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小沢判決と検察審査会制度について

小沢判決とそれについての報道やコメントから、いろいろなことを考えさせられた。まず身近なところからいくと、今日付け(だと思う)の朝日新聞に、「小沢氏無罪、司法改革にも影響 議論進む可能性」という見出しの記事があり、それは次のような書き出しで始まっていた。

小沢一郎・民主党元代表を無罪とした26日の東京地裁判決は、検察審査会という「民意」によって強制的に起訴される仕組みや、検察改革で進む取り調べの録音・録画(可視化)のあり方をめぐる議論に影響を与えそうだ(後略)

この後段部分はさておき、前段部分は、検察審査会をめぐる大きな誤解を象徴していると思った。検察審査会は、たしかに制度全体としては「公訴権の実行に関し民意を反映させてその適正を図るため」(検察審査会法第1条)のものである。しかし、各事件について設けられる個々の審査会は、それぞれ審査員11人で構成されるだけであり(同第13条)、その11人というごく少数の人たちが「民意」を代表しているなどと考えることはできない。小沢氏は、民意ではなく、あくまで(検察審査会もその一部である)司法制度によって起訴されたのだ、と考えなくてはならない。
検察審査会に批判的な人たちが快く思っていないのは、民意の影響ではなく、一般の人々、すなわち素人の集団が司法過程の中で重要な一コマを担っているという点である。ボクは、こちらの方の問題は、十分に議論してしかるべき問題だと思う。民主主義は政治の決定を素人に託すシステムである。しかし、それゆえに、民主主義はしばしば少数派や個人の権利を踏みにじる決定をする。多数派の暴挙に対する最後の防御として司法の救済を位置づけるとすると、司法過程を特別な能力と知識をもった専門家に任せるべきだ、という意見は十分に説得力をもつ。
ボク自身は、前にも違う(裁判員制度の導入についての)文脈において述べた通り、一般の人々が司法のプロセスで役割を果たすことを基本的によいことであると思っている(http://kohno-seminar.net/blog/2009/05/citizenship.html)。しかし、そこに問題もないわけではない。たとえば、陪審員制度を採用しているアメリカにおいて、同制度についてよくなされる批判のひとつは、プロの裁判官が、一般の人々が判決を下すための制度上の「案内役」に徹っする一方で、自分自身、判決を下すことについてまわる重い責任を負わない制度に変質してしまっているのではないか、ということである。似たような問題は、一般の人々が参画するすべての司法制度についても生じる可能性があると思う。
もしも、日本でいまのような検察審査会制度がなかったならば、プロである検察は、いってみれば、つねに背水の陣で、すべての事件に取り組まなければならない。しかし、いまの制度のもとでは、自分たちが起訴できなかったとしても、次なる手段として素人の検察審査会による起訴の可能性が制度的に担保されている。そのことを勘案して彼らの仕事ぶりに悪影響が出る、ということはないのだろうか。もしも、検察審査会制度があるがゆえに、プロが戦略的に振るまい、難しい案件を徹底究明せずに素人に任せがちになるという傾向が生まれるとすると、それはまったく望ましいことではない。
制度の構築は、しばしば「予期せざる帰結(unintended consequences)」を生む。それでも、そうした帰結を予期しようとする努力は、不断に続けていかなくてはならない。