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2008年05月24日

知っているようで知らないアメリカ建国の話シリーズその⑤~マディソンの土地投機が成功していたら?~

アップステート・ニューヨークというと、ニューヨーク市から北、広大で見事な景観で知られる地方である。ヴァージニア出身のマディソンは、すくなくとも3度、この地方へ大きな旅行をしている。1度目は、まだ独立戦争が勃発する前の、1774年のこと。College of New York(現在のプリンストン大学)を卒業した後、故郷ヴァージニアに戻ったものの、知的刺激の少なさにカルチャーショックを受け、自らの将来を考えるための旅といった感じで、3ヶ月ほどの放浪に出ている。そして、3度目は、1791年のこと。ジェファーソンの発案で、彼と一緒に長い休暇旅行をしたとき。すでに政治家としての地位を固めた二人は、ヴァーモントやコネチカットまで足を伸ばし、二人の間の友情を一段と深めた重要な旅であったと伝えられている。
しかし、今日の話は、2度目の旅の話。それは1784年のことであり、このときの同行者はフランス人権宣言の起草者として後に有名になるラファイエット。ニューヨークからアルバーニ、そしてモーホークリバーヴレイの荒野へと進んでいった。当時この地方は、開拓のフロンティアとして大きな可能性を秘め、投機的投資が進んでいた。マディソンも、買えるだけの土地を買い、大もうけしようとたくらんだようである。
投機?あの堅物真面目男のマディソンが?なぜ?
ここは議論の分かれるところであるようだが、一部の歴史家たちの(マディソンへ好意的な)解釈によると、マディソンは自分が奴隷を使うプランテーションの経営者であることに罪悪感を覚えていたそうである。実際、1780年代のはじめには、マディソン家は118人の奴隷を抱えていた。そして彼は父親からモンテペリエ(現在彼を記念した建物が残っている)に560エーカーの土地を譲ってもらったところであった。しかし、若きマディソンはその頃はまだそこで一生を送るつもりなど毛頭なく、なんとか奴隷とは関係のない人生の送り方を模索していた。そして、その動機がニューヨークへの投機的投資へとつながっていった、というわけである。
とはいうものの、当時のマディソンは駆け出しであり、大きな儲けを生むだけの資金を持ち合わせていない。それで、彼はフランスにいたジェファーソンに手紙を書き、この投資に加わらないか、と持ちかけている。ジェファーソンの信用があれば、パリでたくさん金を調達できると考えたらしい。しかしジェファーソンは、自分にはそれほど信用があるわけではないと答え、計画はうまくいかなかった。しばらくたって、マディソンは、自分の持ち合わせで買った土地を売って利益を得ることになるのであるが、それは彼を一生奴隷との生活から解放するほどの儲けにはいたらなかった・・・。
マディソンがここで投機に成功し莫大な利益を得ていたら、果たして彼が政治家としての道を続けていたかどうかは、もちろん定かではない。フィラデルフィア会議も、連邦憲法も、共和党も、どうなっていたものか、まったくわからないのである。
ちなみに、ジェファーソンはこの話に加わらなかったが、マディソンの投資計画の相棒は、これまた若きジェームズ・モンローであった。マディソンとモンローとの関係は、非常に面白いが、これはまた次回ということで。

