本屋立ち読み事情
昔、まだ「駆出し」のころ(←なーんていうと、いかにも自分が「真打ち」になったかのような感じがして、気分がよい)、頻繁に本屋へ行って、どういう本が売れているかをチェックしていた。定期的にというか自覚的にそうすることで、人々がいったいどういうことに関心を持っているかを知ろうとしていたのである。ところが近頃、あまりそういうことをしていなかった。ボクの場合、本屋へ行くと、気がついてみたら1時間や2時間、平気でぶらぶらしてしまう。正直言って、最近のボクの生活では、そのようにぶらぶらできる1時間や2時間がない。いや、時間的余裕がないというわけでなく、心に余裕がないのである。ああ、まだあの仕事仕上げてない、ああ、まだあの原稿書き始めてもいない、などと気になって、ぶらぶらしていると罪悪感がこみ上げてくる。うん、しょうがない、「真打ち」は忙しいんだから、という自己正当化をして、本屋から足が遠のいていた。
ところが、今年はサバティカルで、すこしゆとりができたせいか、待ち合わせのときとかちょっと時間が余ったときなどに、本屋をのぞくことにしている。大きい本屋では、まず自分の書いた本が陳列されているかどうかをチェックする。ボクが書いた本がおいてある店は、全体のまあ半分ぐらい。しかし、どうみても、売れ筋のところにはおいてもらってない。もちろん、規模の小さな本屋さんでは、まったくおいてない。別にボクたち研究者は、たくさん売ることを目的で本を書いているわけではないんだから、と負け惜しみを心の中でつぶやいてみるものの、一冊も見当たらないと、やっぱりちょっと寂しい。店員さんに、「あのー、河野勝の書いた○○っていう本、置いてありますか」と、わざと聞いてみたくもなる(←もちろん、まだやってないですよ)。というわけで、なんとも情けない「真打ち」である。
さて、最近本屋での立ち読みを再開して、気づいたことをいくつか。
まず、新書を中心にして、「○○力」というタイトルのついた本がやたらに多い。なんでも「力」をつければ売れると思っている人たちが、どうやら今の出版業界にたくさんいるみたいである。なんで、こんな画一的になるの?ボクみたいにひねくれている者は、そんなタイトルのつけ方をしているだけで、こいつ時流に乗ろうという魂胆がみえみえだな、と敬遠してしまう。しかし、それでも売れるんだから、といわれればなんの反論もできないけど、まあそれにしても業界のイマジネーションの貧困は否めない。
そういえば、ちょっと前までは、「今、なぜ○○か」というタイトルの本が多く出回っていた。だから、いまどきそんなタイトルのついた本を本棚で見つけると、「一周遅れている」という感じがしてしまう。「○○に成功する方法」といったハウツーものはもちろんのこと、「超」や「壁」とかいったキイワードのついた本も、一世を風靡はしたものの、さすがにもう色褪せちゃったなあ、という感じがする。
情報雑誌のセクションをみていて目立つのは、自己矛盾のタイトルの氾濫である。「まだまだある、人の知らない秘境温泉」とか、「あなたにだけこっそり教えます、東京の隠れた名店」とか、「隠れ家として使えるホテル」とか。あのねえ、キミたちねえ、こういうのわざとやっているわけ、笑いをとろうとして、と思ってしまう。本当にウチは秘湯のままでいいです、本当にウチはたくさんの人にきてもらうと困るんです、というお店は、そもそも広告するわけがないし、商業雑誌の取材を許さないんじゃ、ないの?これ、もしわざとじゃなくて、なんの自覚もなしにやっているとしたら、出版業界の「知力」、「論理力」、「表現力」を疑っちゃうよね。