シリア情勢についての雑考
アメリカのオバマ大統領が、シリアに軍事介入すべきかどうかで逡巡している。ここに至って、連邦議会から事前承認を得ることを決定したからである。アサド政権の化学兵器使用を機に、すぐさま介入すべきだと主張していた(つまり議会には事後承認を求めればよいと考えていた)ケリー国務長官らは、はしごを外された格好である。
オバマ氏が議会の承認を求めることについては、いくつかの理由が挙げられている。最も直接的には、イギリスのキャメロン首相がアメリカと連携した軍事介入についての議会の承認を求めたが失敗したことがある。この経緯から、オバマ氏が孤立感を深め、すくなくとも米国としてはまとまって行動したいと考えるようになったのだそうである。また、オバマ氏には、かつて大量殺戮化学兵器の存在を理由にイラクに介入して失敗したブッシュ前大統領の轍を踏みたくないという思いが強いらしい。さらに、オバマ氏がG20サミットに出発するので、その間、議会にこの問題を熟考させるという形で、時間稼ぎをした、ということもいわれている。
ボクは、シリア情勢とアメリカの対応を、ここまで見守ってきたが、自分の考えを整理するためにも、いくつかの点をここに書き留めておきたいと思う。
1)周知のように、アメリカでは、ベトナム戦争以後、国家が戦争をする決定権を誰がもっているかについて、憲法上および政治的な議論がずっと行われてきた。それは、アメリカの建国当時から続いている、行政府と立法府との間の「均衡と抑制」をどのようにして維持するのが正しいのかという国家の統治構造に関する論争のひとつの表れである。最近、日本では集団的自衛権についての議論が盛んであるが、その議論を進める上でもこうした統治構造の側面からどのような考慮が必要であるかを考えていくことは重要だと思う。
2)シリアに対して軍事介入すべきだとする論者は、化学兵器を使用してはならない、あるいは市民が大量に虐殺されることは許されないという国際規範があると主張する。しかし、一般市民が内戦で殺戮されることはこれまで世界のさまざまな地域で起こってきたし、また「化学兵器」のみが特別扱いされる理由もそれほど明確でない。おそらく、介入論者であろうとなかろうと、またシリアであろうとどこだろうと、殺されたり拷問にあったり餓死させられたりというように、罪のない人々の基本的人権が踏みにじられることに対しては、誰もがけしからんと思い、なんとかその状況が改善されるべきだと考えると思う。しかし、もしそのような思いが、アメリカというある特定の国家に(あるいはそれに協力しようとするフランスに)、軍事介入をする大義名分を与えることを許すとすれば、それは、この世界は主権国家の集合として成り立っているという、もう一つ別の国際規範をふみにじってもよいといっていることを意味する。ここには、人権という国際規範と主権という国際規範との競合ないし対立がある。あるいは、こういいかえてもよい、(アメリカというひとつの)国家が、人権という国際規範を守るために行動しようとしているところに、根本的な矛盾ないし逆説があるのだ、と。
3)介入論者は、今回の件では、「化学兵器の使用は一線を超える、それを超えたら報復を覚悟しろ」と言い続けてきたアメリカの信用がかかっている、と主張する。「もしここで言葉どおりに実行しなかったら、イランや北朝鮮がそれをどう評価するかを考えなければならない」と。いうまでもないと思うが、これは、人ごとではない。今回の件については、イランや北朝鮮のみならず、中国もじっと見つめている。つまり、それは「日米安保条約の適用範囲である」と繰り返してきたアメリカの言明の信用性にも、当然かかわっているのである。