死について
最近、死について考えることが多かった。
そこで、今日は、死について、これまで聞いたり考えたりしたことの中から、すこし書いてみようかと思う。
・人間は、他人の死しか経験することができない。人間が自分の死を経験することは(「経験」なる行為が生きている間しかできないので)定義上ありえない。だから、「死とはなにか」というような哲学的思索をするとき、われわれはあくまで他人の死を念頭に置かざるを得ない。
・柄谷行人がどこかで書いていたが、人間は「死」と「不在」をうまく区別することができない。ある人が長い間不在であることと、ある人が死んだということがもたらす効果は、経験的には同じはずである。そうだとすると、「死」は社会的にしか定義することができないことになる。もっといえば、人間が死ぬためには、葬式という儀式がなければならない。つまり、人間は、その共同体の中で「○○さんは死んだ」ということをみんなが確認しあうことを通して初めて死ぬ、というわけである。
・肉体は滅びるけれども魂や精神は死なないという考え方は、世界のいろいろなところに共通してある考え方だそうである。そういう考え方をもっとも良く表しているのは、次のような社会である。その共同体社会の中で、△△さんが死んだとする。するとその共同体に次に生まれてくる子供に△△という名前をつける。そうして、魂や精神は循環し、決して去っていかないと考える社会がある。
・この前、タクシーに乗ったら、運転手さんが三浦半島のさきの三崎市にお住まいの方で、その地方での葬式に関して、興味深い話を聞かせてくれた。もともとその地元に住んでいる人たちは、葬式というのは、へべれけになるまで飲んで騒いで、陽気に行うものだと考えている。しかし、新しくこの地方へ移り住んだ人たちは、葬式というのは、しめやかにおごそかに行うものだと考えている。この考え方の違いが、けっこう頻繁に喧嘩のたねになるのだそうである。これも、人間の死の社会性を物語る、ひとつのエピソードのように思える。
・先日、ある知り合いが亡くなり、お通夜に参列した。その方の遺言が尊重されて、無宗教でとり行われ、献花するだけのとてもシンプルなお通夜だった。このように、花輪は固くお断りしますとか、身内だけで済ませますとか、生前からの本人の意思に従って通夜や葬式を行う人たちが多くなってきたように思う。これらは、社会的な死を自分の死として取り戻そうとする試みなのかもしれない。こうした傾向が強くなってきたことをどう考えればよいのか、ボクにはよくわからない。
・ただボクも、最近、自分の葬式のことを考えるようになった。ボク自身も、自分の葬式では、ボクが好きだった音楽をかけてもらいたいと思っている。オスカー・ピーターソンが弾く「Hymn to Freedom」。『Night Train』というアルバムの最後に入っている曲である。