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2006年04月29日

賞味期限の哲学

誰が考えたのか、この世には賞味期限というコンセプトがある。
このコンセプトは、われわれの人生に緊張感をもたらしている。賞味期限があるゆえに、われわれはしなくてもよい意思決定を迫られる。しかし、賞味期限があるゆえに、われわれの存在は、大いに自立し、活性化されている。
たとえば、ボクは朝、よく牛乳とヨーグルトを口にするのであるが、どちらにも賞味期限が付いている。ある日、ふと自分が食べようとしていたヨーグルトの賞味期限が切れていたとする。すると、ボクは、賞味期限を守ってそのヨーグルトを捨てるか、それとももったいないから賞味期限を破って食べてしまうか、という選択を迫られているわけである。一日や二日ぐらい過ぎていたっておそらく大丈夫だろうと考えて食べてしまうのも自己責任。他方、これを食べてお腹をこわしたら嫌だなと、買ったヨーグルトを無駄にしてしまうのも自己責任。どちらにせよ、賞味期限が表示されていることで、自分で自分の行う行為に責任を取ることが強制されるようになっている。
賞味期限は、その商品を購入する時点においても、複雑な意思決定を迫っていることが多い。たとえば、ある人が明日の朝の牛乳がないことに気付き、近くのコンビニへ行くとする。そこにはあと3日で切れる小さな牛乳とあと一週間は持つ大きな牛乳とが置いてある。たいてい前者は後者より割高な価格設定になっている。すると、この人は、そこで即座に、自分の一週間分の行動を頭に思い描くことを迫られる。この一週間のうちに、出張などで家をあけることはなかったっけ、とか、今度友人が家に遊びにくることになっているがその友人はコーヒーにミルクを入れるんだっけ、とか、そうそう冷蔵庫にイチゴが買ってあったからイチゴにかけるミルクを余分に買っておかなければならないじゃないか、といった具合に、いろいろなことが頭の中をかけめぐる。そうしていろいろ考えた末に、自分の思考が及ぶ限りにおいて、適切な選択をしているのである。
もちろん、この世の中には、人生をぼやぼや生きてたり、あいまいに生きてたりする人もいる。そういう人は、賞味期限に由来するこうした複雑な意思決定をショートカットしがちである。しかし、そういう人の冷蔵庫の中には、賞味期限の過ぎた製品がワンサカ入っているものである。そして、ぼやぼやあいまいだから、その人はいつか賞味期限のとっくに過ぎていた牛乳やヨーグルトを口にし、おなかをこわすというしっぺ返しを食らうことになっている。ま、世の中、うまくできているのである。
賞味期限なるものは、毎日使うものだけに付いているわけではない。隠れてひっそりと(?)付いている場合がある。食卓用の醤油を大瓶で購入したりすると、すっかり忘れてしまって、いつのまにか期限が切れているということがある。サラダドレッシングや生パン粉にも、もちろん賞味期限があるが、これらもしばらく使わないでいると、いつのまにか切れている。しかし、一週間分の行動予定ぐらいなら頭に思い浮かべることはできるが、3ヶ月とか1年先まで考えて、ドレッシングや生パン粉を購入するわけにはいかない。だから、面白いことに、期限の過ぎたドレッシングや生パン粉は、牛乳やヨーグルトの場合と違って、以外にあっさりと、後悔の念に駆られず捨てることができるのである。