2008年05月21日

London Fog

ロンドンフォグ。
…といっても、イギリスのロンドンの霧のことではありません。ちなみに、ボクはロンドンへ行ったことがないので、ロンドンの霧がどんなものか、まったく見当もつきません。
実は、ロンドンフォグというのは、ドリンクの名前でもあるのですね。
ボクは、このドリンクのことを、最近娘のある友人から教えてもらいました。
カナダのスターバックスに行って、London Fogと注文すると、たいてい通じる。
それは、アールグレイに、温かいフォームドミルクをいれて、そこにバニラシロップをたらす飲み物です。
これがなかなか美味しい。
というわけで、ちょっとはまっています。
ボクは消化器系が弱いので、一日に何度もコーヒーを飲むと自分の胃がおかしくなるのではないかと心配になる。それで、たまには胃にやさしい紅茶系にしておこうと思うときがある。
でも、スタバで単なる紅茶を注文するのは、気が引ける。
なぜなら、スタバの紅茶は、ティーバックに熱いお湯を注いだだけの、まあぶっちゃけていえばインスタントだからである。しかも、スタバのスタッフのみなさんは、インスタントで紅茶を出すことにまったく罪悪感を感じているそぶりがない。堂々と、ティーバックが入ったままで、商品が手渡されるからである。そんなの、ウチでだって飲めるじゃんか。スタバで注文するからには、スタバでしかできない付加価値をつけてもらいたいじゃんか・・・。
で、このロンドンフォグを注文することになる。
ミルクを温めて、泡立てて、なんていう作業はなかなか面倒くさくて、自宅ではできない。ましてや、バニラシロップなんて、ボクの冷蔵庫の中にはない。だから、このドリンクは、外でしか飲めないのだ、と自分にいいきかせる。そのポジティヴな感覚が、インスタントであるというネガティヴな感覚を凌ぐのである。
日本に戻って、こちらのスタバでも「ロンドンフォグお願いします」といって注文してみたが、これまでのところ、それがどういうドリンクなのかすぐにわかったスタバスタッフにめぐり合っていません。
しかし「アールグレイに、フォームドミルクを入れて、バニラシロップを足してください」と、詳しく説明すると、「ああ、あれね」って感じでわかってくれる場合もある。きっと、同じものを頼む人も、結構多いのでしょうね。
さて今朝も、実家の近くのスタバで、ロンドンフォグを注文しました。そしたら、逆に質問がかえってきました。
「お湯とミルクとの割合はいかがしますか?」
うーん、考えたこともなかった。もちろん、この割合は、ドリンクの質を決定する重要な変数である。そのことについてのボクのリサーチは、まったく進んでいなかった。
「あ、えーと、半々で結構です」。
別に根拠があるわけでもないのに、そう答えてしまいました。
そう、やっぱりシェリングは偉かった、というオチをつけたくなるような話でした(←すみません、ちょっと専門的になりました)。

2008年05月20日

知っているようで知らないアメリカ建国の話シリーズその④~アメリカ大統領は何と呼ばれるか?~

アメリカ大統領に呼びかける時、何と呼びかけるか知っていますか?
ふつうに、ミスター○○と、実名で呼んだのでは、失礼に当たるのです。
正解は、「ミスター・プレジデント(Mr. President)」。
この呼称は合衆国建国のときに採用されたものであり、それ以来今日まで使われている。
まあ考えてみれば当たり前のことだが、ひとつの新しい国家が誕生するということは、大変なことなのである。憲法制定や首都建設だけでなく、議事進行のルールとか、さまざまな儀式的慣行とか、何から何まで新しく作らなければならない。
たとえば、1789年4月23日のこと。ワシントンが上院に入り、そこで大統領就任の宣誓を行うことが計画されていた。しかし、ワシントンが入場してきたとき、はたして上院議員たちは座ったままでいいのか、それとも尊敬の意味をこめて椅子から立ち上がるべきなのか。イギリスでは、君主を迎えるのに貴族議員たちは席をたつが、すると同じような行動はせっかくできたアメリカの共和制を君主制のようにしてしまうのではないか。そういえば、ワシントンの前に、事務員を議場に入場させてもいいものなのだろうか。それとも、彼らは入り口のドアのところで待たせておくべきなのか。こんな細かなことまで、ひとつひとつ決めていかなければならなかったのである。
さて、「ミスター・プレジデント」という呼称を考案したのは、ジェームズ・マディソンだった。ところが、この呼称に落ち着くまでには、実は長い議論があったことが知られている。
議論の火付け役は、副大統領のジョン・アダムズだったようである。
アメリカの副大統領というのは、憲法上は上院の議長すなわち「プレジデント」である。そこで、アダムズははたと考えてしまった、「上院で議長としての役割を果たしているときに、ワシントン大統領がその議場に入ってきたら、自分の立場はどうなっちゃうんだろう?」と。
それで、(大統領)ワシントンをなんと呼ぶか、という議論が、上院をあげて大真面目に行われることになった。たとえば「His Excellency」はどうだろうという提案がなされるが、それはすぐに却下される。すでに、州の知事たちが、そう呼ばれていたからである。
ニューイングランド出身で気位の高いアダムズは、アメリカの大統領にも、威厳のある、貴族を思い出させるような呼称が適当と思っていた。そこで、彼は「His Highness」とか「His Most Benign Highness」などの名称を考案した。ちなみに、これを聞いた人民派のトーマス・ジェファーソンは、ただただ呆れかえっていたらしい。ちまたでも、太ったアダムズを馬鹿にするように、「Your Rotundity」などと、陰口がたたかれようになった。
ワシントン自身はどうだったかというと、彼も最初は、長ったらしい「His High Mightiness, the President of the United States and Protector of Their Liberties」という、あたかも貴族のような呼称を気に入っていたようである。ところが、ちまたの評判がいまひとつ芳しくなく、そのような呼称が君主制を想起させるという批判を耳にして、考えを変えるのである。それで、マディソンが考案した、なんともシンプルな「ミスター・プレジデント」がよい、と決心したのである。

