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2009年04月25日

本屋立ち読み事情

昔、まだ「駆出し」のころ(←なーんていうと、いかにも自分が「真打ち」になったかのような感じがして、気分がよい)、頻繁に本屋へ行って、どういう本が売れているかをチェックしていた。定期的にというか自覚的にそうすることで、人々がいったいどういうことに関心を持っているかを知ろうとしていたのである。ところが近頃、あまりそういうことをしていなかった。ボクの場合、本屋へ行くと、気がついてみたら1時間や2時間、平気でぶらぶらしてしまう。正直言って、最近のボクの生活では、そのようにぶらぶらできる1時間や2時間がない。いや、時間的余裕がないというわけでなく、心に余裕がないのである。ああ、まだあの仕事仕上げてない、ああ、まだあの原稿書き始めてもいない、などと気になって、ぶらぶらしていると罪悪感がこみ上げてくる。うん、しょうがない、「真打ち」は忙しいんだから、という自己正当化をして、本屋から足が遠のいていた。
ところが、今年はサバティカルで、すこしゆとりができたせいか、待ち合わせのときとかちょっと時間が余ったときなどに、本屋をのぞくことにしている。大きい本屋では、まず自分の書いた本が陳列されているかどうかをチェックする。ボクが書いた本がおいてある店は、全体のまあ半分ぐらい。しかし、どうみても、売れ筋のところにはおいてもらってない。もちろん、規模の小さな本屋さんでは、まったくおいてない。別にボクたち研究者は、たくさん売ることを目的で本を書いているわけではないんだから、と負け惜しみを心の中でつぶやいてみるものの、一冊も見当たらないと、やっぱりちょっと寂しい。店員さんに、「あのー、河野勝の書いた○○っていう本、置いてありますか」と、わざと聞いてみたくもなる(←もちろん、まだやってないですよ)。というわけで、なんとも情けない「真打ち」である。
さて、最近本屋での立ち読みを再開して、気づいたことをいくつか。
まず、新書を中心にして、「○○力」というタイトルのついた本がやたらに多い。なんでも「力」をつければ売れると思っている人たちが、どうやら今の出版業界にたくさんいるみたいである。なんで、こんな画一的になるの?ボクみたいにひねくれている者は、そんなタイトルのつけ方をしているだけで、こいつ時流に乗ろうという魂胆がみえみえだな、と敬遠してしまう。しかし、それでも売れるんだから、といわれればなんの反論もできないけど、まあそれにしても業界のイマジネーションの貧困は否めない。
そういえば、ちょっと前までは、「今、なぜ○○か」というタイトルの本が多く出回っていた。だから、いまどきそんなタイトルのついた本を本棚で見つけると、「一周遅れている」という感じがしてしまう。「○○に成功する方法」といったハウツーものはもちろんのこと、「超」や「壁」とかいったキイワードのついた本も、一世を風靡はしたものの、さすがにもう色褪せちゃったなあ、という感じがする。
情報雑誌のセクションをみていて目立つのは、自己矛盾のタイトルの氾濫である。「まだまだある、人の知らない秘境温泉」とか、「あなたにだけこっそり教えます、東京の隠れた名店」とか、「隠れ家として使えるホテル」とか。あのねえ、キミたちねえ、こういうのわざとやっているわけ、笑いをとろうとして、と思ってしまう。本当にウチは秘湯のままでいいです、本当にウチはたくさんの人にきてもらうと困るんです、というお店は、そもそも広告するわけがないし、商業雑誌の取材を許さないんじゃ、ないの?これ、もしわざとじゃなくて、なんの自覚もなしにやっているとしたら、出版業界の「知力」、「論理力」、「表現力」を疑っちゃうよね。

