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原発再稼働について

(BSフジ新番組「コンパス」のパイロット収録に際して用意したメモを、多少修正補筆し、ここに再録します。)

野田政権が、原発再稼働をめぐる意思決定の最後のステップに「政治判断」を位置づけたことは、少なくとも二つの意味で問題であった。第一に、民主党政権は、「3・11」後に、すべての原発を停止させるという選択肢があったにもかかわらず、そうしなかったのであるから、同政権は、実は、すでに一つの大きな政治判断をすませていた、つまり「安全であれば稼働させる」という大きな政治判断を終えていた、と捉えなければならない。「最後の段階での政治判断」をアピールすることで、あたかもこの原初の段階での政治判断がなかったかのように振る舞っていることは、おかしい。第二に、したがって、残されていたのは「安全かどうか」という判断であるが、そのような判断ができるのは、専門家であり、政治家であるわけがない。でたらめさん、じゃなかった、班目さんを退場させることもせず、保安院や原子力委員会の組織構造を刷新することもなく、原子力規制庁もつくれてないのであるから、野田政権のここまでの取り組みをポジティブに評価することは、到底できない。
さて、一般論では、国家の政策を決めるべきは、憲法で定められているように国権の最高機関すなわち「国会」か、あるいは民主主義の理念にのっとり直接的な「国民投票」か、のどちらかでしかない。よく責任をもてるのは「政府」しかないとか、「国」が最終的に決めるべきだ、という声を聞くが、ボクにはこれらの主張の意味するところがわからない。もし、政府を「行政府」のみと捉えているのだとすれば、それは民主主義的というよりはエリート主義的である。議院内閣制のもとでの政府とは国会の多数派を意味することを忘れてはならない。また、原発再稼働論議の文脈においてしばしば言及される「国」なるものが、何を指すのかは、曖昧である。仮に将来また原発事故が起こったとき「国」が責任をもつとしても、その補償は、結局は「国民」からの税金と財産でまかなわれることになる。ゆえに、「国が責任をもつ」、というのは、つきつめると、国民自分たちが責任をもつ、ということに等しい。
では、国会が決めるべきか、国民投票で決めるべきか。ボクは、原発の存廃については後者によるべきだと思っている。この選択は、民主主義における意思決定として間接民主制と直接民主制のうち、どういう場合にどちらが選ばれるべきか、その根拠はなにか、という問題である。
もちろん、現代においてすべての意思決定を国民全体の直接投票できめるということは明らかに非効率的であるが、効率性という基準は、間接民主制をセカンドベストとして選ぶ「消極的な」理由にすぎない。そうではなく、意思決定の手続きとして直接よりも間接が選ばれるより積極的な理由があるとすれば、それは後者は「意見の集約」をできるという点をおいてほかにない。そう、このことを高らかにまた理路整然とうたったのは、ボクが尊敬して止まないJ・マディソンによるFederalist Papers第10篇である。100人の人が集まってそこからひとりの代表を選ぶというのは、その100人のまったく異なる意見を取り込んで意思決定をするためではなく、その100個の異なる意見の最大公約数をみつけていくプロセスである。そして、そのような作業が、個別利益にもとづく対立を打ち消し合う、という積極的な意味をもつのである。
しかし、(マディソンが喝破していたように)このような意見集約は、異なる政策争点や異なる利害をいわば「取引」し合うことによってようやっと成立するものである。ボクは、原発の存廃は、他の争点や利害とリンクさせて決めるべき問題ではない、と考える。なぜなら、それは、人間の想像力を超えた影響を次世代に及ぼすかもしれないという意味で、モラルの問題、つまりわれわれ一人一人が自分の胸に手をあてて決するべき問題、だからである。
最後に、日本では国民投票をする法的手続きがない、という意見をきくが、この意見も、ボクには理解できない。国権の最高機関である国会が、原発存廃について「国民投票する」という特別法をひとつ制定するだけの話であると考える。