知っているようで知らないアメリカ建国の話シリーズその⑤~マディソンの土地投機が成功していたら?~
アップステート・ニューヨークというと、ニューヨーク市から北、広大で見事な景観で知られる地方である。ヴァージニア出身のマディソンは、すくなくとも3度、この地方へ大きな旅行をしている。1度目は、まだ独立戦争が勃発する前の、1774年のこと。College of New York(現在のプリンストン大学)を卒業した後、故郷ヴァージニアに戻ったものの、知的刺激の少なさにカルチャーショックを受け、自らの将来を考えるための旅といった感じで、3ヶ月ほどの放浪に出ている。そして、3度目は、1791年のこと。ジェファーソンの発案で、彼と一緒に長い休暇旅行をしたとき。すでに政治家としての地位を固めた二人は、ヴァーモントやコネチカットまで足を伸ばし、二人の間の友情を一段と深めた重要な旅であったと伝えられている。
しかし、今日の話は、2度目の旅の話。それは1784年のことであり、このときの同行者はフランス人権宣言の起草者として後に有名になるラファイエット。ニューヨークからアルバーニ、そしてモーホークリバーヴレイの荒野へと進んでいった。当時この地方は、開拓のフロンティアとして大きな可能性を秘め、投機的投資が進んでいた。マディソンも、買えるだけの土地を買い、大もうけしようとたくらんだようである。
投機?あの堅物真面目男のマディソンが?なぜ?
ここは議論の分かれるところであるようだが、一部の歴史家たちの(マディソンへ好意的な)解釈によると、マディソンは自分が奴隷を使うプランテーションの経営者であることに罪悪感を覚えていたそうである。実際、1780年代のはじめには、マディソン家は118人の奴隷を抱えていた。そして彼は父親からモンテペリエ(現在彼を記念した建物が残っている)に560エーカーの土地を譲ってもらったところであった。しかし、若きマディソンはその頃はまだそこで一生を送るつもりなど毛頭なく、なんとか奴隷とは関係のない人生の送り方を模索していた。そして、その動機がニューヨークへの投機的投資へとつながっていった、というわけである。
とはいうものの、当時のマディソンは駆け出しであり、大きな儲けを生むだけの資金を持ち合わせていない。それで、彼はフランスにいたジェファーソンに手紙を書き、この投資に加わらないか、と持ちかけている。ジェファーソンの信用があれば、パリでたくさん金を調達できると考えたらしい。しかしジェファーソンは、自分にはそれほど信用があるわけではないと答え、計画はうまくいかなかった。しばらくたって、マディソンは、自分の持ち合わせで買った土地を売って利益を得ることになるのであるが、それは彼を一生奴隷との生活から解放するほどの儲けにはいたらなかった・・・。
マディソンがここで投機に成功し莫大な利益を得ていたら、果たして彼が政治家としての道を続けていたかどうかは、もちろん定かではない。フィラデルフィア会議も、連邦憲法も、共和党も、どうなっていたものか、まったくわからないのである。
ちなみに、ジェファーソンはこの話に加わらなかったが、マディソンの投資計画の相棒は、これまた若きジェームズ・モンローであった。マディソンとモンローとの関係は、非常に面白いが、これはまた次回ということで。