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2014年01月31日

オバマさんの5度目の一般教書演説について

遅ればせながら、オバマ大統領のstate of union addressを聴いた。なぜこれを日本語で「一般教書演説」と訳すのか分からないが、合衆国(union)の現状(state)を議会に報告するというのが、この演説である。日本のような議院内閣制と異なり、三権分立が確立しているアメリカでは行政府の長(すなわち大統領)が立法府(すなわち議会)に足を踏み入れることはほとんどない。議会の側が大統領を招いて、この演説をしに来てもらうのである。だから、日本の総理大臣が演説するときのように、議場で議員がヤジを飛ばすなどということは起こらない。それは非礼にあたるからである。因みに議会は大統領だけでなく閣僚や統合参謀たち(制服組)も招待するし、またもうひとつの三権のトップである連邦最高裁判所の判事たちも、その場に招いている。そのような席で、招いた側が失態を演じる分けにはいかないのである。
さて、今回の演説について、ボクが感じたいくつかの印象をメモにまとめておきたい。まず、今回は、圧倒的に国内問題ばかりが語られた演説だった。対外関係についてはイランとの外交交渉の進捗を報告したぐらいで、日本のこと、中国のこと、アジア太平洋のことは、話題にも上らなかった。ま、これはいつものことではあるが、しかし、今回はいつも以上に外交については語らないという抑制が効いているような気がした。外交についてしゃべり出すと、スノーデン事件によって露呈したアメリカの諜報活動について弁解しなければならなくなるという要因も、どこかで働いていたのではないか。もしそうだとすると、スノーデン事件はアメリカの対外政策を内向きにするという(日本にとってみれば)あまり好ましくないボディブロー効果をもっているということになるのかもしれない。
より全般的にいえば、今回の演説は、ほとんどインパクトを残さない、どちらかというと広く浅く表面をさらうだけの演説、という感じがした。大きな懸案だった医療保険改革をなんとかやりとげたものの、それが廃案に追い込まれる不安を抱えていて、ディフェンシブになっている印象だった。今年の目玉はおそらく移民政策だろうということだが、この分野に関する部分でもリーダーシップが感じられる演説ではまったくなかった。
今回の演説は、オバマ大統領にとって二期の二回目の演説で、あと二回この演説をする機会が与えられているのにもかかわらず、前評判では、インパクトのある演説をできるのは今回が最後だろうといわれていた。来年と再来年の演説はすでに2016年の大統領選挙の流れにかき消されてしまうだろうから、というわけである。しかし、今回の演説は、すでにその流れの中に巻き込まれていたのではないか、というのがボクの解釈である。現在、民主党と共和党の間では、女性に優しい民主党、そうでない共和党という(民主党側からの)レッテル張りをめぐって、激しい(というか口汚い)論戦が起こっている。ヒラリー・クリントンを次期大統領候補にしてもり立てようとする民主党側に対して、共和党側は「大統領職にあったとき、若いインターンをだまくらかして性行為までした男の妻」としてヒラリーをおとしめようとしているのである。で、今回のオバマ大統領のスピーチは、女性の地位向上についてのメッセージがここかしこに力強く感じられるものだった。だから、オバマ大統領は、今回は自らの政権が直面する政策課題を具体的に述べることよりも、これから二年後における自らの党の命運にプライオリティをおいていたのではないかと思えるのである。もちろん民主党への支持が高まることが、これから2年間の議会運営をやりやすくするというメリットも、そこには当然あるわけではあるが。

2014年01月26日

別にNHKの会長がなんといおうと...

以下の文章は、かなり前に頼まれて、早稲田のジャーナリズムスクールに寄稿したもの(http://www.waseda-j.jp/aboutus/jopinion/08-2)であるが、この際再録するに値するかもな、と思いました。

「ジャーナリズムと政治、ジャーナリズムという政治」
 リベラリズムやマルキシズムなど、すべての「イズム」がそうであるように、ジャーナリズムとは、ひとつの主義主張である。ひとつの政治思想、あるいは政治運動といってもよい。
 日本では、このことがよく理解されてないのはないか。逆に、日本では、ジャーナリズムは政治的に中立でなければならない、と考えている人が多いように思う。その考えは、間違っている。
 たとえば、民主化が成功したばかりのある国で、初めて選挙が行われたとしよう。ところが、有効投票を確定する選挙管理人が選挙結果を発表するプロセスを、旧政権の残党が暴力や賄賂を使って妨害しようとしたとする。このとき、ジャーナリズムは、その事実をありのままに報道しなければならない。そのような報道が、政治的に中立ではない結果を生むことになるのは、目に見えている。もしかすると、報道がその国の政治の将来を大きく変えてしまうことになるかもしれない。だが、このような状況においてジャーナリズムに期待される役割は、断じて、民主化勢力と旧政権勢力とのあいだで「中立」の立場を貫くことではない。
 ジャーナリズムという主義ないし思想がその中核に抱く価値は、政治的中立性ではなく、独立性、つまりどのような圧力からも独立して存在するということでなければならない。どのような圧力からも独立しているという条件が整わなければ、事実を事実として取材するということも、真実を真実として伝えることもできない。上記の例では、選挙妨害を報道すること自体に対し暴力や賄賂を使った妨害が起こる可能性があるが、ジャーナリズムには、そのような圧力から独立し、文字通り命をかけて報道を続けるという覚悟とコミットメントが要求されるのである。
 ジャーナリズムは、それ自体が主義主張なので、民主主義からも独立していなければならない。このことも、日本では、よく理解されていないのではないかと思う。たしかに、ジャーナリズムは、有権者の意見を吸い上げたり、政治家や政党の公約を伝えたりというように、民主主義が機能することを補完する役割を担うこともある。しかし、ジャーナリズムと民主主義が、いつも同じ方向を向いているとは限らない。場合によっては、ジャーナリズムには、民主主義の圧力からも独立して、民主主義に起因するさまざまな問題を告発することが求められる。もちろん、多数派の意志が「民主主義的」にジャーナリズムの活動を制限しようとする場合には、ジャーナリズムはそのような動きに対し敢然として、立ち向かわなければならない。
 いうまでもないと思うが、新聞社やテレビ局で雇用されていることが、ある人をジャーナリストにするのではない。ジャーナリストとは、ジャーナリズムという主義主張、あるいは政治思想ないし政治運動にコミットしている者を指す。たとえ○○新聞の記者であっても、その人は○○新聞からも独立していなければ、ジャーナリズムを貫くことはできないのである。


で、ですね、今日ボクのいいたいことは、だからジャーナリストの風上にもおけないような人がNHKの会長になってけしからん、ということではないんですね。だって、NHKで働いている個々の人たちにジャーナリズム魂があるなら、会長が誰であれ、関係ないはず、でしょ。そう、会長が何かいったからってそれで自らの魂を売り渡すようじゃ、彼らはそもそもジャーナリストじゃないんだから。