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マイルス・デイヴィスと中田英寿

観客に背を向けてトランペットを吹く男、それがマイルスであった。
観客に媚を売ることなく、どこまでもよい音楽を追求した。ジャズに数々の革命を引き起こし、心に沁みる名演奏や美しいメロディーをたくさん残した。もちろん、そのレコーディングだけでも、歴史に名を残す大業績である。しかし、ボクは何より、多くの若手ミュージシャンの才能を引き出し育てたことが、マイルスのもっとも偉大な業績ではなかったか、と思う。彼の影響を受けた次世代の、そしてそのまた次世代のミュージシャンたちが、次々と音楽を進化させている。
マイルスについてのドキュメンタリーをみたことがある。その中に次のようなエピソードがあった。若いかけ出しの頃、マイルス率いるクィンテットに入ってサックスを吹いたことのあるミュージシャンの話しであったが、あるときそのミュージシャンがステージで、不注意にも、出してはいけない音を吹いてしまったのだそうである。本人いわく、それは、演奏の流れをぶち壊してしまうような、致命的なミスであった。しかし、マイルスは、その瞬間、絶妙な音を自分のトランペットで吹いて、そのミスをカバーしたのだそうである。それで、観客はそんなミスがあったことにまったく気付かなかった。「なぜ、あんな芸当が瞬時にできてしまうのか」と、そのミュージシャンはなかばあきれるように、マイルスの稀有な才能を褒めたたえていた。マイルスがジャズ界のトップに長く君臨していたのは、そうした確かな才能を誰もが認めていたからにほかならない。
さて、中田英寿の話。ボクの見るところ、彼は、日本のサッカーについての、数少ない健全な批評家である。ワールドカップ関連でテレビに出てくる解説者たちは、そのほとんどが、ことさら日本のサッカーについて好意的というか、楽観的なことばかり強調する。解説をするのでなく、「がんばってほしいですね」とか「勝ってほしいですね」とか、ボクらと同じ目線で、単に応援しているだけではないか、と思うような人もいる。しかし、批評家は、冷徹な批評をするのが本来の役割である。ある意味では、聞きたくもない批評をいう人、嫌われ者になることを引き受けるものがいなければ、日本のサッカーがこれからよくなっていくことはありえない。聞きたくもない批評がなされて、選手の側が怒って発奮し、それを乗り越えるべく努力するようにならなければ、世界で通用するようなサッカーは生まれない。そのような批評家が不在の中で、中田は自ら批評家の役割を買ってでている。彼を個人主義的とか孤高の人などと称するものがいるが、ボクはとんでもない勘違いだ、と思う。彼ほど真剣に、日本のサッカーを考えているプレイヤーはいない。テレビ局との契約を第一に考えて辛口な批評をすることを控える解説者たちこそ、自分勝手で個人主義的なのである。
昨日の試合を見てもわかるとおり、中田は、他のどの選手よりも運動量が多い。自分が先頭にたち、まず自分が範を示して、まわりの信頼を勝ち得ようとする。本当に素晴らしい。たとえ、決勝トーナメント進出はならなくても、中田の姿は、われわれの記憶に刻まれていくであろう。そして、彼のパッションは、まちがいなく、次世代の優秀なサッカープレイヤーたちへと、引き継がれていくであろう。