2009年04月17日

Night Ride Home

それは、ある7月4日のこと。場所は、ハワイ。
独立記念日の晩、どこかで開かれていたパーティから、恋人と二人で車で帰るところ。
「たまにあるのよね、大きくて青い月の下に、こういう夜がやってくることが・・・」と、語りかけるように、その唄は始まる(“Once in a while, in a big blue moon, there comes a night like this・・・”)。
アコースティックギターの音と、夜に鳴く虫の声がバックに流れる。
唄の題名は、Night Ride Home。唄っているのは、ジョニ・ミッチェルである。
ジョニ・ミッチェルについてはすでに何度かこの日記でも書いてきた(たとえば2007年3月3日付「『雲と愛と人生と』の話」参照)。しかし、何度書いてもいい足りないほど、彼女の音楽は本当に素晴らしい。
で、その中でも、最近のボクのお気に入りは、このタイトルソングがはいっているアルバムである。
ボク自身、3月にハワイへ行ってきて、その余韻がまだ残っているせいだと思う。
ハワイの、平和で静かで美しい夜の風景が想いだされる。
地元のバンドが、大きな木の下で演奏している。その向こうには、夜の散歩を楽しむ人々。さらにその向こうには、ホテルの光が波を白く映し出す。
一日を終えて、若いカップルは手をつないで音楽を聴いている。
歩んできた人生を振り返って、老夫婦はゆっくりグラスを合わせている。
そして、その日ホテルで行われた結婚式に参加した小さな子供たちが、綺麗なドレスやタキシードを着飾ったまま、芝生を駆け回っている。
そう、そうしたハワイの光景の非日常性が、まさに「たま(once in a while)」にしか訪れない、という唄の冒頭のフレーズによって切りとられているように感じられる。
ジョニ・ミッチェルは、このNight Ride Homeというアルバムがつくられた当時、Larry Kleinという音楽家と結婚していた。そして、この唄は、二人でおそらくバケーションを過ごしていたハワイで、本当にあったロマンチックな夜を、再現したのだといわれている。
フラダンスを踊っている女性。ウクレレを持った男。独立記念日を祝って打ち上がる花火。
でも、隣には自分が愛する男がいる。
「I love the man beside me」
その気持ちを、その自分の感覚を、何度もかみしめる。
自分たちの車以外、だれもいない道を、ドライブしながら。
めまぐるしい仕事や忙しい文明から遠ざかって、自分たちの家へ向かいながら。
「night ride home・・・night ride home・・・」
最後まで、虫の声は鳴り止まない・・・
「night ride home・・・」

2009年04月11日

メッセージを送るとはどういうことか

最近読んだ論文のなかに、次のような例が書かれていた。あるカップルが問題を抱えていて、夫が妻に対して「僕はこの関係を本当に修復したいと思っているんだが、君が変わらないんだったら離婚してもいいと思う」といったとする。このような状況で関係修復が難しいのは、このメッセージには表面上の意味に加えて、より高次のメッセージが伝えられているからである、と。
どういうことかというと、夫が妻に上のように伝えたということは、妻にしてみれば「夫が離婚を考えている」ことを知っている、ということを意味する。それはさらに、夫は「妻が『オレが離婚を考えていること』を知っている」ことを知っている、ということを意味する。夫は、できるものなら関係を修復したいと真摯に思っていたかもしれない。しかし、上のようなメッセージが伝わると、修復はより難しくなる。離婚の可能性がまったく視野になかったら、妻は関係を修復するよう一段と努力することを考えたかもしれないのに、いまや彼女はその可能性をも考慮にいれて自分の人生を考えなくてはならない。そして夫は、妻がそのような可能性があることを知っちゃった上では、「関係を続けようと頑張ってくれないかも」と疑わざるを得なくなり、そうした疑念をもちつつ自分の人生を考えなくてはならないからである。
この話から導かれる重要な教訓は何かというと、われわれはメッセージを伝えることで、同時に相手からメッセージを受け取っている、という認識である。上の例でいえば、表面上メッセージを発したのは、夫だけである。妻の方は、表面上は夫に対して何もメッセージを返していない。しかし、にもかかわらず、夫が上のメッセージを発することによって、妻の方は「アタシは知っているのよ」というメッセージを伝えているのである。つまり、われわれは、一方的にメッセージを送ったつもりであっても、相手から暗に送り返されているメッセージを前提に、次の行動を選択しなければならない立場に追い込まれていく。メッセージを発するということは、それがどのような重大な結果に自らを導いてしまうかを、十分覚悟して行わなければならない。
以上のことは、男女関係という日常生活の一端から例が引かれていることからもわかるように、すこし落ち着いて考えればだれでも気づくことではないか、と思われる。それゆえ、次のような報道が立て続けになされると、はてどういうことだろうと、ボクは首を傾げてしまうのである。
「政府は8日、北朝鮮のミサイル発射を受け、日本独自の追加制裁策として検討していた北朝鮮への全品目の輸出禁止措置を見送る方針を固めた。制裁措置による拉致や核問題の進展が見込めないことに加え、日本のみが国際社会で突出した行動をとることを避ける考えもあるようだ」。
「政府は10日午前の閣議で、13日に期限切れを迎える北朝鮮に対する日本独自の経済制裁を1年間延長することを決定した」。
「麻生太郎首相は10日午後、首相官邸で記者会見し、安保理協議について『拘束力がある決議が望ましいと考えているが、決議にこだわったため内容が分からないものになるのでは意味がない』と述べ、議長声明でも容認する考えを初めて示した。首相は『声明、決議、いろいろあるが、きちんとした国際社会のメッセージが伝わるのが一番大事だ』と強調した」。
日本として、独自の突出した行動をとりたいのか、とりたくないのか。国連安保理の決議でなくても、本当にきちんとした国際社会のメッセージが伝わるのか。もしそうであるのなら、どうして最初から決議にこだわったのか。そして、もっとも大事なことだが、こうした首尾一貫しないメッセージを送ることで、相手からどういうメッセージが送り返されていて、またそれをどうわれわれは受け止めようとしているのか。

