賞味期限の哲学
誰が考えたのか、この世には賞味期限というコンセプトがある。
このコンセプトは、われわれの人生に緊張感をもたらしている。賞味期限があるゆえに、われわれはしなくてもよい意思決定を迫られる。しかし、賞味期限があるゆえに、われわれの存在は、大いに自立し、活性化されている。
たとえば、ボクは朝、よく牛乳とヨーグルトを口にするのであるが、どちらにも賞味期限が付いている。ある日、ふと自分が食べようとしていたヨーグルトの賞味期限が切れていたとする。すると、ボクは、賞味期限を守ってそのヨーグルトを捨てるか、それとももったいないから賞味期限を破って食べてしまうか、という選択を迫られているわけである。一日や二日ぐらい過ぎていたっておそらく大丈夫だろうと考えて食べてしまうのも自己責任。他方、これを食べてお腹をこわしたら嫌だなと、買ったヨーグルトを無駄にしてしまうのも自己責任。どちらにせよ、賞味期限が表示されていることで、自分で自分の行う行為に責任を取ることが強制されるようになっている。
賞味期限は、その商品を購入する時点においても、複雑な意思決定を迫っていることが多い。たとえば、ある人が明日の朝の牛乳がないことに気付き、近くのコンビニへ行くとする。そこにはあと3日で切れる小さな牛乳とあと一週間は持つ大きな牛乳とが置いてある。たいてい前者は後者より割高な価格設定になっている。すると、この人は、そこで即座に、自分の一週間分の行動を頭に思い描くことを迫られる。この一週間のうちに、出張などで家をあけることはなかったっけ、とか、今度友人が家に遊びにくることになっているがその友人はコーヒーにミルクを入れるんだっけ、とか、そうそう冷蔵庫にイチゴが買ってあったからイチゴにかけるミルクを余分に買っておかなければならないじゃないか、といった具合に、いろいろなことが頭の中をかけめぐる。そうしていろいろ考えた末に、自分の思考が及ぶ限りにおいて、適切な選択をしているのである。
もちろん、この世の中には、人生をぼやぼや生きてたり、あいまいに生きてたりする人もいる。そういう人は、賞味期限に由来するこうした複雑な意思決定をショートカットしがちである。しかし、そういう人の冷蔵庫の中には、賞味期限の過ぎた製品がワンサカ入っているものである。そして、ぼやぼやあいまいだから、その人はいつか賞味期限のとっくに過ぎていた牛乳やヨーグルトを口にし、おなかをこわすというしっぺ返しを食らうことになっている。ま、世の中、うまくできているのである。
賞味期限なるものは、毎日使うものだけに付いているわけではない。隠れてひっそりと(?)付いている場合がある。食卓用の醤油を大瓶で購入したりすると、すっかり忘れてしまって、いつのまにか期限が切れているということがある。サラダドレッシングや生パン粉にも、もちろん賞味期限があるが、これらもしばらく使わないでいると、いつのまにか切れている。しかし、一週間分の行動予定ぐらいなら頭に思い浮かべることはできるが、3ヶ月とか1年先まで考えて、ドレッシングや生パン粉を購入するわけにはいかない。だから、面白いことに、期限の過ぎたドレッシングや生パン粉は、牛乳やヨーグルトの場合と違って、以外にあっさりと、後悔の念に駆られず捨てることができるのである。