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2013年09月19日

「子守唄としてのボブ・マーリー」仮説

ボクらの息子(現在3ヶ月)は、ボブ・マーリーが大好きである。
(…….と、ボクは思っている。)
ボブ・マーリーの唄をバックに流しながら抱いていると、寝てくれる確率が高い。(……と、ボクには思えてならない。)
ご存知の通り、ボブ・マーリーには、政治色の濃い曲も多い。しかし、ボクのもっているベストアルバム「レジェンド」の1曲目は恋愛ソング、Is This Love、から始まる。そして、ウチの息子は、この曲でダメでも、2曲目のNo Woman No Cryがかかっている間には、たいてい眠りに落ちる。Is This Loveが3分51秒、No Woman No Cryが7分ほどだから、ボブ・マーリーには、たった10分で、ボクらの赤ちゃんを眠りへと導いてくれる効果があることになる。

I wanna love you, and treat you right
I wanna love you, every day and every night
We'll be together, with a roof right over our heads
….. Is this love, is this love, is this love, is this love that I am feeling?

Is This Loveはもちろん男女の唄だけど、この詩は(息子を抱いているボクには)そのまま親が子へ伝えるメッセージとして響いて、ジーンとくる。
で、2曲目のNo Woman No Cryが始まると、プフっと口元が緩んでしまう。
詩をよく読むと、これは、No, Woman, Don’t Cryと、ある女性に向かって「泣くなよ」と慰めている曲なんだけども、最初のNo Woman No Cryがずっと続くところだけを聴いていると、「女がまわりにいなければ、泣かないですむ」という意味の失恋の唄、あたかも男がもうひとりの男を慰めているかのような唄にも聞こえてくる。で、父親であるボクが、まだこれからおそらく沢山恋愛を経験するだろうわが息子にむかって、「女なんてさあ、ホント、面倒だからさ、あんまり、かかわるんじゃないぞ」とでも、言い聞かせているように思えてくるのである。プフっ。
さて、ボブ・マーリーに子守唄効果があるなどというと、「そんなこと、あるもんか」という反論が聞こえてきそうである。現に、ボクのかみさんは、「なに聴かせたって、静かになるんじゃない?」と疑っている。
しかし、ボクには、どうしてもあのレゲイのリズムに、何らかの秘密があるのではないかと思えてならない。レゲイのリズムには、ほかのどの音楽にもくらべて、自然に腰や膝などをつかって身体全体が動くようになる効果がある気がする。ただ単に(クラシックのゆったりとした音楽のように)ゆらゆらと揺れているのでもなく、(ロックのビートのように)早いだけでもなく、なんというのか「行って戻ってくる」ような動きがそこに刻まれている。
などということを考えていたら、ボクの娘が、こんな傑作ビデオがあると教えてくれた。

http://www.youtube.com/watch?v=TVKy7PjDutM

これみちゃったら、ボブ・マーリーの子守唄効果を否定することは、もう一発で絶対できなくなると思うね。

2013年09月11日

マンションベランダでの禁煙をめぐる討議

管理組合理事長ソクラテス:では議題に入りましょうか。当マンションでは共有部分でタバコを吸ってはならないことになっていることは、みなさんご承知だと思います。しかし、最近、他の階のベランダから流れてくるタバコの煙で迷惑をこうむっているという苦情を、私ども管理組合で何件か受け取っております。ですので、理事長としまして、この件について、どう対処するべきかみなさまのご意見をうかがえれば、と存じます。
アリストテレス理事:タバコを吸うことは、百害あって一利なしで、そもそもその人ご自身の徳に反することであります。タバコを吸うことで、住人のみなさまに、すなわちこのマンション社会全体に迷惑をかけているわけですので、今後は自制して頂くように求めていくべきでしょう。
ミル理事:小生には、徳とか社会とかよりも、タバコを吸いたい人たちの権利がタバコを吸いたくないという人たちの権利、あるいはタバコの匂いをかぎたくないという人たちの権利を犯しているかがどうかが、最も重要だと考えます。で、この場合は、前者が後者を侵害しているので、禁煙というルールが正当化されるのである。こう考えればよろしいのではないでしょうか。
ノージック理事:ジョン君、いつもながらだが、君の意見はどうも中途半端で、半分までは同意できるが、あとの半分は賛成しかねる。だいたいベランダがマンションの「共有部分」という定義がおかしいんですよ。ベランダは各部屋についていて、それはそこに住んでいる人が占有している部分ではないか。だから、そこで何をしようと、他人からとやかくいわれる筋合いはない、と考えるべきです。他の階のタバコの匂いが権利を侵害するというのなら、外の排気ガスや隣の焼き肉屋から流れてくる匂いだって、同じことになる。一日中タバコの匂いがするわけではあるまいし、気にする方が窓を閉めればよい、それだけのことだと思いますよ。
ロック理事:私は、どうも皆さんとは違う角度から、この問題を考えてみたいと思うんですが、よろしいでしょうか・・・。私自身は喫煙しないんですが、ここの住人の中には愛煙家の方もおられて、このマンションを購入する時、ベランダで喫煙してはならないというルールがないことを確かめた上で、購入を決断したという人もおられると思うわけですね。そういう方々からすれば、原初のルールに入っていなかった条件をあとから入れるというのは、それこそ契約違反ではないか、とお感じになるでしょうね。私は、その感覚は正しいと思います。そのような契約違反は許されないのではないでしょうか。
ハバーマス理事:はあ?まったくナンセンスですな。そんなことをいったら、技術の進歩や社会の変化、そうしたことにともなう価値観の変容が、いつまでたってもルールに反映されない、ということになってしまいます。いま、このように管理組合の理事会で熟慮をつくして議論していればこそ、原初の時点での契約に反していても新たにルールを付け加えることは正当化される、と考えるべきです。
ヒューム理事:ま、ロック理事のお考えの浅はかさは、本当に救いようがないですな。そんな原初契約などというものを金科玉条のように守って成り立っているマンションがどこにあると思いますか。もし原初契約などというものがあるとする、ならですよ、当然のことながら、そこには、時代遅れになったルールはおのずと変わっていくべきものだという合意も含まれていたと考えるべきでしょう。だから、当初の契約に「ベランダでタバコを吸ってはならない」という規則がなかったにせよ、否、たとえ「ベランダでタバコを吸ってもよい」という規則があったにせよ、それはいまの時点でのルールの根拠にはまったくならんのですよ。