2008年05月16日

知っているようで知らないアメリカ建国の話シリーズその③~もしジェファーソンがフランス大使でなかったら?~

1785年から5年間、ジェファーソンは13州を代表する大使としてフランスに滞在した。
もしこの期間にジェファーソンが国内に残っていたら、アメリカはどうなっていただろうかと想像するのは、結構(というか、非常に)知的に楽しい。
周知の通り、フランスにいたことで、ジェファーソンはフィラデルフィアで開かれていた憲法制定会議に出席できなかった。会議で主導的な役割を果たしたのは無二の親友マディソンであったが、そのマディソンはジェファーソンに会議の様子を知らせる手紙を送っている。しかし、このマディソンという男、堅物の超真面目人間である。会議は非公開でその議事を外に漏らしてはならないという取り決めがあったので、マディソンはそれを忠実に守り、大事な親友に対する手紙にもそれほど詳しい内容を書くわけにはいかなかった。パリのジェファーソンは、ずっといらだっていたに違いない。実際、会議を非公開にするなどけしからんと、ジョン・アダムズへの手紙に不満をぶちまけている。
会議が終了し憲法草案が公開されたとき、ジェファーソンがそれに対して「権利章典が含まれていない」と批判的だったことはよく知られている。このあたり、はたしてジェファーソンが国内にいて会議に参加していたらどうなっていただろうかと、われわれの想像を掻き立てる。権利章典を憲法本文に含めると連邦派がまとまらなくなるというのが、現場にいたマディソンの判断であった。しかし、ジェファーソンは、マディソンよりもはるかに理想主義的な熱血漢であった。もしジェファーソンがいたら、会議自体が空中分解していたのではないかと考えるのも、あながち不自然ではない。
さて、マディソンは、会議終了後、連邦派の急先鋒ハミルトン(及びジョン・ジェイ)と一緒に、「パブリウス」という匿名で、ニューヨークの新聞に連邦国家のメリットをアピールする連載を行うことになった。1789年までに各州で新しい憲法が採択される必要があり、連邦派の主張を広くキャンペーンする必要があったからである。連載は会議が終わった直後の1787年10月から翌3月ぐらいまで続き、これが後にThe Federalist Papersとしてまとめられるわけである。
興味深いことに、マディソンはジェファーソンに対して自分がこの共著者であることをなかなか打ち明けていない。憲法会議が終わって一年ほどたった1788年の8月10日付けの手紙の中ではじめて、「そうそう、言うのを忘れていたけど、今度そちらに『ザ・フェデラリスト』という書物が届くと思う」という感じで、とぼけて打ち明けるのである。連載を執筆していた10月から3月までに、マディソンはジェファーソンに何度も手紙を送っており、その中には連邦憲法の行く末についていろいろなことが書かれているが、この共著については一切ふれられていない。どうみても、マディソンは「隠していた」のである。ジェファーソンが国内にいたら、マディソンはハミルトンとの共著に踏み切っていなかったかもしれない。
ちなみに、ハミルトンにとっても、マディソンは共著者としての第一候補ではなかった。彼はガウヴァナー・モリスという、より強力なナショナリストとの共著を考えていたのである。しかし、モリスが断り、マディソンが加わることになったのである。このモリスという男、ジェファーソンの後をうけてフランス大使となる人物である。なんとも奇遇というのか、歴史にはいろいろな偶然がある。