2006年04月26日

長嶋茂雄

ボクの永遠のヒーローは、長嶋さんである。
ボクが野球のユニフォームを最初に作ったのは、たしか小学校3年か4年のときであったが、もちろん背番号は3番だった。袖にはオレンジ色でgiantsの文字。おそらく、その頃、世の中に出回っていた少年野球ユニフォームの半分ぐらいは、背番号が3だったのではないか。それくらい、長嶋さんは、ボクら少年たちのあこがれであった。
東京ドームの前身は、後楽園球場といった。そこに、ボクは1年のうち2-3回、ジャイアンツ戦を見に行っていた。幼心に「ここで打ってよー」と祈ると、長嶋さんは必ず打ってランナーを返してくれた。幼心に「これ取ってよー」と念じると、ボールはちゃんと長嶋さんのグラブの中におさまっていた。そんな人は、あとにも先にも、ほかにいない。だから、彼は、ボクにとって永遠のヒーローとして、心に刻まれている。
つい先日、長嶋さんをお見かけした。
実は、今回は、言葉まで交わしてしまった。
場所は、あの文化理髪。
その日、ボクは4時に予約をいれていた。店に着くと、店主がいつもの窓側とは違う席にボクを案内する。一瞬「あれ?」と思ったが、機材でも調整してるんだろうぐらいに思っていた。で、散髪が進む中「このごろ、監督お見えになるの?」と訊いてみた。すると、「いや、実は、今日、4時過ぎに来ることになってるんですよ」という。
「ええっー!!!!!」
そういえば、長嶋さんを担当するもう一人の理容師さんが、そわそわしている。窓側の席は、今日はVIP席に早変わりしている。そして、なんとなく、ボクの髪を切っている店主にも、落ち着きがない。床の上に散乱しているボクの髪の毛を、頻繁に掃除して片付けている。で、そのたびごとに、ちらちらと、時計を気にしている。
ボクが座った席は、入り口のまん前の席である。つまりボクは長嶋さんが店に入ってくると、鏡ごしに彼と真正面に向かい合う位置にいる。こんな絶好な機会はない。今日は、何が何でも、なんとか大きな声で挨拶だけしよう、と決心する。もうそれからは、こちらもドキドキ、そわそわ。もう4時15分だぞ・・・ドキドキ・・・あれれ、もう4時半だぞ・・・そわそわ・・・まさかもうこないんじゃないだろうな・・・ドキドキ・・・そわそわ・・・
しかし、みなさん・・・(松平アナ風に)ついにそのときがやってきました・・・。自動ドアが開いて、長嶋さんが入ってくる。ドキドキは最高潮に達する。「こんにちわー」と、ボクが大きな声でいい、大きくお辞儀をする。すると、長嶋さんも、「あ、こんにちわー」といって、ボクをみる。目と目がしっかりと合った。やったー!ついに、言葉を交わした。目線まで交わした。長嶋さんは、ボクに、ボクだけに「こんにちわー」って、いったんだからね♪
今度の日曜日、ボクの入っている草野球チームの試合がある。
ボクの背番号は、いまでも、もちろん、3番である。

2006年04月20日

食道楽

ボクは、基本的に食べることが大好きである。
悲しいかな、この「基本的に」というところが、今日の話のポイントですね。
食べることは大好きなのだが、食べ過ぎると太るという法則がいまではボクにも当てはまるようになってしまったからである。
昔はそんなことはなかった。すこぶるノーテンキであった。ボクだけは、この法則から一生逃げきれると、思っていた。自分が何万人にひとりの幸運な人と、ずっとたかをくくっていた。
しかし、やっぱり甘かった。いつしか、確実におなか周りが充実しはじめた。特に脇腹の充実度が最近とっても高い。ジョギングのときに、一生懸命、身体をよじったりひねったりして、ボクなりに「サイドをえぐる動き」をいろいろ試みる。だが、なかなか成果が上がらない。
というわけで、無心に好きなものをなんでも食べてよい時代は、ボクにとって終わってしまった。
食べ過ぎると太る・・・、考えてみれば人間の活動というか営みに関して、これほど単純でしかも一般的に当てはまる法則はなかなかないのではないか。食べ過ぎると太る、食べ過ぎなければ太らない、太るのは食べ過ぎたから、太ってないのは食べ過ぎに注意しているから・・・などと、命題の逆だの裏だの対偶だのをとってみても、すべて真である。しかも、この命題は、日本人だけでなく、アメリカ人であろうが、エジプト人であろうが、タンザニア人であろうが、世界のどこへ行っても通じる(←多分)。ニュートンのリンゴ落下法則と同じくらい、汎用性の高い命題である。
で、そのことをよく承知しているのであるが、なんとですね、昨日ですね、ボクは一日に5食も食べてしまいました。5食!自分でも「あれれー、いいのー?」って感じです・・・トホホ・・・。どういう経緯で、そうなってしまったのか。これがよくわからない。よくわからないが、あとで勘定してみたら、どうも5回も食事らしきものをとっていた、ということになってしまっていたのです。
まず一回目。これは、家でパンを朝食べました。そして二回目。1限と2限とのあいだに、おなかが空いてしまって(←いちいち言い訳がましい)、カフェ125でベーグルサンド(スモークチキン)を買ってきて、谷澤さんの授業を聴講しながら食べてしまいました。三回目、午後、研究室でずっと三谷君と論文を書いていたら、3時ごろにまたお腹がすいてきたので(←はいはい)、たまたま訪れた荒井君と3人で連れ立って、ラーメンを食べに行きました。そのときは餃子まで食べてしまいました。そして、その夕方は、大隈会館で、院生たちを囲むレセプションがあり、そこでもお鮨とサンドイッチなどを食べました。会費を払ったので食わなきゃ損かなという根性が働いてしまって(←アホ)、皿をあさるように、ローストビーフなども食べてしまいました。で、そのあと、久米先生と和食店で、野菜天ぷらとか、和牛カルビとか、を食べてしまいました。
あちゃー。これで、しめて何カロリーなんだろうか。こう書いてみると、あらためて、ゾッとするなあ。おっと、ここにはアルコールがまだ計算に入っていないぞ・・・大変だぞ、これは・・・ええと、大隈会館でビールが3-4杯に、ワインが3杯ぐらいに、和食店でビールが・・・・