2009年04月09日

蕎麦屋で飲む

最近、蕎麦屋で飲むことにはまっている。
蕎麦屋は、店を閉めるのが早い。8時半とか9時がラストオーダーというのが一般的である。
だから、蕎麦屋で飲むときは、早くから飲み始めなければいけない。
4時半とか、5時とか。
「なぁにぃ?平日の4時半とか5時とかから、フツウの人間が飲めるわけないだろっ!」
・・・しかしですね、どういうわけだか、この世の中には、そのくらいから蕎麦屋で一杯やっている人たちがいるんですね。ウソだと思うなら、東海林さだおさんのエッセーを読んでごらんなさい。それで、神田まつやへいってごらんなさい。
ボクも、まさかと思ったけれども、もうかれこれ10年ほど前、日本へ帰って来てすぐ、神田まつやへ初めて行ってみたのでした。そしたら、本当にいるじゃあないですか、そういう粋な人たちが。ちびりちびり、飲んでいるじゃないですか。
・・・というわけで、ボクも蕎麦屋の名店で飲むということをやってみたい、といつしか思うようになったのであります。で、今年、サバティカルなので、ボクはそれを実行しているのであります。なんか自分がすごく大人になった気がするのであります。ま、自己満足に浸っているのであります。
蕎麦屋で飲むときは、ひとりで飲むことが多い。
「あったりめいだろっ、マットウな人間は4時半とか5時は、まだ会社で働いてるんだってば!」
うん、たしかに。
しかも、ですね、蕎麦屋で出てくる小料理は、ひとりで食べるようにできているものが多いんですね。たとえば板わさ。かまぼこの方はまだいいけれど、ワサビ漬は一度箸をつけてしまうと、なかなか「はいどうぞ」と分割できるような代物ではない。蕎麦掻も海苔の佃煮も同じ。焼き海苔だってそうである。カノジョさんと来て、「じゃ半分こしようか、アーン」などとちぎっていては、せっかくの「粋」の雰囲気が台無しになってしまう。
そう、だから蕎麦屋では、ひとりで飲むことが基本なのであります。
ボクのお気に入りは、関内の「利休庵」。うなぎの「わかな」といい、天ぷらの「天吉」といい、こう考えると、関内には本当にいいお店がいっぱいあるなあ。
さて、利休庵は、入り口が戸を横に引いて開けるようになっている。「自動ではありません」と張り紙してあるところが、飾り気がなくてよい。で、入っていくと、女将さん(と思しきひと)が「いらっしゃい」と声を掛ける。相席にさせることもあるが、ボクは早くいくので、たいていひとりで座らせてくれる。
ここは、なにを食べても本当においしい。蛍烏賊と鯵の味醂干し。うるめ鰯。卵焼き。上新香。天ぷらの盛り合わせ、などなど。
つい先日も、行ってまいりました。イナゴの佃煮、小カブのサラダ、板わさでつい飲みすぎ。それでも、せいろで締めくくることに。蕎麦湯が南部の鉄瓶で出てくるところも、とってもよい。

