であると、一般に考えられている。それに引き換え、本能とか直感はどちらかというと軽んじられ、むやみやたらにそれらに従ってはいけないと諭されることが多いように思える。しばしば、本能に従うことは、他の動物と同じレベルに人間を引き下げる、蔑むべき行為であるかのように語られる。そして、われわれは、学校選びとか結婚とか就職とかいった人生の岐路の重大な決定を、単なる直感によって決めてはいけないと、小さい頃から教えられて育つ。
しかし、人間も動物である。動物は、種の保存や身の安全のために、さまざまな鋭い感覚を発達させている。たとえば、動物は、すれちがいざま(あるいはすれちがうはるか以前から)、瞬時にして、相手が自分に対して危険な存在かどうかを直感で察知するようにプログラム化されている。同様に、動物は、膨大な選択肢の中から、子孫を残すためにはどの相手と生殖行為を行うのが適切かを、本能的に見きわめるようにプログラム化されている。当然のことながら、そうした感覚は、人間も身につけている。そして、実に驚くべきほどに、われわれは普段から、そうした感覚をおおいに使って生活しているのである。
たとえば、われわれは、電車に乗って席が空いていても、その空いている席の横に座っている人の目つきとか風体とかから何かを感じとって、「この人の隣りには座りたくない」と瞬時に判断する時がある。また、われわれは、暗闇を歩いていて向こうに人影が見えたとき、その人影の動きや雰囲気から、それが危険な人物かそうでないかを、やはり瞬時に判断することができる。さらに、われわれは、食事の席やパーティーの場で、ある異性が自分に対して関心を向けてくれているかどうかを、その人の視線とかボディランゲージのようなものを通して実感することもある。これらの感覚は、その根拠を示せといわれると、なかなか示せるようなものではない。しかし、こうした本能とか直感が働いているからこそ、平均的な人生の中で、われわれはそれほど多くの事故にもあわないし、またそれほど多くの事件に巻き込まれることもない、ともいえるのである。
それゆえ、コミュニケーション手段が文字媒体であるとき、しかも手書きの手紙ではなく、電子メールのような決められたフォントを使わなければならないとき、われわれは、多くの利用すべき感覚を利用できない状態のまま、意思疎通を図ろうとしているのだ、といわねばならない。電子メールのやりとりから、友情や愛情を育んだり、信頼や尊敬を構築しようとすることはきわめて難しい。電子メールは便利であるが、電子メールによるコミュニケーションが誤解や行き違いに発展しやすいことは、肝に銘じておかねばならない。
さて、近日中に、いよいよ新しいゼミ生候補たちとの面接が始まる。
ボクの直感と本能をフルに利用して、今年もまたよい学生たちにめぐり合えるようにしたい。