2006年04月12日

Decaffinated Coffeeその他の発明

Decaffinated Coffee、つまりカフェイン抜きのコーヒーを発明した人は、天才である。なんたって、コーヒーのコク深い香りや味を、カフェインの作用を気にせず楽しめるということを可能にしちゃったんだからね。ボクはこれでもけっこう繊細な神経の持ち主なので(←ほんとダヨ)、夜遅くなってからコーヒーを飲むと眠れなくなる。外食をするとレストランによってはデザートが登場するのが10時とか10時半を過ぎることもあるが、こんなに遅くなってからコーヒーを飲んで大丈夫かな、と心配になる。そういうときに、店の人からDecaffinated Coffeeもありますよ、といわれるととても嬉しい。
ところで、このDecaffinated Coffeeって、日本語で何というんですかね?英語ではこれを「De-Caf」(前方Deの方にアクセント)と略すのであるが、日本で「ディカフェ」といってもほとんど通じない。実は、昨夜も、夕食のあとに丸ビルの一階にあるカフェでデザートを食べようということになって、ウェイトレスさんに「ディカフェありますか」といったら、ぜんぜん通じなかった。そこで、「カフェイン抜きのコーヒーありますか」と聞き直すと、そのウェイトレスさんは不思議そうな顔して「カフェインだけのコーヒーですか」と聞き返してきた。ナイスボケ!キミねえ、ちょっとねえ、いくら若いとはいえねえ・・・、もうすこし勉強しなさい。
考えると、世の中の発明には、「ナントカ抜きカントカ」系と、「ナントカ入りカントカ」系との、正反対の方向性をもった二種類がある。前者の典型として、昔から名を馳せているのはなんといっても種無しブドウ、より最近では種無しスイカでしょうかね。これらを発明した人は、すごく偉いと思う。口にいったん入れてから出すあの「ぺっ」(スイカの場合は「ぺっ、ぺっ」)という、人間にとってなんとも醜い行為を、この世から消滅させた貢献はたいしたものである。それから、アルコール抜きのビールとか、アルコール抜きのシャンパンとかいうのもあるけど、これらを発明した人も、もちろん偉い。社会から悪酔い飲酒運転を減らすことに貢献しているんだから、もう表彰モンである。
これに比べると「ナントカ入りカントカ」系の方の発明は、あんまりぱっとしない。ちがうものを一緒にしようという発想には、効率性や利便性の追求というところもあるが、それらを通り越して、手抜き、馴れ合い、安っぽさ、などといった概念に通じるところがある。たとえば、安いホテルに泊まると、バスルームに「コンディショナー入りシャンプー」が置いてある。これをみると、ああ、このホテル経営努力をしてて偉いなと、たしかに一瞬思うが、次の瞬間とっても悲しくなってくる。シャンプーとコンディショナーもちがう容器に入れられないのかよ、そこまでするのかよ、そこまでするホテルにオレは泊まっているのかよ・・・、といった感じである。実際、コンディショナー入りシャンプーなるものの洗い心地は、よかったためしがない。
と、思ったら、今朝「ナントカ入りカントカ」系の発明で、毎日お世話になっているものがあることに気付いてしまった。あの、「野菜一日これ一本」とかいう類のドリンク。あれは、すごい。あれを飲むと、健康になった(心地よい)錯覚に陥るところがとってもよい。