2008年05月14日

知っているようで知らないアメリカ建国の話シリーズその②~ワシントンDCはいつアメリカの首都になったか~

1790年6月のある夜のこと。場所は当時のアメリカの首都ニューヨーク。そこで、ひとつのディナーが開かれた。それが、アメリカの歴史を決めた妥協を生んだとさえいわれている。
ホストはトーマス・ジェファーソン。当時彼は大使として派遣されていたパリから戻ったばかりで、ワシントン大統領のもとで国務長官を務めていた。背が高く、社交上手。フランスから、当時としては貴重品であったワインをたくさん持ち帰っていて、その晩も数本のワインを用意してディナーの成功を演出しようとしていた。
招かれたゲストは二人。一人は、ジェームズ・マディソン。ジェファーソンより年下だが生涯の親友となる若き政治家。当時からして誰もがその才能を認める下院議員であった。そして、もう一人はアレキサンダー・ハミルトン。そう、後にアーロン・バーとの決闘で死んでしまう悲運の政治家。当時は財務長官で、ワシントン大統領からの信任がもっとも厚かった政権の重鎮であった。マディソンとハミルトンは、この頃、政治的に真っ向から対立していた。ディナーは、二人の間をとりもとうとして開かれた宴席であった。
「うん? マディソンとハミルトン? 対立? マディソンとハミルトンって、仲良かったんじゃないの? 一緒にThe Federalist Papers(日本語では『ザ・フェデラリスト』として知られる)を書いたんじゃなかったっけ?」
その通り。確かにマディソンは、1787年に開かれた憲法制定会議の段階では、ハミルトンと協力関係にあった。連邦国家など要らないというアンチフェデラリスト派を説得して各州で連邦憲法を批准させようと、一緒に努力した仲であった。
しかし、いざ連邦ができ、ワシントン政権が誕生すると、ハミルトンとの対立は深まっていった。それは、連邦を強化するために、ハミルトンがあまりに急進的な中央集権化を推し進めようとしたからである。そのひとつとして、独立戦争で各州が背負っていた借金を、連邦政府に背負わせようという提案があった。マディソンやジェファーソンの出身であるヴァージニアなど南部の州では、すでに債務をほとんど返済していたところが多かった。もし、この提案が通ると、政府は増税をして、その肩代わりした債務を返済しようとするかもしれない。つまり、それは、頑張って借金を返した州がさぼっていて借金を返してない州の面倒をみるようなもので、不公平な提案であった。加えて、マディソンは強調した、そもそも憲法には、連邦政府がそんなことできる権限を有しているなど、どこにも書いてない、と。
ディナーの席で、この対立が解消された。そこで成立した妥協は、マディソンが下院でハミルトンの提案を妨害することを止める代わりに、(ニューヨーク出身の)ハミルトンは、南部よりのポトマック川の河畔に合衆国の首都を置くことに同意する、というものであった。ワシントンDC建設が計画され、それが実施されて、首都が移されることになったのである。
もちろん、妥協はあくまで妥協、一時的なものに過ぎない。ハミルトンとマディソンがその後同じ道を歩むことはけっしてなかった。そして、実は、この二人が書いたあの歴史的名著『フェデラリスト』さえ、一時の妥協の産物、あるいは偶然の産物であった、ともいえるのである。その話は、また次回。

