« 2006年05月 | メイン | 2006年07月 »

2006年06月29日

名前について(その3)

自分の書いた本や論文にどういうタイトルをつけるか、というのは、研究者に与えられているささやかな楽しみの一つである。ただ、著者だからといって、自由にタイトルをつけられるかというと、そんなことはない。本の場合は、出版社から、注文がつくことが多い。論文も、学術誌ではなく一般向けの総合雑誌に掲載する場合は、なるべく平易な言葉を選ぶようにと、圧力がかかる。そうしたいろいろな制約の中で、気の利いたタイトルはないかなと考えるのが、結構楽しい。
ボクがプリンストン大学出版会から出した最初の本のタイトルは、Japan’s Postwar Party Politicsという。それは、博士論文をほとんどそのまま出版したものであったが、博士論文の時は、A Microanalytic Reassessmentというコムズカシイ副題がついていた。出版会のエディターから、これはちょっと堅いので取りましょうよ、といわれ、ボクはその提案を喜んで受け入れた。その方が断然すっきりするし、日本に関心あるより広い読者が買ってくれそうな気がしたからである(←とはいってもたいして売れなかったが・・・)。
ボクが書いた論文のタイトルとして気に入っているのは、ちょっと前に発表したOn the Meiji Restorationという英語の論文と、昨年『中央公論』に書いた「なぜ、憲法か」という日本語の論文である。前者は、訳すと「明治維新について」ということになるが、これはとてつもなく大風呂敷を広げた感じがして、気に入っている。後者は、実はある人が書いた英語の論文のタイトル(Why constitution?)をそのまま訳して使わせてもらった。ボクはその論文をとても気に入っていたので、『中央公論』の編集長さんに自分の草稿を送るとき「タイトルは絶対変えないでください」とうるさく念を押したのを覚えている。
人が書いた本のタイトルでいいな、と思ったものをいくつかあげると、ボクの恩師であるS・クラズナーが書いた本にDefending the National Interestというのがある。これは、国益を国家が守るという意味と、国益を分析の中心にすえたリアリズム理論を自分(クラズナー)が擁護するという意味とが重なっていて、とてもうまいタイトルだと思う。
それから、ノーベル記念経済学賞を受賞したG・ベッカーの本に、Accounting for Tasteという本がある。たとえば、麻薬中毒のような奇異なものも含めて、ふつうは外生的に与えられ説明することのない選好の形成を経済学的に説明しちゃおうという野心作である。そのタイトルは、もちろん、No account for tasteという英語の熟語をもじったもので、これも技あり、といった感じである。
あと、S・ホームズの代表作にPassions and Constraintsという本がある。これは、立憲主義について書かれた本であるが、ここで使われているPassionsは、ジェームズ・マディソンが『フェデラリスト・ペーパーズ』の中で頻繁に登場するひとつのキイワードである。ホームズがそれを十分受け止めて書いているということが読んでみるとじわじわ伝わってきて、これもうまくつけたな、と思う。
まったくの畑違いであるが、ボクの知り合いが「You can’t always get what you want」という、ストーンズの曲のタイトルをつけた論文を、あるジャーナルに発表したことがあった。そのとき、ボクは、コイツかっこいいことやるなあ、とうらやましく思った。それ以来、ボクもいつか、(この前訳した)ディランの曲の一節を引いて、「I gave you my heart, but you wanted my soul」というタイトルの論文をどこかに発表したいと、ひそかに思っている。ただ、いまのところ、それが何についての論文になるのかは、自分でもさっぱり見当がついていないのである。