2006年04月11日

原初記憶

今井美樹の歌に、「瞳がほほえむから」という名曲がある。ある事情により、ボクの歴代のゼミ生たちは、ボクがこの歌を大好きだということを、よーく知っている(クスクス笑)。で、この歌、「♪ねえ~この世に生ま~~れて、最初の朝に、何が見~えた~の…」って始まるんですね。しかし、この歌詞、やっぱりおかしい。
ちょっと人生幸朗的、「オーイ責任者出てコーイ」的ツッコミを入れるようですが、この世に生まれた日に、人間の赤ちゃんに何かが見えるなんてことは、あ・り・え・ま・せ・ん。生まれてすぐの赤ちゃんは、だいたい目を開けてないし、開けていても見えない。万が一、何か見えたとしても、何を見たか覚えているわけがないじゃないですか。覚えていたら、その人お釈迦様と肩をならべちゃうじゃないですか。だから、上の歌詞は「♪ねえ~この世に生ま~~れて、最初に覚えていることってな~に~?」ぐらいの意味に解した方がいいんでしょうね。
では、みなさん、この世に生まれて、最初に覚えていることって、何ですか。
あなたにとっての、原初記憶とでもいうのでしょうか、それはいったい何でしょうか。
ボクの中には、そうした記憶としては、幼稚園の頃の情景のいくつかが鮮明に残っている。机や椅子、一緒に遊んだ同級生のこと、担任(「梅組」)の先生の顔、これらがいまでもはっきり浮かんでくる。初恋の相手の顔も名前も覚えているし、運動会の徒競走で一番になってリボンをもらった記憶もある。ただ、その中で、自分が誰かと会話したことをしっかりと覚えているのは、次のような光景である。
ある日、トイレに入った。そしたら、隣でオシッコをしている同級生が、「こうの、何歳?」ときいてくる。実は、ソイツ(←名前覚えていない)、先ほど5歳の誕生日をみんなでお祝いしてもらったばかりである。で、ソイツ、ボクがまだ4歳だというのを知っていて、年上であることの優越感にひたりたいがために、わざとそういう質問をしてきたのである。そのとき、ボクは、とっさに嘘をついて、「5歳」といった。子供心に、コイツいやなヤツ、と思ったんだろうね。これが、ボクの記憶の中にある自分のはじめての言葉である。もちろん、それは(覚えている限りで)ボクが人生でついた最初の嘘、でもある。そして、それは、ボクがオシッコしながらついたはじめての嘘、でもある。
さて、自分にとってのこうした原初記憶が、最近の子供たちのあいだではどうも曖昧になってきているらしい。なぜかというと、ビデオカメラなどが流通し、ビデオテープで繰り返し見て覚えてしまった光景が、自分の本当の(生の)記憶とごっちゃになってしまうからのようである。もっとも、ボクらの世代でも、親とか親戚のおばさんとかからしつこく聞かされたことが、記憶として定着しちゃっていることもある。ボクの祖母は、「あんたは、小さい頃、庭の柿の木を見上げて『モモ』っていってた」といって、ボクをからかった。ボクは、そんなこともあったかもしれないという気にもなっているが、浮かんでくる情景は、祖母がボクを抱きかかえて庭の木を見上げている姿である。しかし、考えてみれば、祖母に抱きかかえられたボクを傍観しているもうひとり別のボクがいるわけはない。だから、やっぱりこれはあとから「作られた記憶」なんだろうな、とボクは思っている。