2008年05月12日

知っているようで知らないアメリカ建国の話シリーズその①~ワシントンはいつ大統領になったか~

クイズです。アメリカの初代大統領は、誰だったでしょうか?
カンタン、カンタン、答えは、日本の中学生でも知っていますね。
そう、ジョージ・ワシントン。アメリカ史上、もっとも偉大で尊敬されている人物。いまでは、州や首都にその名前が使われている。
桜の木を切っちゃったという、あの有名な逸話は、どうも疑わしいらしいけど・・・。
では、続けてクイズ。
アメリカが独立したのは、何年だったでしょう?
この答えも、高校で世界史を勉強した人なら、知っていますね。
そう、1776年。イギリスとの独立戦争に勝ち、ワシントンと並ぶ建国の父トマス・ジェファーソンが起草した独立宣言を、13の旧植民地が一致して採択した。それが7月4日だったので、アメリカではこの日を独立記念日として、毎年それを盛大に祝うパーティや催しものが開かれる。
では、最後にもう一問。
ワシントンが、アメリカの初代大統領になったのは、何年でしょう?
「うん? 1776年ではないの?」
ちがいます。よーく、考えてください。
1776年に独立したのは、ヴァージニアとか、ペンシルヴァニアとか、ニューヨークとか、13の旧植民地だったのでしたね。それらは、それぞれstateとして呼ばれていた。現代風に考えると、13の国家がそれぞれ独立したようなものである。つまり、この時点では、アメリカ合衆国という、いまの形体のアメリカはまだ存在しなかった。実は、独立のための戦争は、1776年後も、まだ5年ぐらい続く。そして、13の新たに独立した州は、そのあとも「連合規約」というものによって、ゆるやかに結ばれているに過ぎなかったのです。
だから、ワシントンがアメリカの初代大統領になるのは、もっとずっと後のこと。
それは、正確には1789年。その年の4月30日、ワシントンは、ニューヨークで就任宣誓式を行ったとされている。
「うん? 1789年?その年、アメリカではいったい何が起こっていたんだっけ?その年が重要だなんて、世界史で習わなかったぞ。いやまてよ、1789年というと、フランス革命が起こった年だぞ・・・。これって、何か関係あるわけ?・・・」
もちろんあるわけ。
おおありなわけ。
でも、それはおいおい、ゆっくりと語っていきましょう。

アメリカの建国の歴史は、とてつもなく興味深いエピソードに充ちみちている。
それらのいくつかを、この場を借りてシリーズで紹介していくことにしたい(←なんかこのブログとしての性格を大きく逸脱しているなあ)。もしかしたら、アメリカ史の専門家のみなさんからは「そんなこと全~部知っているって」というブーイングが来そうであるが、でもいまボクにとってそれが興味あることなのだから許してください。

さて、最後も、クイズで終わりましょう。
初代大統領となるための就任宣誓式は、なぜニューヨークで行われたのか?
「うん? アメリカの首都は、ワシントンDCじゃなかったっけ?」
ふふふ、答えは次回までのお楽しみ、ということで・・・

2008年05月08日

ペアレンティング

英語でparentは「親」という意味の名詞であるが、それを動詞扱いしてparentingという動名詞を用いることがある。直訳すると「親となること」。しかし、これではなんのことかわからない。日本語には「子育て」という言葉があるが、意味はちょっと違う。
「What are you doing this weekend?」
「Oh, I will be busy parenting」
たとえば、スポーツやピアノ教室への送り迎えは、自分の子供を直接的な対象にしたparentingである。しかし、自分の子供だけが対象でない活動もparentingであったりする。たとえば学校でバーベキューパーティがあり、ハンバーガーを焼く係を買って出るといった場合。あるいは子供が不在であっても、学校のPTAミーティングやボランティア活動に参加したりする場合。これらも、立派なparentingである。
思うに、parentingというのは、物理的に「(自分の)子供を育てること」に関わるだけでなく、より社会的なコンセプトであり、「親として責任を果たすこと」という意味をもつ。より正確にいうと、この場合の責任というのは、「社会で期待されている責任」という意味である。したがって、それはかなり広く捉えられる。
実は、先日、ボクはゴールデンウィークを利用して、娘のバレーボールトーナメントに行ってきた。場所は、バンクーバーから車で5時間ぐらいかかるケロウナという町。州のさまざまなバレーボールクラブチームが一同に会し、二つのレベルに分けられて、それぞれのグループで優勝を争う、年に一度の大きな大会である。州には何十という数のクラブがあるから、日程はまるまる2日間に及ぶ。そこで、われわれは2泊3日のちょっとした旅行を計画しなければならない。
大きなバンをもつ親が、何人もの子供を乗せて運転することを買って出る。そして、コーチたちと適度に連携し、彼らだけでは面倒みきれない部分を全般的にアシストすることを約束する。たとえば、試合と試合との合間をぬって、ランチの買出しをしたり、おやつやペットボトルを用意したりする。一日目の夜には、ユニフォームや靴下の洗濯もしなければならない。もちろん、試合のときは、声を枯らしてチームを応援する。中には、試合のスコアキーピングを任された親もいた。実際、こうしたさまざまなparentingに支えられて、トーナメント自体が成立しているのである。
2泊3日の行程をずっと一緒にすごすのであるから、親同士のあいだでは、親密でそれなりに突っ込んだ会話が取り交わされる。子供たち同士は、スポーツ活動を通してよき友人を得るが、自分の子供が所属しているクラブチームがうまく機能するためには、親たちの間でも一定の連帯感がなければならない。それは、ホテルで朝食を一緒に食べたり、子供たちのいいプレイをみて微笑みあったり、夕食時にワインを分け合ったり、というような共通体験を通してしか、生まれてこない。
そう、社会的に期待されているparentingの重要な側面のひとつには、ほかの親たちとのコミュニケーションをはかる、ということもあるのである。