2006年06月28日

マンハッタン・トランスファーと青二才の人生論

先週、東京青山のブルーノートにマンハッタン・トランスファーを聴きに行った。ちょっとさすがに年取っちゃったかな、という感じの4人ではあったが、それでも持ち前のエンターテイメント精神を発揮し、最初から最後まで息をつかせることなく聴衆を楽しませてくれた。ボクの好きなYou can depend on meやBirdlandといった初期の曲目も歌ってくれて、感激した。
さて、その夜は、リーダーのティム・ハウザーが、いまレコーディング中だというソロアルバムから、一曲披露した。正直言うと、ボクは、あんまりその歌自体には感動しなかった。ただ、その紹介として彼が語った話がとても印象に残った。
彼によると、この曲(というかそのソロアルバム全体)は、もともと、数年前、日本に来たときにインスパイアーされたのだ、という。六本木ヒルズができる前、「WAVE」というレコード店があり、そこをぶらついていたら、知らないヴォーカルの曲が店内でかかっていた。プロである自分が、その声が誰だかわからないのが我慢できず、彼は店員に誰が歌っているのかと尋ねた。すると店員は、「ミルト・ジャクソン」と答えた。「ミルト・ジャクソン?あのMJQのミルト・ジャクソン?彼がヴォーカルとして歌うわけないだろう?」といったら、その店員がCDのジャケットを持ってきて、そのタイトルがなんと「Milt Sings・・・」というものであった。で、ティム・ハウザーは、そのCDを買って帰って、この偉大なビブラフォン奏者の音楽性と人間性を再認識し、それが彼の新しいソロCDの出発点になった・・・、というような話であった。
ボクは、なぜこの話が自分の中で印象に残ったのかなと考えていたが、きっとこういうことなのではないかと思うにいたった。つまり、この話は、プロの(しかもティム・ハウザーのような超一流の)音楽家でも知らないCDが世の中には出回っているという事実を物語っている。偶然そのときそのレコード店に居合わせなければ、もしかすると彼は一生、このCDの存在すら知らなかったかもしれない。それは、裏返せば、この世の中には良いCD、良い音楽が無尽蔵に存在するということである。ボクらはいかに長生きしても、一生のうち、そうした素晴らしい音楽の、ほんの一部分しか堪能することができない。これは、考えてみれば、きわめて悲しい現実ではないか。そして、もちろん、これは音楽に限った話ではない。この世の中には、よい絵画、心を打つ小説、美しい自然、素敵な人、美味しい料理・・・などなど、素晴らしいものが限りなく存在する。ボクらの人生は、そのホンの氷山の一角をなめるような経験に過ぎないのである。きっとそういうことを暗示する話だったので、印象に残ったのではないかと思う。
で、問題は、この先である。この話から、どのような人生の教訓を引くべきなのか。実は、ボクにはよくわからない。氷山の一角だから、いまある自分、これまで自分がすることができた経験を一期一会として、貴重なものと思い知るべきなのか。それとも、氷山の一角だから、いまある自分、これまで自分がすることができた経験をとりたてて特別なことと考えてはならないと思い知るべきなのか。とっくに不惑の歳を過ぎているが、何を隠そう、ボクは、人生のこうした基本的な姿勢さえ固められない、青二才なのである。