2006年04月07日

大学教授と似た職業は何か

大学教授と似た職業は何か。それは、ずばり、落語家です。
だって、そうでしょう。まず、どちらも、大勢の人の前で長い時間にわたって、ひとりで話をする商売である。最近は、凝ったパワーポイントやビデオというような「鳴り物」が入ることもあるけど、ほとんどしゃべることだけで観客をひきつけなければならない。話がつまらなければ、観客はすぐに寝る。ホント最近の客は、遠慮も恥らいもなく、グーグー寝る。それで、こちらが寝させないよういろいろ「くすぐり」を入れるところもよく似ている。どちらも、時間がきたら話をきりあげて、高座からさっさとおりなければならない。それから、同じネタを、違う観客相手に何度も繰り返して話すところも、実にそっくりである。
逆に、大学のセンセイと似ても似つかない職業は、この世の中にたくさんある。歌舞伎役者と大学教授との間に共通点がありますか?マツモトキヨシの売り子さんと大学教授との間に共通点がありますか?消防士と大学教授、タクシーの運転手と大学教授、ペット犬のブリーダーと大学教授…ね、どうです、こうして思いつくままにいろいろ職業を挙げていっても、どれもほとんど似てないでしょう。
もちろん、大学教授にも、落語家と同じようにいろいろなタイプの人がいます。たとえば、ですね、もちネタの数は少ないけれども、ひとつひとつをとことん極めていく人。落語家でいうと、先代桂文楽。その反対に、ぶっつけ本番でも客を魅了しちゃう、天才肌の志ん生タイプ。いるいる、それぞれにそういう感じの人。そのほかにも、古いネタを掘り起こして現代へ適用しようとする米朝のような人、地味だけどクロウト受けする仕事をする八代目可楽みたいな感じの人、研究熱心で多くの分野から知識を吸収しようとする小朝のような人、既成概念をハチャメチャに破ってやろうという枝雀や円丈、ウケればいいじゃんと割り切る三平、時事問題を軽いノリで滑っていく文珍、などなど…。あはは、どのセンセイがどのタイプかを考えていくと、これ結構面白いな…。
大学教授の生態というのか習性というのか、これも落語家のそれと非常によく似ている。大学のセンセイたちはふつう学会なるものに属している。ところが、この学会なるものが、いま日本では分裂、乱立状態なんですね。学会という組織の理事とか理事長とかになると何かいいことあるのかどうか知らないけれども(←ボクはなったことがない)、落語家たちの団体も東西に分かれ、さらにいろいろな協会が独立してある。三遊亭円生たちが落語協会から追い出されたり、立川談志が柳家小さん一門から「破門」されたりしたことがあったけれども、そういえば似たようなことがわれわれ学者の世界にもあったっけ、とおかしくなってくる。
いっておきますが、「落語なんて、ただの娯楽にすぎないじゃない、学問のためにある大学の授業と同じわけないわよ」(←なぜか東京女言葉)なんて、いまどき野暮な反論をしたらいけませんよ。落語にも、歴史物や人情話のように、ためになる話がいっぱいある。一方、大学にも、何の役にもたたない講義もたくさんあるんですから。

2006年04月05日

ジョギングの快楽

ボクがいま住んでいるマンションに越したのは、ジョギングのためである。すぐそばに山下公園があり、赤レンガ倉庫、みなとみらいへと走りやすい遊歩道が続いている。それが海側コースだとすれば、もうひとつは、元町から山手へむかって坂を上がり、フェリスや外人墓地の前を通って降りてくるという山側コース。どちらのコースもだいたい30分弱である。二つを組み合わせて、一時間ぐらい走ることもある。
よく、ジョギングなどすると疲れちゃうと思っている人がいるけれども、それはまったく違いますね。朝30分走っただけで、目や頭が冴えて、一日中シャキっとしていられる。逆に走らない日のほうが、昼ごはんの後や帰りの電車の中で、ぐったりして眠くなったりする。
もちろん、精神衛生上も、ジョギングは非常によい。ボクの場合、いつも締め切りを抱えているので、自分で時間を作らない限り四六時中仕事に追い詰められる生活になってしまう。「ジョギングしている暇なんかないのに」と思う一方で、それでもジョギングを強行する。すると、なにより自分の「自由」を取り戻せたと感じることができる。また、運動をしているということが、自分の自信にもつながる。汗をびっしょりかくと、「おお、いい汗かいてるじゃん、44歳とはいえ、まだまだ大丈夫だな」とか思う。
ボクがジョギングを始めたのは、スタンフォードの院生時代だった。パートナーを見つけて、週に2日一時間ぐらい一緒に走っていた。アメリカでは、ジョギング人口がものすごい。どの時間帯にキャンパスのどこを走っても、何十人のジョガーたちとすれちがう。しかし、日本に帰ってきてからは、ジョギングに適した場所もなく、走らなくなってしまった。それを再開することにしたのには、あるきっかけがあった。
2000年夏、ケベックシティーでの世界政治学会のとき、並行して日米の少数の研究者だけのある会議が開かれた。朝の9時から午後の5時まで、スケジュールのびっしり詰まった2日間にわたる会議だった。その1日目、会議が終了すると、インディアナ大学(当時)のハックフェルド先生が、「これから5キロぐらい走ろうと思うけど、誰か一緒に行かないか」と声をかけた。ところが、日本側のメンバーたちは、みなもうぐったりしちゃって、誰も手を挙げない。そのときボクは、思った。こんなことではいつまでたってもアメリカの研究に太刀打ちできないぞ、と。向こうの研究者たちは、家庭で普通に料理をつくり、子育てにも積極的にかかわり、さらに毎日5キロぐらいを平気に走って、研究活動にいそしんでいる。それに比べると、なんと日本の研究者たちに余裕がないことか。そんな余裕がない中で、いいアイディアが生まれてくるわけないではないか、と。それで、ジョギングを再開し、それが高じてホノルルマラソンを2度も走ることになった…。
…と、この前、この話を、早稲田を訪れた大阪大学の曽我謙悟氏にした。そしたら、「会議の後に5キロ走るアメリカの研究者たちもたしかにスゴイけど、それを聞いて自分もやらなきゃと思いたつ河野さんもスゴイ」とほめてくれた。この言葉、ホントうれしかったですねえ。曽我さん、どうもありがとうございました。
最後になるが、ジョギングは、出張や旅行にいっても一人で手軽にできるという点もよい。景色を楽しめて、地元の風景に自分が馴染んでいくような気分になるのが、何ともいえない快楽である。