2008年05月07日

フォーマルディナー

先日、ある方のお宅へ、フォーマルディナーに招待された。
フォーマルディナーなるものは、それ以外のふつうのディナーから明確に区別される。なぜなら、フォーマルな行事というのはさまざまなプロトコールによって成立しており、列席するものはそれらのプロトコールに従うことが期待されているからである。
たとえば、結婚式はフォーマルなイベントである。なぜなら、まず、このイベントのために特別に刷られた招待状がある。また結婚式では、会場に着くと同席者のリストが手渡される。リストには、社会的地位を格付けする肩書きが記されており、その地位にふさわしいように、席次やスピーチの順番が決められ、イベントが進行していく。
さて、先日のフォーマルディナーの主賓は、外国からのあるお客様であった。で、なぜボクが招かれたかというと、ボクはいちおう世間的には「現代日本政治の専門家」ということになっており、しかも英語に不自由しないことが知られているからである。そこで、そのディナーの席では、ボクはその主賓の方に、最近の日本政治について思うことをいろいろとお話することが期待されていたわけである。
時間通りに招待状を片手にお宅に伺うと、まずリビングルームに通された。飲み物を勧められたが、ボクはここでアルコールを断り、ジンジャーエールをたのむことにする。はじめから飲みすぎないよう、ここは慎重になる。そして、会話にさりげなく加わりながらも、頭をフル回転させ、その夜自分が置かれた状況を把握することにつとめる。そこには、ボクのほかにもうひとり、ボクより年配の日本政治の専門家の方が同席していた。ということは、自分ばかりぺらぺら喋るわけにはいけない。ボクはあくまで若手、プロトコール的には「2番手」なのだ、ということをしっかりと了解する。
いよいよダイニングルームに移り、食事がはじまる。会話も、だんだんと佳境へと入ってきた。ホストは、プロトコールに従い、まずその先輩先生の方に話を振る。期待通りの展開だ。その先生がお話になっている間に、ボクは目の前の皿にでている料理を急いで平らげる。これも作戦通り。自分の喋る番になった時、食べながら話すというわけにはいかないからである。そして、自分の番になったら、先輩先生の意見を立てながら、手短に自分の考えを述べる。これを、フルコースのメニューに従って、何度も繰り返す。メインに出てきたステーキは、ゆっくりと噛んでいる暇などなく、丸呑みするぐらいであったが、おかげでピタリとタイミングよくディナーを終えることができた。フォーマルディナーは、けっこう忙しいものなのである。
最近読んだある本によると、アメリカの第3代大統領トーマス・ジェファーソンは、ディナーパーティを開くことがとても上手だった。パーティでの会話から情報を得て、同士との連携を強めたり、支持を広げたり、政敵の弱みをつかんだりしたそうである。彼は、招待状を出すとき、「大統領」という肩書きを使わず、ただ「Th. Jefferson」とだけ記した。フェデラリスト党に対抗して、自分は人民によって選ばれたのだということをさりげなく(いや、あからさまに、か?)誇示しようとするのが目的だったのだそうである。