2006年06月25日

神戸のタクシーはなぜ黒いか

研究会がおわり、ボクらは神戸大学の前のバス停でバスを待っていた。すこし待ち時間が長かったので、ボクは、行きのタクシーの中で運転手さんから仕入れたネタをみんなに披露しようと思った。
ボク「ねえねえ、どうして神戸のタクシーって、みんな黒塗りなのか、知ってます?」
みんな「いや、知らない」
ボク「どうもそれは震災と関係あるらしいんですよ・・・」
行ってみればわかるが、新神戸の駅へ降り立つと、黒色のタクシーがずらりと並んでいる。ボクは、随分前から、このことが気になっていた。ま、はっきりいって、ちょっと怖い感じがするほどである。神戸といえば、「その筋」でも有名だからね。だが、その運転手さんによると、黒いタクシーが多いのは、「その筋」とはあんまり関係ないのだそうである。彼は、神戸のタクシーがみな黒くなったのは、震災の後だったという。なぜかというと、震災の後、沢山の葬祭があった。そういう場では、緑やオレンジや黄色のタクシーでは人を送れない。それで、会社も個人タクシーも色つきをやめていった、というのである。
ボクは、この説明にとっても納得したので、得意になってバス停でそれをみんなにしゃべっていた。そしたら、久米先生が横から口を挟んできた。「それ、キミ、よそもんと思われて、調子ようだまされたんヤデ。どうせ、タクシーん中で、東京弁でペラペラとしゃべっとったんとチガウ?」
久米さんにいわせると、神戸にも、カラフルなタクシーはまだたくさんあるという。震災後の葬儀のせいでタクシーがみな黒塗りになったなんて話は、聞いたことがない。ボクがつまらないことを尋たんで、運転手はからかうつもりでそのまことしやかな説をとうとうと述べたのだ、と・・・きっと、今頃どこかの飲み屋で、運転手仲間の「今日の面白い客」として、笑いのネタになっているだろうと・・・
ボクは、久米さんにいわれて、そうかなあと思い返してしまった。たしかに葬儀に黒のタクシーでなければならないなんてことはないかも・・・そういえば自分は騙されやすい方かも・・・ああ、自分はとんだお人好しかも・・・。
そしたら、久米さんが追い討ちをかけるようにいう。「そうそう、ここのバス停って、イノシシの家族が毎日通るんで有名なんやって、知ってた?」ボクは、これにはアッタマにきて、「イノシシ?あのねえ、どこまで人を騙されやすいと思っているんですか」と噛み付いた。ところが、である。実は、このイノシシの話は本当で、神戸大学周辺では有名だということがわかった。さてはて、いったい人の話というのは、何をどこまで信じてよいものか、まったく自信を無くしてしまった。
ちなみに、帰りのタクシーでも、ボクは運転手さんに「新神戸の駅前って、黒いタクシーばかりですよね、あれって、なんか震災と関係あるんでしょうかね」と、すっとぼけて聞いてみた。そしたら、その運転手さんはいう。「ああ、それは駅のそばに神戸オリエンタルホテルが開業してからですね。最初、ホテルが黒塗りのタクシーしか、中に入れなかったんですわ。色つきだと、お客さんが途中で降ろされちゃって、評判悪かったんですわ」
ヘン、そう簡単に騙されるものかと、ボクは、腹の中でしっかり思っていたのであった。

2006年06月19日

マイルス・デイヴィスと中田英寿

観客に背を向けてトランペットを吹く男、それがマイルスであった。
観客に媚を売ることなく、どこまでもよい音楽を追求した。ジャズに数々の革命を引き起こし、心に沁みる名演奏や美しいメロディーをたくさん残した。もちろん、そのレコーディングだけでも、歴史に名を残す大業績である。しかし、ボクは何より、多くの若手ミュージシャンの才能を引き出し育てたことが、マイルスのもっとも偉大な業績ではなかったか、と思う。彼の影響を受けた次世代の、そしてそのまた次世代のミュージシャンたちが、次々と音楽を進化させている。
マイルスについてのドキュメンタリーをみたことがある。その中に次のようなエピソードがあった。若いかけ出しの頃、マイルス率いるクィンテットに入ってサックスを吹いたことのあるミュージシャンの話しであったが、あるときそのミュージシャンがステージで、不注意にも、出してはいけない音を吹いてしまったのだそうである。本人いわく、それは、演奏の流れをぶち壊してしまうような、致命的なミスであった。しかし、マイルスは、その瞬間、絶妙な音を自分のトランペットで吹いて、そのミスをカバーしたのだそうである。それで、観客はそんなミスがあったことにまったく気付かなかった。「なぜ、あんな芸当が瞬時にできてしまうのか」と、そのミュージシャンはなかばあきれるように、マイルスの稀有な才能を褒めたたえていた。マイルスがジャズ界のトップに長く君臨していたのは、そうした確かな才能を誰もが認めていたからにほかならない。
さて、中田英寿の話。ボクの見るところ、彼は、日本のサッカーについての、数少ない健全な批評家である。ワールドカップ関連でテレビに出てくる解説者たちは、そのほとんどが、ことさら日本のサッカーについて好意的というか、楽観的なことばかり強調する。解説をするのでなく、「がんばってほしいですね」とか「勝ってほしいですね」とか、ボクらと同じ目線で、単に応援しているだけではないか、と思うような人もいる。しかし、批評家は、冷徹な批評をするのが本来の役割である。ある意味では、聞きたくもない批評をいう人、嫌われ者になることを引き受けるものがいなければ、日本のサッカーがこれからよくなっていくことはありえない。聞きたくもない批評がなされて、選手の側が怒って発奮し、それを乗り越えるべく努力するようにならなければ、世界で通用するようなサッカーは生まれない。そのような批評家が不在の中で、中田は自ら批評家の役割を買ってでている。彼を個人主義的とか孤高の人などと称するものがいるが、ボクはとんでもない勘違いだ、と思う。彼ほど真剣に、日本のサッカーを考えているプレイヤーはいない。テレビ局との契約を第一に考えて辛口な批評をすることを控える解説者たちこそ、自分勝手で個人主義的なのである。
昨日の試合を見てもわかるとおり、中田は、他のどの選手よりも運動量が多い。自分が先頭にたち、まず自分が範を示して、まわりの信頼を勝ち得ようとする。本当に素晴らしい。たとえ、決勝トーナメント進出はならなくても、中田の姿は、われわれの記憶に刻まれていくであろう。そして、彼のパッションは、まちがいなく、次世代の優秀なサッカープレイヤーたちへと、引き継がれていくであろう。