2009年04月08日

「脅し」と「警告」、そしてシェリングの誤訳について

最近、北朝鮮のミサイル発射にともなって、北朝鮮の意図と日本の対応について、さまざまな人がメディアで論評していた。ボクもいつか、このことについて何か考えをまとめたいと思い、そのヒントとなるかもしれないと、自分が監訳したシェリングの『紛争の戦略』を読み返していた。そうしたら、ですね、恥ずかしい話ですが、肝心な部分を誤訳していることに気づいてしまいました。読者のみなさん、そしてシェリング先生、ホントに申し訳ありませんでした。出版社には早速連絡をとりまして、次の再版(があればの話ですが)のときに、もう一度全部チェックしてこうした誤訳を極力なおして行くようにしたいと思います。
で、今回のその肝心な部分とはどこか、というと第5章の註5、シェリングが「脅し」と「警告」を区別しているところである。一般的な用語ではこの二つを合わせて脅しといっているが、シェリングは違うといっている。(正しい訳)≪一般的な用語では、「脅し」とは、ある人が敵対する者に対して、従わないと損害を与える行動をとることを示唆したり、想起させたりすることをさすこともある。しかし、その人がそうした行動をとるインセンティヴをもつことが、明白でなければならない≫。ここで重要なのは最後の一節で、そうした行動をとるインセンティヴがその人にあるかどうかによって、本当の脅しかどうかが決まる、とシェリングは考えている。≪たとえば、家へ侵入してきた者に対して警察を呼ぶと「脅す」ことが、これに当てはまる。一方、その者に対して撃つぞというのは、これに当たらない≫。なぜなら、一般の人が銃を撃って人を殺すインセンティヴを持っているとは思えないからである。ゆえにシェリングはいう、≪こうした後者のケースについては、違う言葉を用いる方がよいかもしれない――私は「脅し」でなく「警告」という言葉を用いることを提案する≫。
さて、北朝鮮のミサイル発射に対して、日本は日本の領域に落ちてきたら「撃ち落とすぞ」という姿勢をとった(①)。それに対して、北朝鮮は「撃ち落としたら戦争行為とみなし、日本に対し宣戦布告する」という姿勢をとった(②)。幸いなことに、そのような展開にはならなかったが、①と②がそれぞれシェリングのいう意味での本当の「脅し」となっていたかどうかを考えることは興味深いし、日本の安全保障にとって重要なことのように思える。なので、いまの時点でのボクの見解をまとめておきたい。
順番に考えていこう。まず①については、侵入者に対して撃つぞといっているのであるから、これは一見シェリングの中にでてくる「警告」の例そのもののようにも思えるが、今回の日本の対応は、ただ撃つぞと言っただけでなく詳細な行動を伴うものであった。すなわち、イージス艦やPAC3を配備し、しかもその配備の状況を大々的にメディアを通して公開することによって、本当に来たら撃ち落とすつもりなんだぞ、ということを(誰よりも北朝鮮に)分らせようとしたのであった。しかし、ここで重要なのは、日本が撃ち落とすという≪行動をとるインセンティヴをもつことが、明白≫かどうか、である。もし、いまかりに②が正しいとして、そのような行動が北朝鮮と戦争状態を導くことが予測されるならば、日本があるいは日本国民がそうした行動をとるインセンティヴをもっているかどうかは、それほど明白ではないのではないか、とボクは思う。すくなくとも北朝鮮には、日本がそのようなインセンティヴをもっていることがうまく伝わっていないような気がする。なぜかというと、今回日本は、日本に入ってきたら撃ち落とすという①の対応についてはきわめて詳細に行動で示したが、②の展開になったらどうするかということについてはメディアをとおして何も国民に知らせなかった(そしてそのことを北朝鮮がちゃんと知っていた)からである。
ということは、すべては②の信憑性にかかってくる。つまり、①が起こったとして北朝鮮に手番がまわったとき、それを戦争行為とみなし日本に宣戦布告するというのが「脅し」であったのか、それとも「警告」だったのか、である。ここについては、ボクのような素人には、どちらかといえる十分な情報があたえられていないので、なんともいえない。テレビでは防衛省のある元幹部が北朝鮮の対応は「単なる脅し」にすぎないと一蹴していた。これはシェリングのいう「警告」という意味で「脅し」という言葉を使っていたのであるが、小心者のボクなどはそこまで単純ではないのではないかと思う。繰り返すが、ここでも重要なのは、北朝鮮が何を言っているかではなくて、そうした行動をとるインセンティヴをもっているかどうか、という判断である。ひとつだけいえるのは、今回のミサイル発射事件は、発射後に撃ちあがってもいない衛星がちゃんと軌道に乗っているだとか、日本の新聞も打ち上げ成功を報じているだとか、すぐにウソだと(おそらく自国民にも)わかるウソをわざとついていることも含めて、北朝鮮のインセンティヴがどこにあるのかを伝えるさまざまな貴重な情報を、われわれに提供したのではないかということである。