2013年09月04日

シリア情勢についての雑考

アメリカのオバマ大統領が、シリアに軍事介入すべきかどうかで逡巡している。ここに至って、連邦議会から事前承認を得ることを決定したからである。アサド政権の化学兵器使用を機に、すぐさま介入すべきだと主張していた(つまり議会には事後承認を求めればよいと考えていた)ケリー国務長官らは、はしごを外された格好である。
オバマ氏が議会の承認を求めることについては、いくつかの理由が挙げられている。最も直接的には、イギリスのキャメロン首相がアメリカと連携した軍事介入についての議会の承認を求めたが失敗したことがある。この経緯から、オバマ氏が孤立感を深め、すくなくとも米国としてはまとまって行動したいと考えるようになったのだそうである。また、オバマ氏には、かつて大量殺戮化学兵器の存在を理由にイラクに介入して失敗したブッシュ前大統領の轍を踏みたくないという思いが強いらしい。さらに、オバマ氏がG20サミットに出発するので、その間、議会にこの問題を熟考させるという形で、時間稼ぎをした、ということもいわれている。
ボクは、シリア情勢とアメリカの対応を、ここまで見守ってきたが、自分の考えを整理するためにも、いくつかの点をここに書き留めておきたいと思う。
1)周知のように、アメリカでは、ベトナム戦争以後、国家が戦争をする決定権を誰がもっているかについて、憲法上および政治的な議論がずっと行われてきた。それは、アメリカの建国当時から続いている、行政府と立法府との間の「均衡と抑制」をどのようにして維持するのが正しいのかという国家の統治構造に関する論争のひとつの表れである。最近、日本では集団的自衛権についての議論が盛んであるが、その議論を進める上でもこうした統治構造の側面からどのような考慮が必要であるかを考えていくことは重要だと思う。
2)シリアに対して軍事介入すべきだとする論者は、化学兵器を使用してはならない、あるいは市民が大量に虐殺されることは許されないという国際規範があると主張する。しかし、一般市民が内戦で殺戮されることはこれまで世界のさまざまな地域で起こってきたし、また「化学兵器」のみが特別扱いされる理由もそれほど明確でない。おそらく、介入論者であろうとなかろうと、またシリアであろうとどこだろうと、殺されたり拷問にあったり餓死させられたりというように、罪のない人々の基本的人権が踏みにじられることに対しては、誰もがけしからんと思い、なんとかその状況が改善されるべきだと考えると思う。しかし、もしそのような思いが、アメリカというある特定の国家に(あるいはそれに協力しようとするフランスに)、軍事介入をする大義名分を与えることを許すとすれば、それは、この世界は主権国家の集合として成り立っているという、もう一つ別の国際規範をふみにじってもよいといっていることを意味する。ここには、人権という国際規範と主権という国際規範との競合ないし対立がある。あるいは、こういいかえてもよい、(アメリカというひとつの)国家が、人権という国際規範を守るために行動しようとしているところに、根本的な矛盾ないし逆説があるのだ、と。
3)介入論者は、今回の件では、「化学兵器の使用は一線を超える、それを超えたら報復を覚悟しろ」と言い続けてきたアメリカの信用がかかっている、と主張する。「もしここで言葉どおりに実行しなかったら、イランや北朝鮮がそれをどう評価するかを考えなければならない」と。いうまでもないと思うが、これは、人ごとではない。今回の件については、イランや北朝鮮のみならず、中国もじっと見つめている。つまり、それは「日米安保条約の適用範囲である」と繰り返してきたアメリカの言明の信用性にも、当然かかわっているのである。