2006年06月09日

早大正門行きのバス

朝、高田馬場から早大正門行きのバスを利用することがある。
ボクは、この経路で通勤することが、最近とても気に入っている。
これから梅雨に入るが、天気の悪い日には、雨の中を歩く距離をなるべく短くしたいと思うので、大学の正門の直ぐ前まで連れて行ってもらえるのは、とてもありがたい。
一方、天気の良い日にバスに乗るのも、もちろん気分がよい。地下鉄ではなく、地上を走るバスを利用して、明るい外をボンヤリと眺めていると、リラックスできる。たいてい、ボクは、一番後ろの左側の窓際の席にすわって、立ち並ぶラーメン店や古本屋、「馬場歩き」をしている早大生たちのファッションなどを何の気なしに観ている。ときどき、その中にひときわ背の高い飯島先生を発見して、びっくりすることもある(彼にいわせると「馬場歩き」だけが、いまの彼にとっての唯一の運動なのだそうである)。
バスに乗り合わせると、地下鉄や電車とは違った空気が流れている。うまく言えないが、それは、アットホームな、ほのぼのした空気である。バスの空間は狭いので、人と人との距離が近い。揺れるし、込んでいるとすぐぶつかったりしてしまう。しかし、そのように狭い分、バスに乗り合わせると、知らず知らずのうちに、人は誰しも、同乗者に対して気を使うようになるのだと思う。そして、席とかスペースとかの譲り合いが自然に起こっているような気がする。
このバスに乗り合わせる人のほとんどが、早稲田の関係者である、というところも、バスの中に暖かい空気を生んでいる。基本的に、地下鉄や電車の中には、冷たい他人の関係しか存在しない。しかし、このバスに乗り合わせる人々は、早稲田へ行くという共通の目的で、すでに縁のつながっている人々なのである。狭い中に、同じ目的を持っている人が集まる空間というのは、まちがいなく、コミュニケーションが成立しやすい空間である。だから、バスに乗ると、意識するわけでもないのに、目が知り合いの先生や学生がいないかなと探していることに気付く。久しぶりに再会したらしい学生同士が、今日は何の授業をサボルつもりなのかなどと話しているのを聞くと、こちらも、まさかオレの授業のことを話しているんじゃないだろうな、などとつい聞き耳を立ててしまう。バスの中では、ボクは知らなくても、ボクのことを知っている学生が乗っているかもしれないという意識も働いて、チラチラと横目でボクの方をみている学生がいても、嫌な気分がしない。ただ、ボクとしては、(エヘン)若い格好しかしないので、うまく周りの学生に紛れ込んでいるつもりなんだけどね。
ところで、高田馬場駅でこのバスに乗ろうとすると、とっても快活な女性が、乗り場を仕切っている。「ハイ、それでは、発車しまーす。お待たせしましたー、後ろオーライ!」この声を聞くと、とっても元気になる。というか、そうだ、ボクも今日一日、元気いっぱいで仕事をしなきゃ、という気分にさせられるのである。