名前について(その3)
自分の書いた本や論文にどういうタイトルをつけるか、というのは、研究者に与えられているささやかな楽しみの一つである。ただ、著者だからといって、自由にタイトルをつけられるかというと、そんなことはない。本の場合は、出版社から、注文がつくことが多い。論文も、学術誌ではなく一般向けの総合雑誌に掲載する場合は、なるべく平易な言葉を選ぶようにと、圧力がかかる。そうしたいろいろな制約の中で、気の利いたタイトルはないかなと考えるのが、結構楽しい。
ボクがプリンストン大学出版会から出した最初の本のタイトルは、Japan’s Postwar Party Politicsという。それは、博士論文をほとんどそのまま出版したものであったが、博士論文の時は、A Microanalytic Reassessmentというコムズカシイ副題がついていた。出版会のエディターから、これはちょっと堅いので取りましょうよ、といわれ、ボクはその提案を喜んで受け入れた。その方が断然すっきりするし、日本に関心あるより広い読者が買ってくれそうな気がしたからである(←とはいってもたいして売れなかったが・・・)。
ボクが書いた論文のタイトルとして気に入っているのは、ちょっと前に発表したOn the Meiji Restorationという英語の論文と、昨年『中央公論』に書いた「なぜ、憲法か」という日本語の論文である。前者は、訳すと「明治維新について」ということになるが、これはとてつもなく大風呂敷を広げた感じがして、気に入っている。後者は、実はある人が書いた英語の論文のタイトル(Why constitution?)をそのまま訳して使わせてもらった。ボクはその論文をとても気に入っていたので、『中央公論』の編集長さんに自分の草稿を送るとき「タイトルは絶対変えないでください」とうるさく念を押したのを覚えている。
人が書いた本のタイトルでいいな、と思ったものをいくつかあげると、ボクの恩師であるS・クラズナーが書いた本にDefending the National Interestというのがある。これは、国益を国家が守るという意味と、国益を分析の中心にすえたリアリズム理論を自分(クラズナー)が擁護するという意味とが重なっていて、とてもうまいタイトルだと思う。
それから、ノーベル記念経済学賞を受賞したG・ベッカーの本に、Accounting for Tasteという本がある。たとえば、麻薬中毒のような奇異なものも含めて、ふつうは外生的に与えられ説明することのない選好の形成を経済学的に説明しちゃおうという野心作である。そのタイトルは、もちろん、No account for tasteという英語の熟語をもじったもので、これも技あり、といった感じである。
あと、S・ホームズの代表作にPassions and Constraintsという本がある。これは、立憲主義について書かれた本であるが、ここで使われているPassionsは、ジェームズ・マディソンが『フェデラリスト・ペーパーズ』の中で頻繁に登場するひとつのキイワードである。ホームズがそれを十分受け止めて書いているということが読んでみるとじわじわ伝わってきて、これもうまくつけたな、と思う。
まったくの畑違いであるが、ボクの知り合いが「You can’t always get what you want」という、ストーンズの曲のタイトルをつけた論文を、あるジャーナルに発表したことがあった。そのとき、ボクは、コイツかっこいいことやるなあ、とうらやましく思った。それ以来、ボクもいつか、(この前訳した)ディランの曲の一節を引いて、「I gave you my heart, but you wanted my soul」というタイトルの論文をどこかに発表したいと、ひそかに思っている。ただ、いまのところ、それが何についての論文になるのかは、自分でもさっぱり見当がついていないのである。