2006年04月01日

スターバックスのマフィン

ボクは、カナダのバンクーバーをよく訪れるのであるが、そこでの朝食は、たいていスターバックスで、と決まっている。バンクーバーは、スターバックスの発祥地であるシアトルから近く、ロブソン通りの第1号店をはじめとして、本当にたくさんの店が展開している。石を投げればスタバに当たる、犬も歩けばスタバに当たる、すべての道はスタバに通じる、渡りに船ならぬ渡りにスタバ…、まさにそんな感じである。
一般に、北米のスターバックスは、日本のスターバックスよりも、ペイストリー系メニューが充実していて、いろいろな種類のマフィンやスコーン、ケーキなどがおいてある。ところが、ですね、すべてのスタバがすべて同じメニューかというと、そんなことはけっしてないんですね。ボクのお気に入りのマフィンは、Low-fat Banana Wild Blueberry Muffin with Soy Milkという舌を噛みそうになるくらい長い名前なんだけど、バンクーバーでも、これを置いてあるところとないところがある。行き当たりばったりに入った店で、ウィンドーを見わたし、このマフィンがおいてないとがっかりする。で、そこでは、コーヒーだけ買って、行き着けの違う店に、わざわざこのマフィンを買いに行ったりしたこともある。このマフィンは人気があって結構早く売り切れてしまうので、一軒、二軒と、なんと「スタバのハシゴ」までして、このマフィンを探したことさえある。ホント、それほど、おいしいんですね。
さて、このマフィン、名前があまりにも長いので、日本人のボクには注文するのが結構大変である。最初の頃は、律儀に「ロゥファットバナナワイルドブルーベリーマフィンウィズソイミルク、プリーズ」と全部いっていた。いっぺんにいおうとすると、絶対どこかでつまる。朝の混雑時には、後ろにお客さんがずらりと並んでいるから、ついあせる。で、あせればあせるほど、つまっちゃって、何度も言い直さなければならない。ところが、次第に、店員さんたちがこのマフィンの名前を縮めて、呼んでいるのに気がついたのですね。店員さんたちだって、こんな長い名前をいちいち全部復唱していたら、時間がかかってしょうがない。で、ボクの観察では、その省略の仕方には、いろいろなパターンがあることがわかった。「バナナブルーベリーウィズソイ」がまあ一番一般的なんだけど、「バナナウィズソイ」とか「ロゥファットバナナ」だけの人もいる。
というわけで、それ以来、ボクも省略形でこのマフィンを呼ぶことにしている。一時期は、毎回違う省略形のパターンを使ってみて、どこまで省略したら店員さんに通じなくなるかを試すというのが、ボクの中で朝のひとつのエンターテイメントであったこともあった。ボクの経験からすると、「バナナブルーベリー」や、「ロゥファットブルーベリー」は、ぜんぜん通じる。「ブルーベリーウィズソイ」や「ワイルドブルーベリー」もオッケー。しかし、「マフィンウィズソイ」や「ウィズソイ」だけだと、やっぱりダメ。いくら何でも、それは横着って感じかな。ただ、ウィンドー越しに指さして、これこれ、って感じのジェスチャーをすれば、どんなに省略しても結局大丈夫でした。以上、どうでもいいような、体験レポートでした。